稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

ヤクザ組織小史 東組

1、意義

 ・ヤクザ組織が密集する西成で一本独鈷を貫く超武闘派組織である。

2、来歴

(1)、初代東清

  ①、少数でのスタート

   ア)、池田組

    ・「浪花の侠客」と言われた池田大次郎率いる池田組の舎弟頭に、信貴久治という者がいた。この信貴の子分が東清である。

   イ)、少数でスタート

    ・信貴は選挙に出馬することとなり、ヤクザ渡世を引退した。これにより東清は、1960年代にヤクザの激戦区大阪西成でわずか20~30人ほどで東組を結成した。この頃の西成は60~70の組事務所がひしめいており、その中で群を抜く戦闘力で一本独鈷を守ってきた。

  ②、新世界事件

   ・大阪の歓楽街、新世界は東組の縄張りであった。そこへ、三代目山口組菅谷組系初田組が進出してきた。昭和46年(1971)正月早々、東組と菅谷組系初田組は衝突し、通天閣近くの喫茶店で乱闘の末、東組は菅谷組系初田組の若頭を堺市にある東組系清勇会の事務所へ拉致する事件が起こった。

  ③、三代目山口組系山健組との抗争

   ・昭和48年(1973)に東組は三代目山口組系山健組と抗争を起こした。きっかけは、大阪ミナミの喫茶店で、山健組傘下組織の幹部と東組組員とが喧嘩をし、山健組組員が重傷を負ったことによる。この抗争は、山健組と東組双方の事務所への発砲や銃撃戦、さらに御堂筋でのカーチェイスなどと燃え上がり、三代目山口組幹部会でも協議されるようになった。東組を徹底的に叩こうという強硬派と、三代目山口組組長・田岡一雄が入院したばかりの時期だったので抗争は自重しようという穏健派に分かれて紛糾したが、若頭補佐・清水光重が指を切断して和解を訴えた。これに田岡文子が動いて、東組との抗争は和解ということになった。これ以後、東清は清水と親戚として親交を結ぶようになった。また、武闘派の山健組に対して一歩も引かない戦いをしたことから、東組は武闘派集団として名を馳せた。

  ④、三代目山口組系桜井組内難波安組との抗争

   ・昭和57年(1982)に東組は三代目山口組系桜井組内難波安組と抗争を起こした。きっかけは、堺市の喫茶店へのゲーム機のリースを巡るトラブルであった。東組系二代目清勇会事務所と難波安組事務所へのカチ込みの応酬が行われ、さらには、桜井組系の組員が東組本家事務所を銃撃すると、東組側ものちに二代目東組組長となる滝本博司が、桜井組本部事務所前を警察官が警戒していた中で、警官に「おはようさん」と声をかけた上で堂々と事務所内に入り込み、拳銃4発を打ち込むという事件を起こした。この事件から3日後に、三代目会津小鉄会理事長・高山登久太郎、四代目砂子川組組長・山本英貴、三代目倭奈良組組長・橋本正男を仲裁人として、和解の手打ち式が行われた。

  ⑤、新大阪戦争

   ・昭和58年(1983)、五代目酒梅組との間で2ヶ月の間に約40件の発砲事件を起こすという新大阪戦争を繰り広げた。双方合わせて死者1名、負傷者8名、逮捕者107名を出している。

    →新大阪戦争

  ⑥、三代目山口組系弘田組との抗争

   ・昭和58年(1983)、東組は三重で三代目山口組弘田組と抗争を起こした。

  ⑦、四代目山口組系倉本組との抗争

   ・昭和60年(1985)、東組は四代目山口組倉本組と抗争を起こした。この時、東組二代目清勇会組員が、尼崎のラウンジ・キャッツアイで19歳のアルバイトホステスを誤って射殺してしまう事件(キャッツアイ事件)が起きた。二代目清勇会会長・川口和秀はこの事件の首謀者ということで逮捕され、15年の刑に服した。

    →キャッツアイ事件

  ⑧、泉州抗争

   ・昭和62年(1987)、四代目山口組杉組・須藤組との間で半年に計26件の事件で死者5人、負傷者2人をだす泉州抗争を起こした。

    →泉州抗争
  
 (2)、二代目滝本博司

  ①、ツートップ体制

   ・平成22年(2010)2月、東清のもとで長年若頭を務めてきた滝本博司が二代目東組組長となった。東組は「組」であはるが東清は「総長」を名乗ってきた。この人事によって、東清はそのまま総長となり、滝本を組長とする、東総長ー滝本組長のツートップ体制となった。

  ②、川口和秀の出所

   ・キャッツアイ事件で長期服役をしていた川口が、平成22年(2010)12月に府中刑務所から出所し、副組長に就任した。平成元年(1989)1月に逮捕されて以来、22年ぶりの社会復帰であった。

  ③、二代目清勇会の加盟抹消と川口の絶縁

   ・令和4年(2022)1月、滝本と川口が対立。初代総長・東清の実弟で初代清勇会会長・東勇が間に入って川口が独立することで一旦話がついたが、結局同年2月28日に川口が絶縁となり、二代目清勇会が家名抹消となった。



3、映像

 (1)、実録 東組抗争史 閻魔の微笑

  ・最近は「ヤクザと憲法」でおなじみの東組が、ヤクザ激戦区西成でのし上がっていくストーリーです。最初は、昭和21年(1946)、終戦直後の岡崎礼さん演じる若き日の東清と松田組の話から始まります。岡崎礼さんは、華のあるいい役者ですね。坊主だと髪型でごまかせないので本当の男前だと思います。しかし、傷害事件を起こして最近は出演されていません。復帰はないのでしょうか。その後、昭和31年(1956)に移り、東清役が白竜さん、東勇役が小沢仁志さんに代わって、東組の結成の話に移ります。酒谷組(モデルは酒梅組)など既存組織に因縁をつけてはシマを奪ったり、呼ばれていないのに葬式に押し付けて売名したり、かなり強引に勢力を広げていきます。好戦的な東組ですが、特に酒谷組との新大阪戦争は詳しく描写されています。



  cf.岡崎礼さんは現在反ワクチン運動をされているそうです。

 (2)、ヤクザと憲法

  ・平成30年(2018)、「ヤクザと憲法」に出演した、東組二代目清勇会若頭・大野大介が、ビルの建設代金の支払いを逃れるため、工事代金を請求した下請け業者を脅したとして、建設会社社長とともに、暴力行為等処罰法違反の疑いで逮捕された。

 <参考文献>

 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊侠伝・川口和秀』(山平重樹、幻冬舎、2016)
 『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)
 「反ワクチン団体自称リーダーの元俳優を逮捕 父は俳優・岡崎二朗 過去にも殺人未遂で逮捕歴」(よろずー、20220420)

ヤクザと相撲 力士はなぜ博打が好きなのか?

1、かつて力士は博徒だった

 (1)、意義

  ・江戸時代の博徒を研究されている高橋敏氏によると、力士が博徒になるケースはよくあったそうです。

 (2)、江戸時代力士から博徒になった者の具体例

  ①、保下田久六 

   ・尾張から三河・伊勢に勢力を持っていた博徒。のちに清水次郎長に斬殺された。

  ②、飯岡助五郎 

   ・下総の博徒。笹川繁蔵と対決し、関東取締出役から笹川繁蔵召し捕りを命ぜられたことから決闘を行い、後に笹川繁蔵を暗殺した。天保水滸伝で有名である。また、相撲会所から「近国近在相撲世話人」の証状をもらっている。

  ③、笹川繁蔵

   ・下総の博徒。関東取締出役から繁蔵召し捕りを命ぜられた飯岡助五郎と縄張り争いも加わって決闘を行い、後に飯岡助五郎一味のものに暗殺された。天保水滸伝で有名である。また、相撲の神様である野見宿禰の碑を建立もしている。

  ④、勢力富五郎

   ・笹川繁蔵の子分の下総の博徒。笹川繁蔵が飯岡助五郎に暗殺されたあと、残された子分と共に飯岡助五郎をねらうが果たせず、関東取締出役の大掛かりな追っ手に囲まれ、潜伏先の金比羅山(千葉県東庄町)で自殺した。天保水滸伝で有名である。

  ⑤、寺津の治助(今天狗)

   ・今津(現在の愛知県西尾市)に勢力を持っていた博徒。

  ⑥、平井の亀吉(雲風) 

   ・東海道の宿場御油宿・赤坂宿(現在の愛知県豊川市)に勢力を持っていた博徒。現在の六代目山口組十一代目平井一家の初代である。

  ⑦、一本刀土俵入

   ・実在の人物ではありませんが、歌舞伎の演目に「一本刀土俵入」があります。これも力士をやめ博徒になった駒形茂兵衛の話しです。

2、相撲教習所の紳士教育

 (1)、意義

  ・昭和32年(1957)、蔵前国技館内に相撲教習所ができます。相撲教習所ができた経緯について相撲教習所で講師を務めた和歌森太郎氏は『相撲の歴史と民俗』の中で以下のように指摘します。

 (2)、引用

  「これまでとかくすると、力士はやや博徒あるいは侠客風なところがあってその点が愛されもしたけれども、洗練された紳士たちには、相撲をどうもなじみがたいものにさせてもいたのである。このような傾向を粛正して、力士も人間として紳士らしく振舞わなければならないことを強調したのは常陸山であった。礼節のやかましい部屋の生活、一般人に対する所作に折り目正しいものを持つようになったのは、すべてこの常陸山以来であったといってよい。」

 (3)、紳士教育

  ・力士は江戸時代以来の博徒侠客風な人が多いので、相撲教習所で紳士にしようということが相撲教習所の目的でした。しかし、その後の大相撲史を振り返ってみても、常陸山谷右エ門以来の思いはなかなかかなわなかったようです。

3、大相撲野球賭博問題

 (1)、意義

  ・平成22年(2010)、現役の大相撲力士、年寄などによる野球賭博への関与が発覚しました。


 (2)、内容

  ・当事者の貴闘力によりますと、「1割はバックで取られるわけ。100万円張ったとしたら1割を取られて90万円でくるわけ。直接じゃなくて中継みたいな人がいて、中継の人は反社じゃなくてお相撲さんあがりの人間とかね、働いてる中で小遣いを稼ごうと思ってやってる子が多いから、そういうのでみんな遊んでたの。それをどっかで聞きつけたヤツがいて、そんなことしてたら週刊誌に売るぞという形になったときにはじめて野球賭博が公になったの。野球賭博してた仲間が40人くらいいたの。どうしようどうしよう言っていて、じゃあ警察に相談した方がいいよねっていう話になって警察に相談したら、警察のヤツも出世したいじゃない。それを全部週刊新潮に売っちゃった」ということだそうです。

4、令和の違法賭博問題

 (1)、経緯

  ・令和3年(2021)7月30日と8月11日に、幕内英乃海と十両紫雷が埼玉県草加市の違法賭博店で違法スロットをやっていたことが同年12月に発覚しました。両力士は令和4年(2022)の初場所は師匠の木瀬親方の判断で休場することになりました。

 (2)、処分

  ・令和4年(2022)1月27日、日本相撲協会は英乃海を出場停止1場所と2ヶ月の報酬減額20%、紫雷をけん責という処分を発表しました。

 (3)、他の力士との比較

  ①、意義

   ・英乃海と紫雷への処分は他の力士と比較すると異常に軽いものになりました。

  ②、比較

   阿炎 協会のコロナガイドラインに違反しキャバクラ+協会に虚偽報告 3場所出場停止+5ヶ月50%の報酬減額

   竜電 協会のコロナガイドラインに違反し愛人と逢瀬 3場所出場停止

   朝乃山 協会のコロナガイドラインに違反しキャバクラ+協会に虚偽報告 6場所出場停止+6ヶ月50%の報酬減額
  
   貴源治 大麻使用 解雇

 (4)、なぜ処分が軽いのか?

  ①、日本相撲協会の説明

   ・日本相撲協会は処分が軽い理由を、①2回しか行っておらず常習性がない、②10万円以下で低額、③初場所休場しており社会的制裁を受けている、からとします。

  ②、貴賢神(元貴源治)のツイッター

   ・大麻使用で解雇になった貴賢神(元貴源治)はTwitterで、「人間殆ど貴乃花親方の味方だった人達。今の上の奴らの一門や部屋の奴らは法律犯しても解雇にならないんやなw 俺の時コンプラ委員会の奴らが法律に触れてるからとか言ってたけど今回のは触れてなかったのかな~ 流石です 相撲協会」とつぶやきました。処分が軽いのは木瀬部屋が出羽海一門だからであり、他方、貴乃花親方の味方をした過去がある親方の部屋の力士は処分が重くなる傾向があるそうです。
  
  ③、その他ネットの反応

   ・その他ネットでは、日大出身の力士には甘いとか、他の力士が違法賭博をやっていたことを公言しないかわりに処分を軽くしてもらったという説などが言われています。歴史的に考えれば力士は博徒の系譜なので親方衆も違法賭博をやっていた方も多いでしょうから、厳しく処分するのは心苦しかったのかもしれません。

5、まとめ

 ・ヤクザと大相撲の関係が問われることがありますが、かつて力士は博徒でした。博徒も力士も一瞬の勝負に人生を賭けるもの。親方のなかには勝負勘を養うためにむしろ博奕を奨励する人もいます。現在でも博奕好きの力士は多く、特に稀勢の里、豊ノ島、豪栄道、琴奨菊などガチンコ力士が博奕にハマるケースは多いそうです。豊ノ島はせっかく取得した「錦島」の年寄名跡を博奕のせいで手放したともいわれています。現在の力士は野球賭博、「バッタ」という花札賭博を行っているようですが、時代に合わせるためにも、公営ギャンブルやパチンコでガマンしないといけませんね。

  cf.貴闘力さんが力士はなぜ博打が好きなのかを語っています。


<参考文献>

 『清水次郎長――幕末維新と博徒の世界』(高橋敏、岩波書店、2010)
 『和歌森太郎著作集 (15)相撲の歴史と民俗』(和歌森太郎、弘文堂、1982)
 『大相撲の不思議』(内館牧子、潮出版社、2018)
 「暴力団、八百長、突然の引退……元妻が明かす“天才横綱”輪島大士の壮絶な真実」(武田頼政、文春オンライン、2019)
 「稀勢の里 博打後「ハア、600万負けた」と語ったとの証言」(週刊ポスト、2011年4月15日号)
 「違法賭博の英乃海は3月場所出場OK なぜ外出禁止違反の方が重罰? 朝乃山は「力士の生命を脅かしたかも」」(中日スポーツ20220127)
 歌舞伎 on the web 歌舞伎演目案内「一本刀土俵入」(20220128)


ヤクザとは何か 任侠道とは何か?

 「任侠道」とはどのような意味を指しているのだろうか疑問に思っていましたが、元山口組顧問弁護士の山之内幸夫氏が『山口組の平成史』の中でわかりやすく整理されていたのでまとめます。任侠道の意味は3つくらいに分かれるそうです。

1、「強きを挫き弱きを助ける・義理人情」という意味

 (1)、意義

  ①、意義

   ・任侠道と言えば、「強きを挫き弱きを助ける・義理人情」。世間一般的にも任侠道といえばこの意味でしょう。

  ②、具体例1 映画「旗本ヤクザ」

   ・「旗本ヤクザ」という映画の千秋実氏演じる町奴明神組の親分三左衛門のセリフ、「義理と人情、度胸に意地。弱きを助けて強きを挫く。そのためには命を投げ出すこともある。任侠道とは、男涙の茨の道だぞ」。脚本は中島貞夫氏と倉本聰氏です。このようなものが一般的な任侠道のイメージではないでしょうか。

  ③、具体例2 遠藤誠

   ・暴対法制定後に山口組が兵庫県公安委員会に対して「指定暴力団」の取消しと「暴対法の執行停止」を求めて起こした訴訟の際の遠藤誠弁護士が作成した文書には、「任侠、任侠道とは、一言では語りつくせないが、古来中国の英雄や我が国江戸時代の庶民の中から出てきた英雄(幡随院長兵衛など)に端を発した生き様を理想とし、義理人情を大切にし、人に恥ずかしくない生き方をしようというものである。任侠の『侠』は『男気』『男伊達』と言われているように、男らしい生き方をしようというものである。したがって任侠に生きる者たちは、『侠』として人に後ろ指を指されることを潔しとしない。困っている人を助け、『侠』として精一杯努力する。『男』を売り、『男』として立派になりたいと考え、日々実践している。またそのため信義を守り、人の信頼を裏切らず、義理に硬く、人情に欠けることなく、礼節を守り、生きていこうと努力している」とあります。これが山口組の公式的な「任侠道」の理解でしょうか。

  ④、具体例3 竹中正久

   ・映画の世界ではなく実際のヤクザの発言から。四代目山口組組長・竹中正久氏はインタビューの中で任侠道について、「ま、義理人情いうことはやなあ、オレは日本人として、やっぱり当然やなあ。ええことや思うなあ。義理に厚うてなあ、人に接すにも情をもって接しないかんしなあ。これはやっぱり、昔からの伝統やろ、ヤクザの・・・・・日本人の」と言われています。

  ⑤、具体例4 田代栄助

   ・歴史的には、明治17年(1884)に埼玉県秩父郡で起きた秩父事件のリーダー・田代栄助が逮捕された時、「自分ハ性来強ヲ挫キ弱ヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者便リ来ルトキハ附籍為致其他人ノ困難ニ祭シ、中間ニ立チ仲裁等ヲ為ス事実ニ十八年間子分ト称スル者二百有余人今般井上伝三等ノ目論見タル四ケ条一貧民ヲ救フノ要用ナルヲ信シ同意を表シタル処総理ニ推サレタリ」と供述しています。「強きを挫き弱きを助ける」を実際に実行したヤクザもいるわけです。

   参考)、ヤクザと社会運動 ヤクザはかつて社会運動のリーダーであった ー秩父事件と五菱会事件ー

  ⑥、具体例5 名和忠雄

   ・その名も『任侠道に生きる』という著作がある元ヤクザの名和忠雄氏は、その著書の一番最初に「『強きをくじき、弱きを助ける』任侠道は、人間道の根本なり!」と書かれています。

  ⑦、具体例6 大野伴睦

   ・『大野伴睦回想録 義理人情一代記』の著作があるヤクザとの関係が深い政治家の大野伴睦氏は、二代目本多会の襲名披露に出席したときに「わたしは義理人情をもって政治をしている。これがなければ、政治から義理人情をとってしまえば、政治がいかに空白であるかということは、みなさんがよく承知しておられることである。人情、義理、任侠というものは日本の伝統であり、政治の根本であろうと思う。吉良の仁吉とはまさに本多さんのような人であろうと思う」という祝辞を述べています。

  ⑧、具体例7 中野正剛

   ・政治家の中野正剛は、大正10年の「任侠と卑劣」と題する講演の中で、「弱者を虐げる強者に阿(おもね)る心ほど、人間として卑劣な事はない。強者を挫き弱者を扶くるを任侠と謂う。人間の美徳である。国運起こらんとする時は任侠の気風が興り、国運傾く時は人身衰えて卑劣の行動が行われる」とします。

 (2)、「強きを挫き弱きを助ける・義理人情」で生きるヤクザなどいない

  ①、意義

   ・他方、ステレオタイプな「強きを挫き弱きを助ける・義理人情」で生きるヤクザなどいない、もしくはそのようなヤクザはいても極々少数であるという事を言う方もたくさんいます。

  ②、具体例1 加茂田重政

   ア)、引用

    インタビュアー「みなさんのおっしゃる任侠道っていうのはどういうものなのですか?」

    加茂田重政「いやワシもはっきりわからんねん。わからんなりに極道しておるねん。どういう意味かな任侠道って。ワシは聞きたいねん。いっぺんどこかの親分に。知っとる人少ないんやないかな。今極道しておる人で。任侠道っていうの。」

    インタビュアー「義理人情・・・。」

    加茂田重政「そう、義理人情ね。弱きを助け強きを挫くと。」


   イ)、考察

    ・加茂田氏は、任侠道がどういう意味なのかは分かりませんとします。当然ステレオタイプな「強きを挫き弱きを助ける・義理人情」という意味は知っていますが、「強きを挫き弱きを助ける・義理人情」で生きるヤクザなんていないという意味でしょう。

  ③、具体例2 懲役太郎

   ア)、引用

    私は任侠道という道は見た事も通った事もございません。知りません。確かに私も辞書的な意味では知っていますが、私がこの30有余年この業界に携わっていますが、私みたいな外様でいわゆる本線じゃない所を渡り歩いた元組員にとっては、そんな道は通れないですし、見たことはないですね。そういう方はいると思うんですよ。任侠道という何か素晴らしい道があるのかもしれませんが、騙す、はめる、脅す、脅される、捕まるしかないんで、所謂その弱きを助け強くを挫くみたいなそんな道は見たことがないです。

    これに関連して侠客。侠客は誰だ、何だ、どこにいるんだ。会えるものなら会ってみたいですけれども、会った事もないですね。見たこともないですね。助けてもらった事もなければ助けられた事もないし、すげえなっていう人を身近では、いや凄い遠い遠い所では、聞く所では素晴らしい方はいますよ。私みたいな、要は自分が元々最初についた所が、何かの形で自分の親方が故障、処分という形になった所で、吸収され、合併され、解散になりという事を繰り返している人間にとって、そういった頂点に近い人達に話をする事もほぼほぼ無理ですし、いいような扱いは受けられないですよ。


   イ)、考察

    ・懲役太郎さんも加茂田氏と同じく、「強きを挫き弱きを助ける・義理人情」で生きるヤクザなんていませんとされます。

  ④、具体例3 山之内幸夫

   ・長年ヤクザと接してきた山之内氏も、「現実は「弱きを威嚇し強きに媚びへつらう」のが普通だし、我が身を犠牲にするより、人を踏みつけて自分の利益を得ようとする方がヤクザらしい」とします。

 (3)、補論 「強きを挫き弱きを助ける」ではなく「正を糺し悪を挫く」

  ①、意義

   ・藤田五郎氏は『任侠百年史』の中で、正しい任侠道とは「強きを挫き弱きを助ける」ではなく「正を糺し悪を挫く」であるとします。

  ②、具体例 藤田五郎

    「東京の赤坂に住む老親分は、若いころは波乱万丈の人生をおくってきて今日の地位があるだけに言う言葉に千金の重みがあった。「任侠とは、弱きを助け強きを挫くというが、本当にそうだろうか。これは大きな誤りである。弱い奴にも悪い奴はうんといる。その弱い奴を庇って助け、強くとも正しい人を挫くのか。それを任侠といえるだろうか。そうではない。任侠の正しい精神は、正を糺し、悪を挫くにある」

2、「自己犠牲の精神」という意味

 (1)、意義
 
  ・任侠道は、自己犠牲の精神という意味でも使われています。

 (2)、具体例

  ①、具体例1 万年東一

   「損を平気でできるのが任侠で、できないのが普通の男だ。それができれば、八百屋の小父さんでも、タクシーの運転手さんでも任侠で、できなければ、そんなもんは、たとえ組長・総長でも任侠ではない」

  ②、具体例2 菅沼光弘

   ア)、引用

    「任侠というのは何もヤクザの専売特許ではない。人のために命を捨てる。一言でいえば、そういうものでしょ」

   イ)、展開

    ・菅沼氏はさらに、「松下電器産業株式会社の時代は、松下幸之助という親父さんがいて、従業員はみんな子供のようなものだった。あの頃は経営が苦しくなってくると、従業員のほうから賃金はいりませんから働かせてくださいと進言していたといいます。その代り、どれだけ不況になっても、絶対に社員を解雇しないというのが松下電器という会社だったんです。それがパナソニックになったとたん、テレビ受像機の業績が振るわないからといって一万人のリストラ。そうなるとアメリカの会社と同じです。雇われているほうもいつクビを切られるかわからないから、命をかけて会社のために働く社員なんて一人もいなくなりますよ」として、会社経営には任侠の精神が大切だとされます。

  ③、具体例3 山之内幸夫

   ア)、引用

    「任侠の精神とは人のために自分を捨てるということ。それを最も尊い行動として仲間が畏敬するということだ。つまり破滅的生き方を敢えてすることで、犠牲になる。仮にそこまでいかなくとも奉仕活動は日常業務で、損得勘定で言えば明らかに損な生き方だ。そういう振る舞いが任侠精神に酷似している」

   イ)、展開

    ・この自己犠牲の精神から、ヒットマンとして敵対組織の人間を殺しに行くというヤクザの行動が導かれます。山之内氏は「殺害に成功した先には無期懲役が待っており、当然将来などなく人生はそこで終わりだ。別に相手が憎いわけでもないが、親分のため、組のために自分を捨てる。この理不尽な心意気が任侠の精神に似ている。間尺に合わない計算外のことをする反合理主義はヤクザの特権、という意味で任侠と言っている」とします。その他、行き場を失って困ってる人がいたら過去を詮索することなく受け入れる、食い詰めている人がいたら炊き出しをしたり寝る場所を提供する、阪神・淡路大震災の被災者支援などもこの精神によるとします。

3、「ヤクザ社会や組織の掟」という意味

 (1)、意義

  ・山之内氏は、「ヤクザが通常使う任侠道という言い回しは業界のルールや掟を任侠道と呼んでいることが多い」とします。つまり、ヤクザ社会の掟、自分が所属している組織の掟という意味でしょう。

 (2)、具体例

  ①、具体例1 『月刊日本』編集部

   ・「『月刊日本』編集部」名義での署名記事ですが、「任侠とは日本の伝統である。お上が定めた法ではなく、共同体内部での掟、すなわち仁義を重んじる伝統である。かつて混乱の戦国時代が終結し、江戸幕藩体制で社会が安定したとき、必然的に新しい社会の規範からはじき出される人々も登場することになった。無法者と呼ばれた彼らをまとめあげ、仁義という掟で独自の共同体を作り出したのが幡随院長兵衛、国定忠治であり、清水次郎長であった。そして日本人は彼らの活躍に喝采を送ったのである。そこには、官僚機構である幕藩体制よりも、自然発生的に生じた共同体の絆を重んじる日本人の心性が現れている。時代は下って、高度経済成長のもと、急速に農村共同体が破壊されていく中で東映任侠映画が人気を博したのも、そこに仁義で結ばれた共同体への郷愁を見出していたからであろう」とします。

  ②、具体例2 神戸山口組の義理回状

   ・神戸山口組が平成29年(2017)4月に出した織田絆誠氏と池田幸治氏への絶縁状には「右の者 任侠道に反して不都合の段多々有り」とあり、同組が令和2年(2020)9月に出した中田浩司氏への除籍御通知には「右の者 当組の規約に反する行為此れ有り」とあります。神戸山口組の掟だと「当組の規約」と書かれますので、この場合の「任侠道」はヤクザ社会という共同体の掟という意味でしょう。

  ③、具体例3 産経新聞の司忍氏のインタビュー

   ・平成23年(2011)10月1日に産経新聞に掲載された六代目山口組組長・司忍氏のインタビューにおいて、「これまで以上の任侠道に邁進し、組員ひとりひとりが普通の暮らしをし、犯罪をおかさないようにする。山口組では一般の人よりも長幼の序とか、そういうことは厳しく守られている。ホテルとか公共の場で徒党を組まないとか3人以上で歩かないとか、そういう面でも厳しくしている」という発言があります。この任侠道とは山口組という共同体の掟という意味でしょう。

4、補論 江戸時代の文献からみる任侠道

 (1)、江戸時代の文献の引用

  ①、寺門静軒『江戸繁盛記』

   ・19世紀前期の江戸の風俗を戯文で綴った『江戸繁盛記』は侠客の流儀を「其の胆大に、財を軽んじ、命を賭(かけものに)し、一諾千金、強きを挫き、弱きを援(たす)く」とし、幡随院長兵衛こそがその親玉だとしています。なお、「一諾千金」というのは、「言葉に千金の重みがあって、一度引き受けたら必ず事を成し遂げる」という意味です。

  ②、斎藤彦麿『神代余波』

   ・弘化年(1847)の『神代余波』には、「むかしの侠客どもはことさら異様なる姿にて、つよきを挫きよわきを助け金銀を惜しまず」とあり、それに比べて昨今の侠客は、「高貴にへつらひて威光をかり富裕におもねりて金銀をもらひて男をたて顔をしらるゝを自慢とす」とあります。

  ③、西沢一鳳(いっぽう)

   ・三田村鳶魚が「侠客の話」の中で、大阪の歌舞伎狂言作家の西沢一鳳が、嘉永3年(1850)に江戸を訪れた際に、「江戸は任侠の風があって、弱きを扶け強きを挫く風があると聞いたが、今では幡随院長兵衛の話のようなことは、嘘にもない、人の世話なんぞはなかなかしない」と述べたという事を紹介しています。

 (2)、考察

  ①、任侠道=侠客=幡随院長兵衛というイメージは江戸時代からすでにあった

   ・江戸時代の文献では、「侠客=幡随院長兵衛」というイメージが書かれています。近世史家の氏家幹人氏は「どうやら江戸では17世紀半ばに、強者を恐れず弱者(か弱き庶民)のために一肌も二肌も脱ぐ任侠精神こそが侠客の条件であるとする「思想」が、醸成され定着した」とされます。

  ②、侠客たるもの金にこだわらない

   ・江戸時代の文献では、「財を軽んじ」や「金銀を惜しまず」のように、侠客たるものは金にこだわらないとします。ヤクザは金の事ばかり考えてるイメージがありますが、堀政夫氏のように、大住吉のトップに立っても借家住まいをし、やがて千葉県に自分の家を持ったが、それも木造二階建ての建売だったという親分もいます。

  ③、常に廃れる任侠道

   ・現在においても「任侠道は廃れた」とよく言われますが、江戸時代の文献においても「幡随院長兵衛の時代には任侠の精神はあったが江戸時代後期になると任侠道が廃れた」と書かれています。任侠道は常に廃れるものなのでしょうか。結局任侠道とは、アウトローの人生の指針であり、堅気のアウトローはこうあってほしいという願望なのかもしれません。

<参考文献>

 『山口組の平成史』(山之内幸夫、筑摩書房、2020)
 『一家を守るために男は何をすべきか』(サンデー毎日特別取材班、KKベストセラーズ、1985)
 『任侠道に生きる』(名和忠雄、星雲社、1993)
 『サムライとヤクザ』(氏家幹人、筑摩書房、2007)
 『新版 ヤクザと妓生が作った大韓民国 日韓戦後裏面史』(菅沼光弘、ビジネス社、2019)
 『ヤクザと日本人』(猪野健治、筑摩書房、1999)
 『ヤクザ・レポート』(山平重樹、筑摩書房、2002)
 『任侠百年史』(藤田五郎、笠倉出版社、1980)
 「特集 蘇れ!任侠道」『月刊日本』2010年8月号(ケイアンドケイプレス、2010)
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