ヤクザの存在意義を、社会で居場所がない人を引き受けて、一般人に迷惑をかけないように指導をしていると考える説です。ヤクザの親分さんがよく言う言説です。

1、意義

 (1)、概要

  ・ヤクザの供給源は、同和、在日、落ちこぼれである。同和や在日は、社会の制度として彼らを差別し、就職や結婚において疎外されてきた。他方、落ちこぼれは、彼らの個人的な資質により社会にうまく適合することができず、社会から疎外されてきた。このような社会に同化できずに排除されてきた人達でも生きていかなければならない。そこで、これらの一部の者はヤクザに入ったのである。

 (2)、同和や在日の就職差別の実態

   日本部落史(30) 部落地名総鑑事件

   在日コリアンの歴史(15) 就職差別撤廃運動   
 
2、田岡家(『山口組三代目 田岡一雄自伝』田岡一雄、徳間書店、2006)

 (1)、
三代目山口組組長・田岡一雄(自伝、233,244)

   山口組というのは神戸芸能や甲陽運輸とは関係はない。たしかに、わたしは二つの会社の社長をしていたが、これはわたし個人の仕事であって、山口組の会社ではない。マスコミも警察もそこを混同している。山口組というのは一種の親睦団体なのだ。よその組のことは知らぬが、わたしのところは気の合う者同士が集まって喜びも悲しみもわかち合う、それだけの団体である。(中略)山口組は事業をしないから資金はいらないのだ。子分たちもそれぞれ職業をもち、おたがいに葬式があれば香奠を出し合い、祝いごとがあれば祝儀を出し合って助け合っていこう。それが親睦団体としての山口組の行き方なのだ。上納金制度があるだろう、という失礼なインタビューをうけたこともある。下の者が上の者に稼ぎの何割かをさしだすのだろう、という勘ぐりである。そういう組もあるようだが、わたしは下の者に食わせてもらうほど、生活には困ってはいない。下の者から養ってもらうのは、親分としてのわたしのプライドが許さない。上の者が下の者の面倒をみてやるのが道理というものであって、上納金制度など山口組には必要はない。それよりも、わたしを頼って集まってくる者たちが、一日もはやく、まともな職業をもって自活できる道を考えている。それがわたしのつとめでもある。わたしのところに集まってくる者は、みんないいところをもっているくせに、親の手にも負えない拗ね者が多い。放っておけば悪くなる一方だ。それを規正し、なんとか人並に働かそうと心配しているのが組である。

 (2)、田岡フミ子(自伝、472)

  会社の社長を辞するのは自分の意志一つで可能ですが、山口組組長を引退するとか、組を解散するということは、自分の意志のみで左右できるものではありません。月給で雇っているものでもなく、恵まれぬ環境に育った者たちが田岡の人間性を慕いその意気に共鳴し、喜怒哀楽もともにせんとして寄せ集まり、田岡を心のよりどころとしてできあがった山口組ですもの、自分の利害だけで簡単に投げ出すことはとうていできぬことです。(中略)「なにがなんでも潰してしまえ」こんな当局の在り方にまず疑問をもつと同時に、では解散させたあとはどうなるのか。なんの行政指導も対策も明示せぬまま、きびしく冷たい社会につき離し、それで悪いことをすれば捕まえる。犯罪をおかさぬまえに善導するというようなことは思いもよらぬことでしょう。

 (3)、田岡満(自伝、477)

  父には、全身全霊を賭けて面倒をみないと、どこをどう突っ走って爆発するかわからない「子ども」がいくらでもいた。ありあまるエネルギーを持ちながら、その使い方がわからず、社会からも身内からも見放されたような若い者をいかに生かし切るかー父が自らの仕事と定めていたのは、これだった。
 
3、六代目山口組組長・司忍(平成23年(2011)10月1日の産経新聞のインタビュー)

  そもそもやくざをしていて得なことはない。懲役とは隣り合わせだし、ときには生命の危険もある。それでも人が集まってくる。昔から言われることだが、この世界で救われる者がいるからだと思う。山口組には家庭環境に恵まれず、いわゆる落ちこぼれが多く、在日韓国、朝鮮人や被差別部落出身者も少なくない。こうした者に社会は冷たく、差別もなくなっていない。心構えがしっかりしていればやくざにならないというのは正論だが、残念ながら人は必ずしも強くはない。こうした者たちが寄り添い合うのはどこの国でも同じだ。それはどこかに理由がある。社会から落ちこぼれた若者たちが無軌道になって、かたぎに迷惑をかけないように目を光らせることもわれわれの務めだと思っている。

4、二代目工藤連合草野一家総長・溝下秀男(「ドキュメント・九州任侠界 クライシス21」)

  学歴社会の今日の中で、学校も行ってない。それに部落差別とか在日韓国人・朝鮮人。そういう人がうちにも7割方占めているけれども、他に家庭には恵まれたとしても、ちょっとした過ちから、今度社会復帰をしようとしても、どこも刑務所に行ったというだけで一般社会は受け入れない。結局受け入れる所がないから、自然とそういうのが寄り集まってきた。犯罪を犯してもなおかつ、本人たちが最低限度のモラルを守れるように矯正しようという所にそういう集まりがあるのであって、現実的に破る人間もいるけれども、しかしほとんどは礼節とか、一般社会ではよく見受けられる、例えば上司の悪口を言ったりとか、部下の悪口を言ったりとか、自分の出世のためには周囲を蹴落としてでも上に上がっていこうとか、そういう事がない所がわれわれの世界ですね。

5、四代目会津小鉄会会長・髙山登久太郎(朝まで生テレビ「激論!暴力団はなぜなくならないのか!?」)

  うちの若い者は同和関係が70%ですわ。それから外国関係(在日韓国朝鮮人、台湾人、中国人)が10%。だいたいそういう形の組織ですわ。

  cf.平成18年(2006)に外国特派員協会における講演で元公安調査庁調査第二部部長・菅沼光弘は、「ヤクザの全構成員のうち60%が同和地区の出身者で30%が在日韓国朝鮮人」という見解を示したが、菅沼によるとこれは髙山から聞いた話だという(『ヤクザと妓生が作った大韓民国 日韓戦後裏面史』(菅沼光弘、ビジネス社、2015、126ページ))。ウィキペディアには六代目山口組若頭・髙山清司から聞いた話と記載されているが、髙山登久太郎である。

6、稲川会理事長・内堀和也(「特集 暴排条例を考える 任侠を社会に役立てよ」『月刊日本』2011年12月号(ケイアンドケイプレス、2011))

  百人の人間がいれば、必ず一人ははみ出す人間がいる。そのはみ出した人間を百人集めれば、またそこからはみ出す人間が一人はいる。これが人間集団の宿命です。その宿命から目を背けて、はみ出した人間を排除していけばキレイな社会になるというのは幻想に過ぎません。(中略)いつの世にも、社会からはみ出してしまう人間、どうしようもなくそういう生き方しかできない若い子はいます。そういう子たちを、我々の他に一体誰が受け入れ、一人の人格として尊重して付き合うことができるでしょうか。私はそういう子たちをほったらかしにはできない。だから、ただ一人になっても、私は任侠でありつづけます。

7、五代目山口組若頭・宅見勝(暴対法訴訟における尋問書)

  組を犯罪集団といい非難するが、本末転倒の理屈だ。犯罪者、前科者、前歴者として、彼らを排除し、疎外し、差別して受け入れを拒否しておきながら、彼らを受け入れた組を犯罪者集団と非難するのは偏見に満ちたひどい曲解だ。組が受け入れなければ、彼らはどこで生きていけるのか。(中略)その者たちにとって、この世の中は、それこそ義理も人情もない真っ暗闇の世の中になる。誰の励ましもなく、誰の奨励もなく一人で生きていくしかないが、もしそのようなことになった場合、彼らが生きるため飯を食うため現在以上に犯罪に走ることは必然ではなかろうか。

8、東亜友愛事業組合城島連合会会長・城島健慈

  全体の中のわずか何パーセントしかいないヤクザの世界で、それでここだけでは無理をするんじゃないよと。ここでも生活できなかったらお前行くところないだろうと。最低のルールは守りなさいと。この最後の世界がこのヤクザの世界なんだと。スネに傷を持つ、心に傷を持つ人間がお互いに力を合わせて家族を形成していく一つの社会なんだと。あーヤクザをやってよかったと。他の社会では生きられない。最後のこの世界だけででも幸せになれてよかったというような組織形態を永続してやるために私は今いるわけだ。

9、二代目工藤連合会草野一家最高顧問・林武男(「ドキュメント・九州任侠界 クライシス21」)

  暴力団っていう定義がね、これはマスコミおよび警察当局が作った言葉で、我々は任侠道だと。では、任侠道とは何か。よく日本のヤクザと外国のマフィアと比較されますが、外国のマフィアは営利目的だったならば組織的に人も殺せば何でもする。我々は組織的に銀行強盗をしたり麻薬を扱ったり、それは一部末端の組員がやりますが、組織的にはそういうことはやりません。親兄弟の言うことも聞かない者を一定の枠の中に入れて、憲法、規則によって指導していく。そこに外国のマフィアと日本のヤクザとの著しい相違点があります。(中略)ルール違反をしたら、一回や二回は訓告とか、言って聞かせるとか、あるいは謹慎と段階的な処分がありますけれども、四回も五回も同じ失態を繰り返した場合は切って捨てると。いよいよはみ出し者になってしまうと、そういうことです。

10、元六代目山口組舎弟・後藤忠政  

 (1)、『憚りながら』(後藤忠政、宝島社、2010)

 警察や社会はヤクザのことを「組織犯罪集団」と呼ぶんだが、べつに犯罪者が集まってヤクザ組織を作ってるわけじゃない。ヤクザが犯罪者を育ててるわけでもない。ヤクザになろうなんて子は、どっか社会に馴染めなくて、弾かれたり、落ちこぼれたりして不良になってるんだけれど、実は案外、真面目で一途な子が多いんだ。真面目で一途でないとヤクザは勤まらんのだから。ヤクザになるからには、親分や兄貴分に絶対的な忠誠を誓わんことにはいかんのだから。極道の世界にはまだ、「主君のために命を捨てる」とか「二君に仕えず」といったサムライの精神が生きてるんだよ。だからこそ組織が成り立ってるんだ。少なくとも自民党や民主党みたいに、自分が選挙に落っこちるかもしれないからといって、自分たちの選んだ親分を批判して、引き摺り下ろすような見苦しい真似は絶対にしない。極道は半端な奴には勤まらんよ。そういう半端者は、やっぱりヤクザ社会からも脱落していく。

 (2)、『浜松一力一家始末記』(山平重樹、エスエル出版会、1988)

  ヤクザ組織は最低のモラルを持っている。といって頭のいい集団じゃない。だからピラミッドの上に立っている人が、最低のモラルを持った、伝統的な集団であるから、それを若いもんに植えつけているから、常にひとの彼女を獲ったらイカンとか、人間として最低恥ずかしいことはするなとか、最低人間として獣のような生き方をするなとか。盗っ人をしちゃダメ。ひとの女房をやっちゃあかんとか、こういう最低、人間としてのモラルを教えている。(中略)だからそういう組織を壊滅して、それじゃ、そういう組織をなくして、自分勝手の、ただの暴力、最低のモラルのない暴力がはびこったら、もうデタラメな社会になりますよ。

11、三代目山口組二代目柳川組組長・谷川康太郎(『ヤクザと日本人』(猪野健治 筑摩書房 1999))

 (1)、在日の差別と貧困

  ・在日二世の谷川は「ヤクザに朝鮮人が多いのは、社会に出ても、あらゆる門戸が閉ざされているからだ。残されているのはみじめな雑業だけ。差別と極貧」という現状から、「「努力するものは必ず報われる」というのは、ひどいウソだ」「反発することがすべてだった」という心情になったとする。

 (2)、柳川組の形成

  ・「社会からはじき出され、何かをして生きねばならない無数の人間がいる。やがてそのなかからリーダーが生まれて、グループの核ができ「組」が形成される」と柳川組の形成を説明する。このような意味において、「ヤクザとは哀愁の結合体だ。そこにあるのは、権力、圧力、貧困におびえる姿だけ」であり、「前科とか国籍とか出身とかの経歴を一切問わないただ一つの集団だ。だから、社会の底辺で差別に苦しんできた人間にとって、「組」は憩いの揺籃(ようらん)となり、逃避の場となり、連帯の場となる」とする。

 (3)、柳川組の凶暴性

  ・柳川組は「殺しの柳川」として恐れられたが、その背景として「何が善で何が悪だといえるのは、まだ余裕のある人間だ」という絶対的な差別と貧困があり、「カネも地位も名誉もなかった、ソーニャ(注、『罪と罰』のラスコーリニコフの恋人)のような女性もいなかった。信仰する余裕もなかった。しかし、そういう状態のなかで「なにもないこと」の強さを身をもって知った」と何もない者たちの集団であることが柳川組の強さの根源であるとする。このような何もない者たちにとって犯罪とは、「運が悪いだけのものを犯罪という」ということになる。

12、三代目山口組若頭補佐・菅谷政雄

 (1)、インタビュー

  ・懲役太郎さんが菅谷政雄氏を解説されています。



  インタビュアー「どうしたら暴力団をなくせますか?」

  菅谷「そりゃ世の中がよくなったら暴力団はすぐ潰れる。何でもないのに暴力はふるえん。政治がよくならんうちは世の中もよくならんし、僕らは生きていける。」

  インタビュアー「大切なものは?」

  菅谷「僕らの掟、山口組憲法。」

  インタビュアー「まず日本国憲法を守ってほしいのですが。」

  菅谷「そんなこというけど、僕らの社会に入ってくる連中はほとんどが生まれ落ちたときから日本国憲法に見放された者ばっかりや。なんでそんなやつが国の憲法を守る気になるのかな。山口組憲法の下にこそ僕らの生きていく道が開けとる。」

 (2)、考察

  ・菅谷は、神戸市の新川スラムで生れ、早くに両親を亡くし、貧困街で親戚に育てられた。こうした育ちから菅谷は、ヤクザになるのは「ほとんどが生まれ落ちたときから日本国憲法に見放された者ばっかり」とする。憲法を守らなければならないのは公務員であって国民ではないが、しかし菅谷が言いたいことは、憲法に規定された基本的人権の尊重の恩恵を受けていない者たちがヤクザになるんだという意味であろう。そして、このように憲法によって自らの生存を守られた経験のない人達は、国家の法を守るよりも仲間の掟を守る方がよっぽど重要だという感情になるのであろう。そうした意味で、菅谷の言うヤクザがなくなる「よい世の中」とは、具体的には、差別がなく、貧困がなく、子どもたちが両親に愛されて育つ世の中という意味であろうか。

13、一和会副会長兼理事長・加茂田組組長・加茂田重政

インタビュアー「懲役11年とかそんなに長い間入っていて、もうやめようとか思ったことはないんですか?どうしてこんな辛い思いをしないといけないんだって。こんなことやってるからじゃないかって思いませんか。」

加茂田「うん、思わんなぁ。ワシは学校も行ってないし何もしてない。これしか生きる道がないんです。学校に一年も行ってない。小学校も行ってない。それでね、あんたらはそう思うだろうけど、ワシは刑務所に行ってよかったと思う。勉強したから。刑務所の中で。そやから刑務所入る前はね、恥ずかしい話やけど日本の総理大臣が誰で、外務大臣が誰でなんて知らなんだ。字も書けない。全然。自分の名前も書けなんだ。ワシは。それが立派に書けるようになって。」

インタビュアー「それは刑務所で勉強したから。」

加茂田「勉強したから。よかったなぁと思っとる。ワシは。」

  cf.加茂田氏は神戸市長田区の番町部落出身である。

14、五仁會会長・竹垣悟

  私が所属した竹中組でも、竹中正久組長が初代竹中組の時に、韓国の人言うたら一人だけしかおらなんだからね。同和は半分くらいおりましたかね。同和は多かったね。一般の人は3、40パーセントぐらいの割合でおりましたね。(中略)一般の家庭というても、同和とか在日韓国朝鮮人じゃない普通の人言うたら、田岡三代目も『山口組三代目』の本の中で書いていたけど、やはり家庭的に不幸な人間が多いわけですよ。片親がおらへんとか、そういうのがヤクザになっていますね。菅沼さんの1割言うのは、普通の両親がそろって何不自由なく育った人のヤクザの比率が私は1割やと思うんです。

  cf.平成18年(2006)に外国特派員協会における講演で元公安調査庁調査第二部部長・菅沼光弘は「ヤクザの全構成員のうち60%が同和地区の出身者で30%が在日韓国朝鮮人」という見解を示した。



15、『血の声 ある地方やくざの戦後』(中野一成、三一書房、1971)

  どだい極道を張る者には、ロクな奴がおらんのです。どっかに欠陥があるうえに、暴れん坊ばかりです。こういった連中をうまくまとめて行くには、私らの世界独特の鉄の規律があって、これを守らせにゃなりません。私らが組内で、身分というものを強くいうのもそのためで、まず仁義というものを教えこもうとするからです。

  仁義の仁というのは、親子の盃にあらわれる実の親子以上の情愛、つまり、なさけというものです。義とは、人間として守らなにゃいかん道徳です。この仁義を破る者は、からだに教えこまんといけん、というのが私らの考え方です。そうでなければ、極道者をまとめて行くことはできんし、組はつぶれてしまいます。

16、猪野健治

 (1)、『ヤクザと日本人』(猪野健治 筑摩書房 1999)

  ・ヤクザとは、体制内市民社会の秩序を拒絶した被差別階層の武装共同体であり、彼らがたてこもることができる最後の、たった一つの叛逆のトリデである。

  ・十年ばかり前、取材におとずれたある未開放部落で、筆者は「土方になるか、ヤクザになるか」という怨念のこもった言葉を聞いた。差別は極貧を生み、極貧は勉学への道を遮断する。学歴万能社会にあっては、無学歴者は疎外され劣悪な労働条件の苦汁労働か雑業に従事するしかない。その部落では中学生はすでに土方のベテランであった。父や兄のみじめな姿を見せつけられている息子や弟たちが、その絶望的な日常から飛翔しようとして、ヤクザの世界に流入していったとしても、だれも責めることはできない。ある親分は言った。「社会主義の道に進んだ人間は、まだ考えられるだけの余裕があったのだ」と。

 (2)、『テキヤと社会主義』(猪野健治、筑摩書房、2015)

  ・香具師という稼業は「義侠の精神に貫かれている」世界なのである。嚙み砕いていうと、この業界は、どんな前歴を持つ人間でも差別なく受け入れ、「一人前の兄い」に育てあげるまで面倒を見てくれる。ほかにそんな寛容性や包容力のある業種があるかという自負があるのだ。彼らの言う通りで、一般企業では「前科」があれば、履歴書を出した段階で「不適格」とされ、ハネられるのがオチだ。
   
  ・このだれでも差別なく受け入れる香具師の世界は、ギシュウ(注、香具師の隠語で主義者=社会主義者、無政府主義者)の駆け込み寺として機能しただけでなく、関東大震災直後の戒厳令下では、危険にさらされた多数の朝鮮人を救うことにもなった。

 (3)、『山口組概論』(猪野健治、筑摩書房、2008)

  ・2008年だと猪野氏は「いまから25年ほど前に、山陽道のある親分から、「ウチは三対三対三だ」という話を聞いた。組内における、被差別部落出身者と在日朝鮮・韓国人と市民社会ドロップアウト組の人員比率である。やくざは底辺の人々が生きていくための最後の行き場所でもあったのだ。その後、様々な運動や行政の取組みによって、被差別部落出身者の進学率や就職機会は大きく改善され、また、かつてのような在日に対する厳しい差別も見られなくなった。もとより、調査・統計のある世界ではないので、私の感覚的な見方だが、現在では市民社会のドロップアウト組がやくざ社会の過半数を占めているように思える。そのなかには良家の子弟が新ビジネスにたけた「チーマー」のサークルからやくざにスカウトされる「新富裕層」もいる。かつての暴走族などとはちがう層が現れている。沖縄・奄美などの島出身者もそうなのだが、被差別部落や在日社会は地縁・血縁の結びつきが強い。やくざ社会にも、かつては彼らの強固な結束が色濃く反映していた。しかし、市民社会からのドロップアウト組が増えることで、やくざ社会の質はどう変化していくのだろうか。いまこの国には、あらたな下層社会が形成されつつある。それが、さらなる社会不安の要因となるのか、それともかつて山口組が沖仲仕たちのなかから生まれたように、格差社会を生き抜くための砦が築かれるのか、やくざ社会の変貌は、この国の行き先を暗示しているのもしれない」とします。

17、宮崎学

 (1)、「実録・ドキュメント893反社会的組織 〔暴力団の実像〕」)

  ①、ヤクザとは生きるために集まった集団である

    ヤクザというのは食っていくための集団ですから、その時々の経済の情勢と非常に密着した形で生きていかざるを得ないんですね。ヤクザは宗教集団でもなければ政党でもない。市民運動をやっているわけでもない。生きるために集まっている集団です。生きるという事は飯を食うという事、飯を食うという事はお金を稼ぐという事、お金を稼ぐという事は今の社会の流れと密接な関係を持たない限り経済活動ができません。だから、当然今の社会がそのままヤクザの社会であるという風に思います。

  cf.他方、懲役太郎さんは、現在のヤクザはもはや宗教団体だと指摘されています。確かに現在は、ヤクザ組織に加入すると逆に生活しにくくなるので、ヤクザ的な生き方をしたい人達の宗教団体という解釈も成り立つかもしれません。

  ②、「ヤクザもいる明るい社会」

   今ネットカフェ難民なんていますよね。派遣の仕事に行ってネットカフェに寝泊まりして、次の日の仕事を携帯で探しているという人達ですけれども、この国はこういう法と秩序からはぐれた人達をたくさん作りだしているわけです。しかし、法と秩序からはみ出した人間もどっかで生きていかないといけないわけです。法と秩序からはみ出した人間に「お前たち死ね」という国は、独裁の国なんです。(中略)僕も、ヤクザが素晴らしいものだから認めろと言っている訳じゃないんです。ヤクザという生き方をやらざるを得なかった人は、それはそれで認めようという事なんです。(中略)だから、僕が常に言っていることは「ヤクザのいる明るい社会を作りましょう」と。警察は明るい社会を作る為にヤクザを排除しましょうというけれども、そうじゃないんだと。その代わりヤクザ側にも厳しくは言うよと。悪い事したら「悪い事してるじゃないか」と言えばいいんですよ。その勇気を持たないといけないと思うんですね。

 (2)、ムーブ!激突!!生激論「近代ヤクザ肯定論」2007

 なぜ人はヤクザになるんだろうかということを考えないとルーツは分からない。本(「近代ヤクザ肯定論」)では代表的に田岡一雄さんのことを書いているんですけれども、やっぱり貧困と差別が根本にあったんですよ。それから抜け出して何とか生きていくために集団を作っていったということがあるわけです。

18、山之内幸夫

 (1)、『山口組の平成史』(山之内幸夫、筑摩書房、2020)

  ①、意義

   ア)、意義

    ・山之内氏は「ヤクザというものは(中略)時代により変わるものだが、いつの時代にもひとつだけ変わっていないことがある。それは普通の人生を送ることに適合しない人がヤクザになるという点だ」とします。

   イ)、解説

    ・「普通の人生を送ることに適合しない人」の具体例について山之内氏は、「就労年齢に達したころ「人に命令されて働くのは嫌だ」とか「朝早くから電車に乗って仕事にいけるか」「短い人生朝から晩まで仕事などしてられるか」「いいものを身に着けて注目されたい」「世の中は金がすべて」「人生、太く短く」という感覚を持つ人がいる。あるいはどうしても対人関係がうまくいかない人、さらに生い立ちにハンディがありすぎて強い劣等感を持っており、まともな就職ができない人、全員が全員ではないがそういう人のうち、ヤクザ根性の旺盛な人がヤクザの道に進む可能性がある。ヤクザ根性というのは「なめられてたまるか」という意識である」とします。

  ②、背景

   ・「普通の人生を送ることに適合しない人」がこのような考え方を持つようになった背景について山之内氏は、「厳しい生育環境が原因していることが多い。差別、貧困、無学歴、一家離散など本人の責任に帰しえない理由もある」とします。ただし、「私が思うにどんなに悪環境があろうと親が深い愛情をもって子供を躾ければ、子供はけっしてヤクザにはならない。思いやりのある優しい子に育ってヤクザに向かない人格になる。突き詰めると親の愛情の欠落がヤクザを生み出す一番大きな理由だと感じている」とします。

  ③、魅力

   ア)、意義

    ・「普通の人生を送ることに適合しない人」がヤクザ組織に惹かれる魅力を山之内氏は以下三点ほどにまとめられます。

   イ)、魅力1 格好良さ

    ・ヤクザのいい女を連れて、いい服を着て、いい車に乗ってという享楽的側面。

    ・繁華街を肩で風を切って闊歩し、水商売の従業員から頭を下げられる男の威厳や、若い衆が親分を恭(うやうや)しく奉ってキビキビとかしずく光景。

    ・抗争のヒットマンの自己犠牲的なヒロイズム。

    ・義理人情や男気の気風。

   ウ)、魅力2 己の才覚次第で出世できる

    ・五代目山口組組長・渡辺芳則氏や、六代目山口組組長・司忍氏は、ヤクザ社会の己の才覚次第で出世できる側面に魅力を感じてヤクザになりました。

   エ)、魅力3 どんな人でもあたたかく迎え入れてくれる

    ・刑務所で誘われてヤクザになったや、離婚や破産など人生の辛酸をなめそのどん底でヤクザに助けられてヤクザになったなどです。

  ④、ヤクザの生活

   ・ヤクザになると、暴走しないよう枠にはめられながら、生活が成り立つようにしてもらえます。かつてはヤクザにもかたぎ社会からの裏需要があり、生業を確保することが可能となっていました。

 (2)、「アナザーストーリーズ運命の分岐点『山口組対一和会~史上最大の抗争~

 差別ですね。それから貧乏人の子。非常に貧しい家の子どもで学校に給食も持っていけなかったような。みんなわけがあってわけありの人間がヤクザになってくるということが分かってきまして、ヤクザにならざるを得なかった生い立ちにある意味同情するところがあります。(中略)親の愛情の欠落というか、親の愛情がなかったというのが一番大きいと思う。親がそもそも子どもに愛情が全然ない、産んで失敗やった子どもやね、「産まんといたらよかった」いうような「産んで迷惑してる」みたいな。家庭の愛情からはずれてしまった、親の愛情からはずれてしまった人たち、ヤクザになるしかないという人たちは、これはもう常時恒常的に出てきます。(中略)愛情を持ってしつけられた子は、絶対にヤクザにはならないんですよ。なれないんですよ。そんな性格じゃできない。ヤクザみたいな生活は。愛情を持って子どもをしつければ、世の中ヤクザってなくなっちまいますよ。

19、遠藤誠(帝銀事件の主任弁護人等、朝まで生テレビ「激論!暴力団はなぜなくならないのか!?」)

 日本全国のヤーさん達と接触するようになりましたが、そこで私が得た結論は、昔のヤクザは知りませんが、今現在のヤクザは、確かに3分の1はいわゆる同和地区の出身ですね。残り3分の1は在日韓国、在日朝鮮の方。残り3分の1はいわゆる社会的落ちこぼれ。そうした同和の方とか韓国朝鮮の人、あるいは小さい時に間違いをおかして刑務所に入れられてこれから真面目になろうとしてシャバに出てきた。しかし、そういう人達をいわゆる善良な市民社会は、普通の人間として扱ってくれないんですね。まともに雇ってくれるところもない。したがって、経歴詐称をして入るしかない。バレるとクビと。そういう彼らを差別する我々市民社会の側の目を改めない限り、ヤクザというのはどんな法律を作ったって、永遠に残りますね。ですから問題は、それを差別する我々の側にあると。

20、山平重樹(『浜松一力一家始末記』(山平重樹、エスエル出版会、1988))

 「異なったもの、問題のあるものを排除する」という論理である。ではこの排除された人間たちはいったいどこへいったらいいのか?こうして学校から排除され、社会からも排除された者同士が、互いにより集まって肌をぬくめ合う世界をつくるというのも、自然ななりゆきであろう。そしてできた集団がヤクザであるという一面も否定できない事実である。初めからヤクザの烙印を押されてこの世に生を受けた者など、いるわけがない。家庭、環境、社会、差別の問題ー等、さまざまな諸条件が重なって人はヤクザになっていくのである。本人の資質にすべての因を求めることは必ずしも正確ではない。

21、野村秋介(『浜松一力一家始末記』(山平重樹、エスエル出版会、1988))

 ヤクザって一体何かということ。簡単に言ってしまえば、社会の落ちこぼれです。勉強ができないばかりに一般社会に受け入れてもらえない、私もそうですが(笑)。しかし、紙にも裏と表があるように、選良の民だけが決して社会を形成してはいません。ヤクザの歴史をみればわかるように、どんな人間にも生きる権利がある。そして、それなりに社会に貢献はしています。ただし、表通りを歩くということだけは己に厳しく律しています。口はばったく言えば、勉強ができるできないそのことが人間性を決める基準にはならない。しかし、いまのような状況の中で、勉強のできる子がいい子で、できない子供が悪い子だという発想が、定着し、それが、イジメの問題にもつながっていくし、そういう観点からとらえたときに、もう一回、いま、ひとからヤクザといわれている人たちに目を向けてもらいたい。自分たちだけが、勉強のできる側だけ、富める側だけが人間であって、勉強のできない側、富のない側だけを、人間としてみなさないという図式を打ち破らないと、ヤクザの問題はあくまでもヤクザ暴力団というひとつのレッテルで話がすすんでいっちゃう、もっと問題が含まれていると思います。

22、西垣内堅佑(警視総監公舎爆破未遂事件の弁護人等、『浜松一力一家始末記』(山平重樹、エスエル出版会、1988))

 私が知る限りではですね、ヤクザの組織に参加している人たちの、かなりの部分が在日朝鮮人であり、被差別部落民であると。で、かなりの、パーセンテージを占めていると、しかも仕事をしたいけれども、教育を受けなかったということで、まったく社会的な適応力を持たされない、そういう人たちが、結局、暖かく迎え入れてくれる組織としてですね、ヤクザ組織があるという、そういう背景があると思うんですね。つまりヤクザの問題というのは、歴史を辿ると、これまたいろいろあるんですが、少なくとも昨今の状況の問題として言えば、少なくともヤクザであっても生活をして、生きていかなければいけないわけですから、彼らの生存をですね、十分確保する、つまり社会的に、在日朝鮮人や被差別部落民といわれる人たちが、いわゆる就職をきちんとできるとかね、そういうところから、脇にどけられた人たちをどのように社会がそれをきちんと確保して、彼らの生活生存権を確保していくのか、そういう問題からやはり考えてみる必要が僕はあるんじゃないかという風に思うんですね。で、もしその問題が本当に、国民あるいは国家が真剣に考えた場合に、現在の状態は相当に改善されるだろうというふうに、私は考えておるわけです。

23、菅沼光弘(元公安調査庁調査第二部部長、「特集 蘇れ!任侠道 任侠こそ日本自立の最後の砦」『月刊日本』2010年8月号(ケイアンドケイプレス、2010))

  任侠団体には前科者もいることがある。しかし、それは組に入ったから犯罪を犯したというような、「暴対法」の言うように「集団的又は常習的に暴力的不法行為等を行う」よう助長されたからではない。順番が逆なのであって、前科を背負ってしまった人を温かく受け入れてくれる組織が組しかないから生じたことだ。

24、大谷昭宏(ムーブ!激突!!生激論「近代ヤクザ肯定論」2007年)

 この本(「近代ヤクザ肯定論」)で好きな部分は、どんなに貧しくても、どんなに差別されても、人は生きていかなきゃならないんだということは分かるんです。ただし、ちょっと待ってくれと。朝まで生テレビでやったとき(「激論!暴力団はなぜなくならないのか!?」)、確かに在日とか被差別部落の方たちがかつてアングラ組織に入ったと言った時に、被差別部落の方たち、部落解放同盟も含めて、待ってくれと。今頃何言ってるんだと。それは差別に負けた姿なんだと。昔はともかく冗談じゃないよという部分はあるわけなんです。

25、溝口敦(ニコニコ生放送「【溝口敦に訊く】山口組とは?」)

 (1)、溝口氏の見解

  ・溝口は、「戦後しばらくの間、在日や部落関係者はヤクザ以外に就職先がなくてヤクザに入ったものもいたが、現在はこのような出自があっても職に就くことができるので在日と部落関係者ばかりというわけではない。ただ、伝統的にヤクザは在日や部落関係者が多かったことからこのような人たちを一般社会よりも差別しない集団であった」とするが、「現在ヤクザに残っているのは年寄りか怠け者」とする。

 (2)、懲役猫太郎氏の見解

  ・懲役猫太郎は溝口とは逆に現在でもヤクザ組織を維持しているような者は、警察のガチガチの監視のもとでちょっとした犯罪すら犯さずにヤクザをしているのだから、真面目な者が多いとする。