1、抗争

 昭和58年(1983) 東組vs五代目酒梅組

2、経過

 (1)、きっかけ

  ①、二代目土井組との兄弟結縁盃をめぐる紛争

   ・五代目酒梅組組長・谷口政雄は、二代目土井組組長・西田茂夫と兄弟分であった。その西田が昭和57年(1982)6月26日に逝去した。その後、昭和58年(1981)1月20日に、東組若頭代行の森田組組長・森田至郎と、二代目土井組本部長・青山修との兄弟結縁盃が行われた。この兄弟結縁盃に対して谷口は、まだ西田の一周忌も済んでいないから待ってくれと東組に頼んだが、東組は筋違いな内政干渉として予定通り結縁盃を行った。

  ②、四代目菅谷組をめぐる紛争

   ・三代目山口組若頭補佐・菅谷政雄の実兄に菅谷三蔵がおり、この菅谷が西成に起こしたのが菅谷組であった。この頃は四代目菅谷組で組長は和田家美がつとめていた。この四代目菅谷組の賭場で他組織の者が四代目菅谷組幹部を銃撃し、怪我を負わせる事件が起こった。和田は兄弟分であった東組系井竜組組長・井上竜二を通して相手から相応の見舞金をもらうことで和解を成立させた。これに対して、和田のもう一人の兄弟分であった五代目酒梅組幹部が、返しをせずに金で解決するとはなんたることかと激怒し、さらには和田が博奕資金として酒梅組から借りていた3000万円の返済もせまった。

 (2)、組事務所への発砲の応酬

  ①、酒梅組→東組

   ・昭和58年(1983)2月20日、大阪市西成区の東組本家事務所、豊中市の東組系森田組事務所、大阪市住吉区の東組系井竜組事務所、堺市の東組系二代目清勇会事務所に酒梅組が同時多発的に組事務所へ発砲を行った。

  ②、東組→酒梅組

   ・同日、東組もすぐに返しを行った。大阪市阿倍野区の五代目酒梅組系上坂組事務所、大阪市西成区の五代目酒梅組系橋本組事務所に発砲を行い、大阪市西成区の五代目酒梅組系天龍会事務所への発砲は、未然に張り付け警戒を行っていた警察によって阻止された。

  ③、その後

   ・その後も、酒梅組と東組は組事務所への発砲を繰り返し、同年3月1日までに酒梅組は14回、東組は6回、重軽傷者は東組にのみ3名でた。その後、抗争は一時沈黙をした。

 (3)、抗争再開

  ①、東組→酒梅組

   ・同年3月19日、東組系組員が和歌山県御坊市の五代目酒梅組系岡野組事務所に乗り込み、中にいた組員二人を銃撃して重傷を負わせた。さらに同日、大阪市西成区の五代目酒梅組系平沢組事務所へ、東組系組員が乗り込み、中にいた組員一人を銃撃して怪我を負わせた。また、五代目酒梅組系天龍会事務所と小政組事務所への発砲も行われた。

  ②、酒梅組→東組

   ・同年3月21日、酒梅組組員が、堺市の東組幹部宅を発砲した。

  ③、東組→酒梅組

   ・同日、東組はすぐに返しを行い、五代目酒梅組系平沢組事務所へ発砲した。

 (4)、東総長次男襲撃事件

  ①、事件(酒梅組→東組)

   ・同年3月30日、熊本県熊本市で、東組総長・東清の次男が中華料理店で昼食を済ませて店を出たところを、酒梅組のヒットマンに銃撃された。次男はヤクザではなくカタギであり、熊本市で風俗店を経営していた。さらに酒梅組は、同年4月1日にも大阪市住吉区の東組系井竜組事務所へ発砲を行った。

  ②、東組の返し(東組→酒梅組)

   ・同年4月1日、東組系組員が大阪市阿倍野区の五代目酒梅組系芦田組事務所へ発砲を行った。

  ③、影響

   ・東組には酒梅組との抗争に乗り気ではない組員もいた。しかし、カタギである総長の次男が狙われたことにより彼らも激怒し、とことん酒梅組を攻撃してやろう、狙うのはトップだという気持ちにさせた。

 (5)、東組関係者射殺事件(酒梅組→東組)

  ・同年4月4日、東組に出入りしていた土建会社社長が、東組関係者と間違われて、酒梅組のヒットマンに射殺された。ここに至って、抗争初の死者が出たのである。

 (6)、手打ち

  ①、和解へ

   ・同年4月下旬頃から、三代目会津小鉄会理事長・高山登久太郎と四代目砂子川組組長・山本英貴が和解に動き出した。和解に反対をしていたのは東組側であったが、東清が組員達を「ワシの倅のために(東組が組として)喧嘩するいうんでは筋が通らん。公私混同や。そら、東組の若い者がやられたいうんなら、ワシは組潰してもとことん報復するで。それを倅のために喧嘩はようせん」と説得をした。

  ②、手打ち式

   ・昭和58年(1983)4月28日、京都の料亭で手打ち式が行われた。

 (7)、評価

  ①、評価

   ・当時、五代目酒梅組は傘下32団体で組員874人がいた。他方、東組は傘下14団体で組員は264人しかいなかった。人数差3.3倍の組織との抗争で一歩も引かなかったことによって、東組は「喧嘩の東組」という名声を一段と高まった。

  ②、活躍した人

   ・新大阪戦争で活躍したのが、現二代目東組若頭・田村順一であった。田村は当時東組系森田組の若者であり、五代目酒梅組系事務所およそ10件近くで発砲をし、懲役7年の刑を科された。

3、映像

 (1)、実録 東組抗争史 閻魔の微笑

  ・最近は「ヤクザと憲法」でおなじみの東組が、ヤクザ激戦区西成でのし上がっていくストーリーです。最初は、昭和21年(1946)、終戦直後の岡崎礼さん演じる若き日の東清と松田組の話から始まります。その後、昭和31年(1956)に移り、東清役が白竜さん、東勇役が小沢仁志さんに代わって、東組の結成の話に移ります。酒谷組(モデルは酒梅組)など既存組織に因縁をつけてはシマを奪ったり、呼ばれていないのに葬式に押し付けて売名したり、かなり強引に勢力を広げていきます。好戦的な東組ですが、特に酒谷組との新大阪戦争は詳しく描写されています。

<参考文献>

 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊侠伝・川口和秀』(山平重樹、幻冬舎、2016)