稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

ヤクザ抗争史 岐阜市の抗争事件

1、稲川組と芳浜会(よしはまかい)の抗争事件

 (1)、昭和30年代の岐阜

  ・昭和30年代頃の岐阜は、博徒池田一家の大幹部・坂東光弘と、的屋芳浜会菊田派・菊田吉彦、同会杉本派・杉本重太、瀬古安会・安璋煥(しょうかん、鈴木康雄)が対立していた。

 (2)、坂東の稲川組入り

  ・昭和36年(1961)、坂東が稲川組林一家総長・林喜一郎の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任した。

 (3)、坂東光弘射殺事件(芳浜会→稲川組)

  ・昭和37年(1962)、タクシーで移動中の板東が芳浜会杉本派の組員に射殺された。この組員はすぐに岐阜中警察署に自首した。

 (4)、和解の成立

  ・坂東が芳浜会組員に射殺された報を聞いた稲川組は、林をはじめ横須賀一家総長・石井隆匡など約200人を岐阜に結集させた。他方、芳浜会も約300人ほどが集結しこれに対峙した。林は芳浜会会長・西松政一が謝罪に来ることをもとめ、西松もこれに応じたことから、稲川組と芳浜会の抗争は和解が成立した。

2、岐阜抗争

 (1)、林の舎弟へ

  ・昭和37年(1962)、菊田と安は、林の舎弟になりたい旨を申し入れ、林はこれを受け入れた。

 (2)、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟へ

  ・同じころ菊田と安は、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟にもなった。これに林は激怒し、菊田と安の殺害を指示した。しかし、菊田と安の所在がつかめなかったことから、標的は芳浜会菊田一家幹部・足立哲雄となった。

 (3)、足立哲雄襲撃事件(鶴政会→芳浜会)

  ・昭和37年(1962)、足立が運転中に林の若衆達に襲撃され、足立は重傷を負った。

 (4)、和解の成立

  ・足立襲撃犯は大垣警察署に自首し、菊田・安と林は手打ちが成立した。この後、林は岐阜県に林一家を置くことを承認させた。

3、菊田・安の三代目山口組入り

 (1)、地道組入り

  ・昭和30年代後半から始まった鶴政会(錦政会)の岐阜進出に対して、菊田・安は昭和38年(1963)に三代目山口組若頭・地道行雄から舎弟盃を受け、地道組へと加入した。

 (2)、直系組織へ

  ・昭和45年(1970)、両組織は山口組直系組織に昇格した。中京地区屈指の繁華街である柳ケ瀬をはじめとして、両組織は岐阜県下に勢力を拡大していった。

4、組長追放事件

 (1)、原因

  ・昭和53年(1978)、菊田は総工費1億数千万円の鉄筋五階建ての豪華な自宅兼事務所を新築し、新築祝儀を傘下の組長らに強制的に上納させようとした。また安も、会長宅の新築に際して、建築費のほとんどを傘下の組長らに割り当て、上納させた。以前から高額の上納金に不満を持っていた両組織傘下組長達はこれに反発し、上部団体である山口組本部に直訴をした。

 (2)、クーデターではないアピール

  ・両組織傘下の組長達は、決して山口組に対してクーデターを起こしたわけではなく、菊田と安に対する不満であることをアピールする必要があった。当時の山口組は大阪戦争の最中であったので、山口組に忠誠を示すために、菊田組と瀬古安会から脱退した組員が松田組組長・樫忠義宅へ銃撃をする発砲事件を起こした。

 (3)、組長追放

  ・当時若頭であった山本健一は両組織傘下組長と直接会って事情を聞いた上で、菊田と安を「統率力なし」として除籍処分とした。

 (4)、山心会の結成

  ・その後、瀬古安会は副会長であった野田弘治が野田組を結成し、菊田組は舎弟頭であった近藤慶文が近藤組を結成した。そしてこのような旧瀬古安会と旧菊田組の幹部9人が集まって、昭和53年(1978)に「山心会」を結成され、本部預かりとなった。組織運営は、合議制であった。

5、野口組長射殺事件

 (1)、意義

  ・「山心会」は寄り合い世帯ということもあって内部対立が絶えなかった。昭和54年(1979)、柳ヶ瀬の喫茶店の路上前で、野田が拳銃で同じ山心会西条組の準幹部に撃たれた。野田はこの襲撃の後に死亡した。

 (2)、原因

  ・直接的な原因は、もともと野田組の縄張りであった店に西条組がルーレットをつけたことであるが、寄り合い所帯の山心会内で主導権を握っていた野田に対して、西条組が山心会の主導権を握ろうとしたことが主因である。

6、八組長同時昇格

 ・この後も内輪もめによる拳銃乱射事件が相次いだ。よって山口組本家は本部長・小田秀臣を岐阜に派遣し、昭和54年(1979)に二代目野田組組長・本田健二、近藤組組長・近藤慶文、足立会会長・足立哲雄、坂廣組組長・坂井廣、川合組組長・川合康允、中尾組組長・中尾春男、雄心会会長・後藤昭夫、則竹組組長・則竹武由を同時に三代目山口組直参に昇格させた。三代目山口組時代は、この8組長に中谷組組長・中谷利明を加えた9人が「岐阜九人衆」と呼ばれた。

7、現在

 ・引退や死亡が続き、「岐阜九人衆」で最後まで残ったのは川合組組長・川合康允であった。その川合も令和3年(2021)に逝去している。その後川合組を継承したのが、六代目山口組三代目弘道会若頭・野内正博率いる野内組で若頭を務める北村組組長・北村和博であった。なお、野内は則竹組出身である。

  cf.野内氏を10代の頃から知っているという西村まこさんによると、野内氏は立派な方で、現在の岐阜は野内組が仕切っているとおっしゃっています。



<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『弘道会総覧』(竹書房、2004)


ヤクザ人物史 会津小鉄(上坂仙吉)

1、出生

 (1)、出生

  ・天保4年(1833)、大坂で水戸の浪人・上田友之進と母ユウの子として生まれた。

 (2)、孤児

  ・仙吉が3歳の時に父が妻子を捨てて家を出てしまった。母ユウと仙吉は父を探して水戸へ向かって旅にでるが、この旅先で母も亡くなり、齢6歳にして天涯孤独となった。

2、悪童時代

 (1)、「子供博打」

  ・仙吉は祖父母の実家で引き取られ、そこで育てられることとなった。しかし、8歳か9歳になると神社の境内で開帳される「子供博打」にはまりだし、10歳ころになると胴元を張るようになった。ここで「子供博打」の頭分であった上坂音吉出会う。

 (2)、殺人

  ・仙吉は17歳の時に、博打仲間の不始末をタネにその親をゆすっていた男を殺してしまった。音吉に付き添われ仙吉は奉行所に出頭し、「大坂所払い」となった。

3、渡世入り

 (1)、江戸へ

  ・渡世入りした仙吉は、江戸へ向かった。江戸では香具師の親分、神田の政五郎一家の所へ草鞋を脱いだ。この時、江戸の大親分辰五郎一家と政五郎一家の喧嘩の仲裁役を買って出て男を上げた。

 (2)、結婚

  ・仙吉は瞽女(ごぜ、女性の盲人芸能者)のおりんと結婚をした。

4、会津小鉄会の結成

 (1)、会津藩へ

  ①、かくれ賭場開帳

   ・江戸から京都へ移った仙吉は、女房を食わしていくために安定収入を求め、名張屋新蔵一家の縄張りであった粟田口で、仲間3人と隠れて賭場を開帳した。しかしこれがすぐに名張屋一家に露見し、夜襲をうけた。この時女房おりんが命を失っている。

  ②、仙吉の返し

   ・仙吉はおりんの敵討ちに名張屋一家に単身で乗り込み、おりんを殺したお神楽源治を斬殺した。

  ③、会津藩との接点

   ・この一部始終を見ていたのが、会津藩邸出入りの中間、人夫、鳶職などの御用達をしていた大垣屋清八であった。大垣屋清八は仙吉の腕と度胸と人情に惚れて仙吉を引き取った。ここに仙吉と会津藩との接点が生まれる。

 (2)、会津小鉄一家の結成

  ①、会津藩邸中間部屋の部屋頭へ

   ・仙吉は岐阜大垣に住んで大垣藩邸御用達で修業をした後、京都に戻って大垣屋清八と親分子分の盃を交わし、当時京都にあった黒谷と百万遍の両会津藩邸の中間部屋の部屋頭となった。

  ②、会津小鉄一家の結成

   ア)、「会津の小鉄」

    ・仙吉は、背一面に「小野の小町」の絵柄と桜吹雪をあしらった刺青を入れ、「長曽根入道虎徹」の長脇差を常に携帯していた。小柄な体格であったことから「小鉄の仙吉」と呼ばれていたが、会津藩中間部屋を取り仕切るようになると「会津の小鉄」と呼ばれるようになった。

   イ)、会津小鉄一家の結成

    ・仙吉の元には、悪ガキ時代の仲間であるいろは楼の幸太郎、旅籠屋の熊五郎、京友禅の常吉が若衆を引き連れてやってきて、盃をもらって子分となった。文久2年(1862)、仙吉が29歳の時に大垣屋清八の許可を得て、代紋は大瓢箪と定めて、「小鉄一家」の看板を掲げた。のちの会津小鉄会の結成である。この時子分は300人ほどいたという。

5、幕末京都での活躍

 (1)、会津軍受け入れ体制整備

  ・幕末の京都は治安が乱れていた。よって文久3年(1863)12月に京都守護職の会津藩藩主・松平容保が1000人の兵を引き連れて京都にのぼった。この1000人の兵を収容するために、会津藩は黒谷、百万遍両藩邸の拡張や宿舎の建設を工期100日そこそこで行った。この時仙吉は会津藩の命令で、工事に必要な人夫、大工、左官などの職人、建設資材から、米、ミソの食料品までを調達し、工事を背後から支えた。

 (2)、新選組への協力

  ①、芹沢鴨の暗殺

   ・文久3年(1863)、新選組の芹沢鴨が暗殺をされた。この暗殺の実行犯が実は仙吉であったのではないかと四代目会津小鉄会会長・髙山登久太郎は推測している。

  ②、池田屋事件

   ・元治元年(1864)、新選組が四条河原町の旅籠屋・池田屋で倒幕の謀議をしている勤皇志士たちを襲撃した。この時、池田屋を遠巻きにして他の勤皇の志士たちの応援を阻んで新選組の仕事をやりやすくしたのが仙吉とその子分たちであったと言われている。

 (3)、蛤御門の戦い

  ・元治元年(1864)、会津藩や薩摩藩を中心とする幕府軍と長州藩との間で戦いが起こった。この時仙吉は、会津藩や薩摩藩兵士の死体や負傷者収容の総指揮をとった。この労により会津藩藩主・松平容保からは感状と恩賞をもらっている。なおこの時、仙吉が助けた薩摩藩の負傷者の中に、明治新政府で警察制度を作ることになる川路利良がいた。川路が作った警察がのちに会津小鉄会を弾圧することになるので、奇妙な縁である。

6、襲撃され大阪へ

 (1)、襲撃をうける

  ・会津藩と共に行動をしていた仙吉は勤皇志士をはじめ敵も多かった。仙吉はで歩くときに子分たち若い衆を付き添わせないこともあって、菊乃屋という貸座敷で丸腰でいたところを何人かの浪士に襲撃され、命はとりとめたが、額や肩、胸元、胸、足など数カ所に大小の傷を負った。この時、右手で白刃を握ったことから、親指と人差し指以外の三本の指がそぎ落ちた。

 (2)、大阪へ

  ・体中傷だらけの仙吉は、生まれ故郷である大阪で療養生活を送った。家はかつての博打仲間である音吉が高津に用意してくれた。この高津の家で芸者・小富との間に男児「卯之松」(後二代目となる)を生んだ。仙吉が大阪で療養中、京都の会津小鉄一家を支えたのが、いろは幸太郎ら小鉄一家四天王、八人衆であった。この頃になると会津小鉄一家は、京都のほか大阪、兵庫、滋賀方面にも舎弟親分をつくり一家の勢力を伸ばしている。

 (3)、賭場荒らしで牢屋へ

  ・当時京都では大名屋敷の中間部屋が、大阪では大阪城勤番の直参旗本が賭場を開いていた。仙吉はこの直参旗本が開いていた賭場に出入りし、旗本の侍や用心棒と渡り合い3人を殺めたことから牢屋送りとなった。京都で仙吉の留守を守っていたいろは幸太郎ら幹部が200両という大金を用意して旗本をなだめ、死罪は免れた。

7、鳥羽伏見の戦い

 (1)、鳥羽伏見の戦いに参戦

  ・慶応4年(1868)、薩摩藩長州藩を中心とする新政府軍と、会津藩を中心とする旧幕府軍との戦いが起こった。仙吉は牢屋から釈放され、会津藩のために総勢500人の荷駄隊を率いて従軍し、食料品の輸送や、負傷兵の収容、傷の手当などを行った。

 (2)、会津藩の敗北

  ・戦いで会津藩は壊滅状態となり、仙吉も子分のいろは幸太郎ら15、6人を残して、残りの荷駄隊隊員全員に功労金を支払い荷駄隊を解散させた。その仙吉に対して会津藩も労をねぎらい任務を解いた。

 (3)、遺体の収容

  ・任務を解かれたが、仙吉は戦死した会津兵の遺体を収容する仕事をやりたいと直訴した。会津藩は仙吉に千両箱を渡し、仙吉はこの金を使って会津藩だけでなく官軍側の戦死者の遺体を収容し、砲弾によって穴があいた道路を補修し、落ちかかった橋の改修工事を敵陣からの妨害などにあいながら命がけで行った。そして、仙吉は自ら会津まで行き、回収して荼毘に付した遺骨を届け「会津藩兵の遺体を全部収容した」ことを報告してお役御免となった。

8、仙吉の明治

 (1)、戦犯

  ・仙吉は遺体の収容作業が終わった後、博徒の親分として鳥羽伏見の戦いに加わり官軍と応戦した戦犯として捕まり連行された。この時裁判にあたったのが、明治新政府で警察制度を作ることになる、当時新政府民政局長官を務めていた川路利良であった。川路は「無罪放免」の判決を出した。

 (2)、妻の死

  ・遺骨を届けた後、仙吉は会津から大阪高津の自宅に帰ったが、妻小富は二人目の子どもを身ごもり、難産で体力を使い果たし死亡していた。次男の辰之助は九州博多の博徒の親分の所に養子に出し、仙吉は長男の卯之松を連れて京都に戻った。

 (3)、結婚

  ・かつて、蛤御門の戦いで孤児となったユカという幼女をいろは幸太郎が救って仙吉のもとに連れて来たことがあった。仙吉はこの子の養育を知り合いの祇園の女将・よねに頼み、養育費として大金を渡した。成長してユカは祇園で芸者をしていたが、京都に戻った仙吉はこのユカと結婚をした。20歳の年の差婚であった。このユカとの間に仙之助が生まれた。

 (4)、絶頂期

  ・この頃の会津小鉄会の縄張りは、京都を中心に滋賀、大阪、神戸へと拡がり、直系の子分は2000人、孫子分まで合わせると12000人という巨大組織となっていた。各地の賭場から仙吉のもとへ1日150円(現在の貨幣価値で5000万円)が上納されていたともいう。明治9年(1876)、京都市左京区北白川吉田町1丁目に仙吉は約2400坪の大豪邸を建造した。

 (5)、教育への投資

  ①、「小鉄学校」

   ・激動の幕末維新期において、孤児が多く発生した。仙吉はこのような子どもたちの収容施設を作った。当時の人はこれを「小鉄学校」と呼んだ。

  ②、同志社大学の建学資金

   ・新島襄の妻八重の実父が会津藩砲術師範であったことから、会津藩と縁の深い仙吉は知り合いであった。この関係で、新島襄が同志社英学校(現同志社大学)を建学するときに、今の金で1億円ほどを提供し、さらに自宅近くに一軒家を買い、同校の学生をここに住まわせて衣食住の面倒をみた。

9、仙吉の死

 (1)、明治の博徒大刈込

  ・明治17年(1884)、賭博犯処分規則制定された。所謂明治の博徒大刈込である。この前後は明治新政府が博徒を大弾圧する時期であり、仙吉も明治16年(1883)に逮捕され、賭博開帳罪と博徒招結罪で重禁錮10ヶ月罰金100円の判決を受けた。

 (2)、仙吉の死

  ・仙吉は10ヶ月の刑期を務めて出所したが、この時別人のように衰え、すぐに京都大学の附属病院へ入院した。明治19年(1886)、死を悟った仙吉は得度をして僧籍に入り、その後死亡した。享年53歳。

 (3)、守られなかった遺言

  ・仙吉の遺言は「ユカ、極道はワシ一代でいい。仙之助、卯之松、堅気になれよ。いろは(幸太郎)よ、頼んだぞ・・・・・」であった。しかし、遺言に反して仙之助は家出をしその行方は永遠に不明のままとなり、卯之松は会津の小鉄の二代目を継いで極道となった。

<参考文献>

 『警鐘PART2』(髙山登久太郎、ぴいぷる社、1993)

ヤクザ抗争史 山一抗争 山本広宅襲撃事件

1、意義

 ・昭和62年(1987)2月、山口組と一和会は抗争の「終結」を宣言した。しかし、竹中正久を射殺された竹中組は、山本広への攻撃をやめなかった。この事件は山一抗争の末期、現六代目山口組若頭補佐・安東美樹が山本広宅を襲撃し、その過程で警察官に銃撃をして重傷を負わせてしまった事件である。

2、準備

 (1)、人物

  ・当時の安東美樹は、竹中組内安東会の会長であった。ヤクザにしては珍しく物腰が柔らかく、謹厳なタイプであり、親分である竹中組組長・竹中武に心酔していた。

 (2)、準備

  ①、人員

   ・襲撃グループは、安東を含めて5人であった。竹中組と、竹中武と後藤忠政が仲がよかったことから、後藤組の者も参加した。

  ②、武器

   ・米国製の自動小銃M16や、その先端に差し込み、対戦車戦などに使うてき弾などを準備した。

  ③、訓練

   ・安東はフィリピンに5回ほど渡航し、拳銃や機関銃の射撃訓練を受けた。

  ④、計画

   ・まず安東ともう一人が山本広宅に詰める2人の警官にホールドアップし、スプレーで目つぶしをしたうえ、針金で縛りあげて自由を奪う。その後、屋外に1人だけ残し、4人が山本広宅に乱入し、山本広が家にいればこれを殺し、いなければ女と子どもは屋外に逃がした後に、山本広宅を爆破する、というものであった。

3、事件

 (1)、決行決定

  ・昭和62年(1987)5月13日、安東は山本広が在宅であるという情報を得た。よって、同年5月14日午前2時に決行することになった。

 (2)、逃走

  ・襲撃グループは5人であったが、決行となって1人が逃走してしまった。安東は残り4人で決行することを決定した。

 (3)、誤算

  ・襲撃グループは山本広宅へ自動車で向かった。山本広宅の前にはパトカーが停まっており、この中に警察官がいた。しかし、計画では警察官は2名だと思っていたが、1人警察官が遊びに来ており、パトカー内に警察官は3名いた。安東らは警察官は2名だと思っていたので、パトカーの窓越しに2名の警察官に向かって「手を挙げろ」と自動小銃を向けた時、もう1人の警察官が拳銃に手をかけ反撃しようとした。この時に、安東らは警察官が3名いたことに気が付いた。

 (4)、警察官への発砲

  ・安東は自動小銃やライフル銃など20数発を警察官に発砲し、2週間から5ヶ月の傷を負わせてた。

 (5)、山本広邸へてき弾を撃ち込む

  ・警察官が携帯無線機の非常スイッチを押していたので、応援の警察官が駆け付けるのは時間の問題であった。安東は、急いで自動小銃の先端にてき弾を差し込み、山本広宅へ撃ち込んだ。しかし、山本広宅には警察がネットを張っていたので、てき弾はネットに引っかかって地上に落ち爆発した。さらに、山本広邸の勝手口に消火器爆弾も仕掛けたが、これも発火薬部分だけが燃えたのみであった。

 (6)、茨城へ

  ・安東らはてき弾の爆発によって肩や膝を負傷した。この後、山口組系後藤組組員の支援で茨城県東茨城郡城北町の病院で肩や膝から金属片の摘出手術を受けた後、再び逃走した。

 (7)、逮捕

  ・昭和62年(1987)5月28日、兵庫県警は安東を爆発物取締法違反容疑で指名手配した。後、安東らは逮捕され、安東は懲役20年の刑に服した。

 (8)、影響

  ・安東の山本広邸襲撃事件の一週間後に、一和会本部長・松本勝美が引退と松美会の解散を表明した。

4、見方・評価

 (1)、山口組若頭・渡辺芳則

  ・渡辺は「こんなんは、実に非道なことですわ、往生してます」として、二代目山健組の組内に犯人がいないか調べさせた。そして、犯人に対しては「シャブをうってやったとしか思われへん。判断力がちょっとでもあれば、こんなことせぇへん。プラスになること、一つもあらへんやないの。マイナスばっかりや。やった人間にしたら人から恨まれたうえ、懲役に行かなしゃあない。それも間違いなく最高刑をくらうやろうね」と非難した。

 (2)、竹中組組長・竹中武

  ・竹中武は「この度の一件で世間はとやかく言っている様だが、評価などという問題は通り越しており、ヤクザとしてやられた事をして返すというだけの事。その目的達成の為には、わが命を捨て、手段を選ばずのみである。ただ、この度、犠牲になった三警官の方々には、本当に申し訳ないことをしたと思っている」とマスコミ宛てにコメントを出した。他方、渡辺芳則の「シャブうってやったとしか思われへん。プラスになること、一つもあらへんやないの」という発言には、「これから上に立とうという人間が、組のためを思う若い者の気持ちを買ってやれんでどうするかい。」と激しく反発し、「山口組に迷惑をかけるようやったら、山口組をでてもいい」という意向を漏らし、安東をかばい事件に準ずる姿勢を示した。のちに、渡辺芳則が山口組五代目を継承したときに、竹中武が盃を飲まなかった遠因ともなった。

  cf.なお、渡辺氏を擁護すると、元山口組顧問弁護士の山之内幸夫氏は、渡辺氏はヤクザ的な人(自分のせいで人が死んでもあまり気にしない人、くよくよせずに開き直れる人)ではなく一般人の優しい感覚を持っている人であるとされます。



5、その後の安東美樹
 
 (1)、一心会へ

  ・安東は、竹中組や武組長へ捜査が及ばないように竹中組を脱退し、四代目山口組若頭補佐の一心会会長・桂木正夫の舎弟盃をうけて、一心会へ移籍した。

 (2)、収監中
   
  ・安東は、懲役20年で懲役生活を送っている時も、四代目山口組組長・竹中正久を襲撃した実行犯を殴りかかる騒動を起こした。

 (3)、六代目山口組最高幹部へ

  ①、社会復帰

   ・安東は、平成23年(2011)の出所し、三代目一心会副会長、若頭代行を歴任し、平成26年(2014)に初代柴田会会長・柴田健吾の跡目として、二代目柴田会を襲名し、六代目山口組の直参となった。

  ②、二代目竹中組組長へ
   
   ・平成27年(2015)に安東は六代目山口組の幹部となり、さらに二代目柴田会を二代目竹中組に改称した。

 (4)、古川恵一幹部射殺事件と養子縁組

  ①、古川恵一幹部射殺事件

   ・令和元年(2019)11月、神戸山口組幹部で三代目古川組総裁の古川恵一が、元六代目山口組二代目竹中組組員・朝比奈久徳に自動小銃で射殺された。朝比奈はこの事件の1年前に二代目竹中組を破門されていた。

  ②、養子縁組

   ・令和3年(2021)2月19日、神戸地裁は朝比奈に無期懲役を言い渡した。朝比奈は控訴した。この後朝比奈は安東と養子縁組をし、安東久徳となった。かつて安東も山広邸を襲撃しジギリをかけたが、渡辺に「シャブをうってやったとしか思われへん」と言われ悲しい思いをしたことから、朝比奈(現安東)を支えるために養子縁組をしたと思われる。

6、映像

 (1)、武闘派極道史竹中組組長邸襲撃事件

  ・家にこもる山城剛志(モデルは山本広)とそれを襲撃しようとする安藤英樹(モデルは安東美樹)を中心として、赤坂進射殺事件、脱会強要射殺事件、竹中正久の墓前での竹中組員の射殺事件、中川宣治射殺事件、中野会の砂子川組への誤射事件、加茂田重政の引退など竹中正久射殺事件後の竹中組の返しを描いている作品です。変に美化するのではなく、山城邸襲撃メンバーの1人が途中で逃げ出したことであるとか、張り付け警備の警官が2名だと思っていたのが3名で狼狽するところであるとか、扉を爆弾で爆破して開けようとしたら不発であったところであるとか、敵弾が警察が山城邸に張った防護ネットに跳ね返って逆に撃った側が怪我をするところとか、ちょっと情けない場面がありのままに描いていて、そこが逆にリアル感があります。竹中組組長・竹中武氏は、兄である四代目山口組組長・竹中正久氏の生涯を描いた『荒ぶる獅子』(溝口敦、講談社、1999)の中で、「この本は兄のいいことも悪いことも、恥ずかしい時代のことも含めて、ありのままに記している。誰でも恥ずかしい時代、苦しい時代をくぐり抜けている。それを忘れて、いいこと、ウソばかり書いている本には値打ちがない」という解説を書いていますが、竹中武氏の恥ずかしい所も含めてありのままに描く手法が成功していると思います。

<参考文献>

 『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)

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