稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

ヤクザ組織小史 住吉会 堀政夫の時代

1、意義

 ・堀の時代は、「平和共存、内政不干渉」の方針のもとに、膨張していった時代である。全国各地の博徒テキヤ組織が堀の人徳を慕って住吉会へと加入し、昭和58年(1983)の警察庁の調べによると、住吉連合会は24都道府県にまたがり、113団体6600人の構成員までに拡大した。他方、関東の他の博徒組織とは「関東二十日会」を、テキヤ組織の親睦団体である「関東神農同志会」とは定期的な食事会を行うなど、他組織との平和共存にも努めていった。

2、堀政夫とは

 (1)、出生

  ・大正14年(1925)、堀は長崎県佐世保に生まれた。

 (2)、渡世入り

  ①、意義

   ・住吉一家二代目・倉持直吉の貸元の一人である二代目住吉一家高輪伊皿子貸元・井出六蔵との縁で渡世入りした。
 
  ②、秘話

   ・堀は芝白金の芝居一座で用心棒をしていた。また、芝白銀で人気があった「フジトシオ一座」の役者でもあったという。ここから「お役者政」という呼び名が付いた。堀は土地の愚連隊とともに、芝浦一帯で勢力を張っていた阿部重作一門に殴り込みをかけた。この喧嘩の仲裁に入ったのが井出であった。堀はこの時に井出のもとでヤクザをやる決心をした。

 (3)、旅

  ①、旅

   ・堀は若い時分は、「日本を二まわり半くらい歩いてるんじゃないか」というくらい、日本中を旅して歩いた。この時の出会いが堀の人生の財産となり、この時の縁でのちに住吉連合(会)入りする組織も多かった。

  ②、血気盛んな若い時代

   ・後年は謙虚で温厚な堀も若い時分は、博奕の借金の取り立てでテキヤ連中5、6人に囲まれても絶対にひかず、愚連隊と決闘して相手の耳をドスでそぎ落とすなど、血気盛んであった。

 (4)、中里一家と住吉一家を継承

  ・長旅を終えた堀は、昭和30年代初頭に井出の命で千葉県野田市に移り、中里一家三代目・高野巳之吉の後を継いで、四代目となった。さらに、昭和42年(1967)、堀が42歳の時に磧上義光の病没にともない、磧上の遺言によって堀が住吉一家五代目を継承した。

3、住吉連合ー住吉連合会

 (1)、住吉連合結成

  ①、意義
  
   ・昭和40(1965)年4月、第一次頂上作戦の影響により港会から改称してわずか7ヶ月で、住吉会は解散となった。昭和44年(1969)、堀は再び旧住吉会の同志を糾合して「住吉連合」を結成し、自らが代表となった。しかし、堀は金銭にこだわらない性格で、大住吉のトップに立っても借家住まいをし、やがて千葉県に自分の家を持ったが、それも木造二階建ての建売だったという。

  ②、膨張する住吉連合(会)

   ア)、意義

    ・住吉連合(会)には、堀の人徳を慕って全国各地の博徒やテキヤ組織が住吉連合(会)入りをし、組織は膨張していった。

   イ)、旧「友愛会」

    ・昭和33年(1958)、幸平一家の本橋政夫、土支田一家の杉原繁雄、滝野川一家の福原陸三、二本木小川一家の西沢福司の4博徒が集まって「友愛会」が結成された。この友愛会は自然消滅していたが、住吉連合に丸ごと加盟をした。

   ウ)、親和会

    ・昭和47年(1972)、栃木を中心に茨城や群馬の一部まで勢力を張っている屈指の名門組織である親和会が加盟した。

   エ)、丸唐会
   
    ・昭和49年(1974)、いわき市に本拠を置く名門組織の丸唐会が加盟した。

   オ)、西方

    ・昭和54年(1979)、石巻市の西方二代目が加盟した。

   カ)、三心会

    ・昭和61年(1986)、釧路市の三心会が加盟した。

  ③、テキヤ寄居一家との五分兄弟盃

   ・堀は、テキヤ組織との関係も構築していった。昭和48年(1973)、住吉連合(滝野川一家総長・福原陸三、親和会栃木一家総長・小松澤繁、同光京一家総長・大町年市)と寄居一家(森田信一、田中銀次郎、峰久雄)の6人による五分兄弟盃の取持人を務めた。

  ④、関東二十日会

   ・昭和47年(1972)、稲川会、住吉連合、松葉会、日本国粋会、東亜友愛事業組合、交和会、二率会、双愛会、義人党の9団体からなる関東博徒組織の親睦団体、関東二十日会が結成された。

 (2)、住吉連合会へ再編

  ①、意義

   ・昭和57年(1982)、堀は「住吉連合」を「住吉連合会」とし、自らは代表から会長となって組織の再編を断行した。

  ②、組織改革

   ア)、副会長職の新設

    ・住吉連合時代は、「代表ー常任相談役ー相談役ー常任評議員ー評議員ー代議員」という順序で役職が並んでいたが、組織改革により副会長職が新設され、「会長ー副会長ー常任相談役ー相談役ー専任評議員ー常任評議員ー評議員ー代議員」という順序となった。

   イ)、名誉職の新設

    ・功労者の長老や先輩諸氏のために、「名誉顧問」「常任顧問」「特別参与」などの名誉職を新設した。

 (3)、池袋抗争

  ・昭和58年(1983)、住吉連合会幸平一家石田睦池田会と極東関口三浦連合会との間で抗争が勃発した。

   参考)、ヤクザ抗争史 池袋抗争

 (4)、総裁を設ける

   ・昭和63年(1988)、新たに総裁制を導入し、「堀政夫総裁ー川口喨史会長ー西口茂男理事長ー小林楠扶本部長」という体制となった。しかし、川口会長と小林本部長が相次いで亡くなったことなら、平成2年(1990)に「堀政夫総裁ー西口茂男会長ー沼澤春男理事長ー鈴木康夫本部長」というラインに加えて6人の会長補佐、12人の副会長という体制を敷いた。 

5、最期

 ・平成2年(1990)、堀は改革の志半ばで亡くなった。享年65歳。その葬儀には全国から2万人が参列したという。

<参考文献>

『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)
『日本の暴力団』(仲村雅彦、1985、政界往来社)

ヤクザ組織小史 住吉会 磧上(せきがみ)義光の時代

1、意義

 ・磧上の時代は第一次頂上作戦の時代である。港会は住吉会へと改称されたが、その7か月後に解散をすることになった。なお、昭和40年(1965)2月19日の朝日新聞によると、この頃の住吉会は東京中心に埼玉、千葉、栃木、群馬など十と県に勢力が及び、構成人数は約3800人。幹部は港湾荷役、運送業、不動産業、料理やなどを経営しているが、バクチを常習とし、債権取り立てや民事介入事件などを資金源としている、と報道されている。

2、就任

 ・昭和37年(1962)、住吉一家総長・阿部重作は引退し、その跡目は上萬一家の貸元であった磧上義光が継承した。

3、「港会」を「住吉会」へ

 ・昭和39年(1964)、磧上は連合組織である「港会」を「住吉会」に改めて自らその会長となった。さらに、昭和38年(1963)に錦政会、港会、松葉会、日本国粋会、義人党、東声会、北星会の7団体で結成された関東ヤクザの親睦団体である「関東会」の二代目理事長に、松葉会会長・藤田卯一郎の後をうけて就任した。

4、第一次頂上作戦と住吉会の解散

 (1)、第一次頂上作戦

  ①、当局を刺激した関東会のビラ

   ・関東会は「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」というビラを配送した。これに政治家は激怒し、警察庁が準備していた第一次頂上作戦の徹底強化に口実を与える結果となった。

  ②、第一次頂上作戦のはじまり

   ・昭和39年(1964)頃から、広域暴力団に指定する山口組、本多会、住吉会、錦政会、日本国粋会、松葉会、日本義人党、北星会、東声会、柳川組の10団体を集中的に壊滅させようという、第一次頂上作戦がはじまった。

 (2)、磧上の逮捕

  ・昭和39年(1964)度中に住吉会の検挙者は1021人、磧上も昭和39年(1964)に各組織のドンのトップをきって逮捕され、さらに、神奈川県の旅館で行った阿部の引退見舞いとしての総長賭博を行った角で、昭和40年(1965)に再び逮捕された。

 (3)、住吉会の解散

  ・昭和40(1965)年3月に錦政会が解散をし、住吉会も同年4月に解散をした。港会と改称されてからたった7ヶ月での解散となった。

5、磧上の死

 ・磧上は昭和42年(1967)に病没した。享年53歳。

<参考文献>

『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)


ヤクザ組織小史 住吉会 阿部重作の時代

1、意義

 ・住吉一家はもともと博徒であったが、阿部重作の時代に東京埋め立て工事への労働者派遣や、東京湾の港湾荷役などの人材派遣業の足場を築いていった。山口組が神戸港の港湾荷役から生まれたように、住吉一家も東京湾の港湾の仕事から大きくなっていった組織である。また、浅草妙清寺事件を契機として現在の住吉会につながる「港会」が結成されていった。

2、阿部重作とは

 (1)、渡世入り

  ・明治28年(1895)に新潟で生まれた。大正7年(1918)頃、横浜で沖仲士をした後に東京へ行き、生井一家系の武部申策の流れをくむ住吉一家の客分であった高木康太の盃をうけて渡世入りし、長く代貸をしていた。

 (2)、労働供給業

  ・東京湾の埋め立ては江戸時代から断続的に行われているが、高木はこの東京湾埋め立て工事へ労働者を派遣するために、芝浦に労働供給業「高木組」を設立し、さらに開港すると港湾荷役業へも進出した。戦後は事業へ専念するために阿部に自組織を譲ってヤクザは引退した。阿部も泉海陸作業会社を経営し、この阿部によって、住吉一家は東京湾の港湾の仕事に強固な足場を築くことができた。

3、住吉一家を継承する

 (1)、住吉一家を継承する

  ・高木を媒介として阿部と住吉一家との間に関係がうまれた。住吉一家二代目・倉持直吉は阿部を気に入り、昭和23年(1948)に阿部は住吉一家の三代目を継承した。

 (2)、人材

  ・阿部のもとには、中盆の名人といわれた高橋浅太郎、ヤクザのなかのヤクザと言われた向後平、近代ヤクザの走りといわれて銀座警察の異名をとった浦上信之など、多彩な人材が集まった。

 (3)、解散指定

  ・昭和25年(1950)、住吉一家の浦上信之一派にGHQから団体等規制令による解散指定が下る。浦上の後、高橋輝男が銀座の顔となっていった。

4、港会の結成

 (1)、浅草妙清寺事件

  ・昭和31年(1956)、浅草妙清寺で行われた告別式の席上で、住吉一家の幹部である向後平と高橋輝男が激しい銃撃戦を行い、両者が死亡した。阿部も静止しようとして全治一か月の怪我を負っている。

   参考)、ヤクザ抗争史 浅草妙清寺事件

 (2)、港会の結成

  ・この浅草妙清寺事件によって住吉一家は内部対立の火種を残し、また警察からも執拗な検挙取締りをうけたことから、この事件を教訓として阿部は組織再編に乗り出し、友誼団体との団結をはかるべく、関東の博徒、テキヤ、愚連隊など28団体を集結して、昭和33年(1958)に「港会」を結成した。会長には阿部の代貸である高橋浅太郎系の青田富太郎が就任した。

 (3)、安保闘争に参加

  ・昭和35年(1960)の60年安保闘争の際には、右翼の児玉誉士夫の呼びかけに応じて、稲川組組長・稲川裕芳とともにヤクザ陣営のリーダーとなった。

5、隠退

 (1)、渡世の隠退

  ・昭和37年(1962)、阿部は住吉一家総長の座を上萬一家の貸元であった磧上(せきがみ)義光に譲り、自身は事業一本に転じた。

 (2)、総長賭博

  ・昭和39年(1964)、阿部の老後の資金づくりのために、稲川会総長・稲川角二は、箱根で総長賭博を開帳した。これは壮大なもので、一晩に約5億5000万円の賭金が動いたとされる。しかし、この直後に阿部は亡くなった。享年69歳。

<参考文献>

『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)

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