稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

ヤクザ組織小史 土支田一家

1、意義

 ・清水次郎長にゆかりのある老舗組織。

2、初代榎本新左衛門

 (1)、出生

  ・北豊島郡大泉村元上土支田村(現東京都練馬区土支田)に、庄屋の次男として生まれる。

 (2)、清水次郎長のもとでの修行時代

  ・榎本は博打に目がなく、神山栄五郎の盆に年中出入りしていた。神山は榎本にほれ込み、自分の兄弟分である清水次郎長のもとへ預けることにした。

 (3)、土支田一家設立

  ・榎本は清水次郎長の若い衆として4年間男を磨き、清水次郎長から子分二人をもらって故郷の土支田村へ帰り、そこで土支田一家を設立した。

 (4)、清水次郎長の五厘下がりの舎弟分へ

  ・明治8年(1875)、神山が抗争に巻き込まれて亡くなった。清水次郎長は兄弟分の神山の死を深く悲しみ、これをきっかけとして榎本を五厘下がりの舎弟分になおす出世盃を行い、これから一家を束ねていく榎本を励ました。榎本は清水次郎長の後ろ盾を得て、土支田一家は躍進していった。

3、二代目佐久間忠造

 (1)、力ずくでの勢力拡大

  ・明治21年(1888)、榎本初代は享年42歳で亡くなった。二代目を継いだのは「大門山の忠造」こと佐久間忠造であった。「喧嘩の忠」と異名をとるほどの喧嘩に精を出した親分で、力ずくで一家の縄張りを拡大していった。

 (2)、清水次郎長とのつながり

  ・佐久間は初代の兄貴分である清水次郎長の死に水をとった一人であり、清水次郎長のいくつかつくられた位牌の一つを渡されてた。現在でも土支田一家では、代々総長に清水次郎長の位牌が受け継がれている。

4、三代目篠信太郎

 ・三代目を継いだのは「コブ信」こと篠信太郎であった。篠は博打が得意であった。昭和14年(1939)に病死した時、一家への遺言として「カタギに絶対迷惑をかけるな」との言葉を遺しており、これが現在に至る土支田一家の家訓となっている。

5、四代目小沢定次郎、五代目杉原繁雄、六代目須田左門、七代目杉原繁雄

6、八代目林昭太郎

 ・林は「板橋の喧嘩屋集団」林兄弟の四男としてよく知られ、戦後多くの抗争事件を繰り返してきた。戦後、池袋を中心に東武東上線沿線を遊び場にしていた林は、19歳で須田左門六代目時代の土支田一家に入った。その後、25歳で中盆、35歳で貸元となり、45歳の時に土支田一家の八代目総長に就任した。

7、九代目大塚武尊→並木實

 (1)、九代目を大塚武尊から並木實へ

  ・九代目は大塚武尊が承継したが、平成23年(2011)に覚せい剤密売の疑いと山口組系の組織から金を借りていた事が発覚して住吉会を除籍、九代目も抹消となった。よって、並木實が九代目を承継した。

 (2)、住吉一家入り

  ・並木九代目体制になり住吉一家入りをして、土支田一家から住吉一家土支田に改称した。

<参考文献>

 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)


ヤクザ組織小史 幸平一家

1、意義

 ・幕末に端を発する名門で、池袋、上板橋、高田馬場、椎名町、江古田、中野などを中心として、西武新宿線や西武池袋線沿線等広範な地域を縄張りとしている。

2、初代藤沢幸平

 (1)、経歴

  ・江戸時代は武士身分で役人をしていたが、退役後に江古田で渡世人として成功し、次第に一家をなしていった。明治18年(1885)に死去する。

 (2)、小金井一家との抗争事件

  ・明治14年(1881)、幸平一家は小金井小次郎率いる小金井一家と縄張りをめぐって抗争事件を起こした。藤沢と小金井は懇意の間柄で一家の物同士も仲が良かったが、幸平一家の矢島金蔵という貸元が小金井一家の縄張りを自分の縄張りだと信じ込んでしまって賭博を開帳したのが原因であった。結局、落合一家初代・落合円次郎が仲裁人となって、両者の縄張りを明確に定めることによって無事収めた。

3、二代目矢島熊蔵、三代目寺沢久太郎、四代目浅井藤助

4、五代目森田音次郎

 ・新宿山吹町に居を構えて、若い衆は鶴巻町や早大付近を縄張りとしていた。

5、六代目足立勘助、七代目高山寅吉、八代目佐藤虎吉

6、九代目本橋政夫

 (1)、経歴

  ・本橋政夫は、七代目高山寅吉の筆頭代貸であった石川三郎の若い衆であった。この石川が何かの事件で逮捕されそうになった時に一命をかけてそれを防いだ功績により、本橋は九代目を継承することになった。

 (2)、友愛会結成

  ・昭和33年(1958)、幸平一家の本橋政夫、土支田一家の杉原繁雄、滝野川一家の福原陸三、二本木小川一家の西沢福司の4博徒が集まって友愛会を結成した。

 (3)、住吉連合加盟

  ・昭和45年(1970)、堀政夫が住吉一家五代目を継承し、旧住吉会を再結集して住吉連合を発足させた。この住吉連合に、自然消滅をしていた友愛会が丸ごと加盟する形で幸平一家は住吉連合に加盟をした。

7、十代目青田富太郎

 (1)、港会会長

  ・「中盆の天才」と言われた高橋浅太郎の系譜に連なる人物であり、現在の住吉会の原点である関東の博徒・テキヤ・愚連隊など28団体を結集して港会の会長に就任した。この港会は、住吉会→住吉連合となり現在の住吉会となっている。

 (2)、青田会の祖

  ・青田会は、青田富太郎を祖とし、二代目の児玉明が青田一門を再結集して結成されたものである。

8、十一代目清水幸一

 ・昭和4年(1929)に生また。最初は向後平の舎弟であったが、向後亡きあと幸平一家に入り、十一第総長になった。西口茂男と同世代で、「浜本兄弟会」の一員として仲がいい兄弟分であった。「中野の親分」として親しまれていた。

9、十二代目築地久松

 ・昭和8年(1933)に生まれた。清水のもとでずっと総長代行をつとめ、清水亡きあと、十二代目を継承した。

10、十三代目加藤英幸

 ・平成19年(2007)9月に、築地の逝去に伴って、長い間幸平一家の代行をつとめ先代からは絶大な信頼をうけて一家を切り盛りしてきた加藤英幸が十三代目を継承した。加藤は昭和22年(1947)生まれで、幸平一家ではじめての戦後生まれの継承者となった。

<参考文献>

 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)



ヤクザ組織小史 松葉会

1、意義

 ・老舗の有名博徒一家を多数抱えており、「関東の古豪」と呼ばれている。「松葉」とは、関根賢の親分であった河合徳三郎の家紋が「松葉」であったことに由来している。

2、来歴

 (1)、関根賢

  ・松葉会の前身は、戦前から戦後にかけて巨大な勢力をもった関根賢率いる土建業「関根組」である。しかし、昭和24年(1949)のGHQが発した団体等規制令によって関根組は解散させられた。

 (2)、初代藤田卯一郎
 
  ①、松葉会の結成

   ・関根組解散後、昭和28年(1953)に旧関根組の大幹部が結集して結成されたのが松葉会である。会長には藤田卯一郎、関根賢は実業界に転じていたが、最高顧問に就任した。松葉会は躍進し、関東から北陸、北海道までの広域暴力団となっていった。

  ②、毎日新聞社襲撃事件

   ・昭和34年(1959)、松葉会は「政治結社松葉会」を名乗って政治活動を行ってゆく。この延長線上で、昭和35年(1960)、藤田夫人の葬儀に多数の政治家が供花を贈ったことを「政治家の花輪ずらり 松葉会会長夫人の葬儀「くされ縁」に批判」という記事を書いた毎日新聞社へ組員が乗り込み、輪転機に砂をかけた有名な毎日新聞社襲撃事件が起こった。

  ③、「関東会」の理事長へ

   ・昭和38年(1963)に関東博徒の親睦会「関東会」が結成されると、藤田はその理事長に就任した。

  ④、松葉会解散

   ・昭和40年(1965)、第一次頂上作戦によって藤田は逮捕され、同年9月20日に松葉会の解散を宣言した。

 (3)、二代目佐藤栄助

  ・解散された松葉会に対して、昭和43年(1968)、佐藤は旧松葉会の人を集めて「松友会」を結成した。さらに、昭和46年(1971)には名称を「松友睦」と変えた。

 (4)、三代目菊池徳勝

  ・昭和48年(1973)、菊池徳勝が会長に就任し、「松葉会」に名称を戻した。

 (5)、四代目中村益大

  ①、意義

   ・昭和59年(1984)、中村益大が四代目に就任した。中村は実力者3人を「会長補佐」に、若手実力者20人を新設した「副会長」に抜擢して組織運営を担わせるなど、次世代を見据えた組織改革を断行したが、平成4年(1992)に急逝した。

  ②、映像

   ・上品な感じの方ですね。



 (6)、五代目牧野国泰

  ①、就任

   ・中村四代目急逝後、1年の当代空席を経た平成5年(1993)に、中村四代目誕生の産婆役を務めた長老格の牧野国泰が五代目に就任した。

  ②、指定暴力団になる

   ・平成4年(1992)に暴対法が施行され、平成6年(1994)に松葉会は暴対法に基づく指定団体となった。

  ③、連合体からピラミッド型組織へ

   ・松葉会は名門一家の連合体であったが、牧野は各一家の総長や最高幹部クラスとの間で盃を交わすことによって、ピラミッド型組織へと再構築していった。また、西日本のヤクザでは最も重要な年中行事であるが東日本ではほとんど見られない「事始め」を挙行し、結束を固めようとした。

  ④、「不退」を恒久指針へ

   ・平成16年(2004)、始祖である関根賢が残し、藤田初代の座右の銘でもあった「不退」の二文字を恒久指針として定めた。

  ⑤、他団体との平和共存路線

   ・関東二十日会での交流はもとより、稲川会、住吉会、極東会などと親戚づきあいをしている。さらに、平成19年(2007)には山口組最高幹部と松葉会最高幹部が食事会を開き電撃的な親戚縁組を行った。

  ⑥、映像



 (7)、六代目荻野義朗

  ①、内部抗争

   ・平成21年(2009)、牧野会長が高齢であることから跡目問題が浮上した。これにより松葉会は二つのグループに分かれて互いが破門・絶縁状を出し合う事態となり、ついには同じ代紋を掲げたままで「松葉会同志会」が結成され、分裂状態となった。

  ②、荻野六代目就任

   ・平成21年(2009)5月、牧野五代目が引退し荻野義朗が六代目に就任した。新体制の確立によって、稲川会や山口組の奔走もあって、7月に稲川会と山口組最高幹部の立会いのもとで手打ち式が執り行われて、9月には旧松葉同志会の会長以下最高幹部が荻野から盃をうけて、再び松葉会は一本化した。

 (8)、七代目伊藤芳将

  ①、就任

   ・平成26年(2014)、荻野六代目が新設の「総裁」となり、旧松葉会同志会の幹部であり荻野六代目時代に会長代行として支えてきた実力者の伊藤芳将が七代目会長に就任した。

  ②、再びの内部抗争

   ・伊藤が就任するときに、小島一家や増田組は盃をうけず、同年4月5日に、松葉会総裁に就任した荻野義朗の承認の下で「松葉会関根組」を結成した。関根組とは松葉会の前身である「関根組」に由来しており、初代関根賢に続いて、「二代目」組長として小島一家五代目総長・大塚成晃が就任した。なお、平成29年(2017)4月、松葉会との和解により、「松葉会関根組」は「関東関根組」として新たな独立団体となった。

  ③、松葉会会館の明渡し

   ・松葉会は茨城県守谷市に「松葉会会館」を建設し、月一回の定例会等を行ってきた。しかし、平成28年(2016)に守谷市が約1億3千万円を支払うことによって、松葉会から松葉会会館を取得した。現在は改修され、市民交流館(愛称はモリヤガーレ)として利用されている。



3、映像

 ・実録 不退の松葉

 ・実録 不退の松葉 完結篇

 ・千年の松



<参考文献>

 『反社会勢力』(2014、笠倉出版社) 

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