稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

ヤクザ組織小史 大久保一家

1、意義

 ・群馬県伊香保に本拠地を置く日本で最も古い歴史を持つ松葉会の有力組織。

2、初代田中代八

 (1)、出生

  ・田中代八は上州駒寄村大久保で生まれる。この田中の出生地が大久保一家という名称の由来である。博徒発祥の地とされる上州の草分け的存在であった。

 (2)、大久保村の「殿様」
  
  ①、大久保村の「殿様」

   ・田中は大久保村では「殿様」と呼ばれ、大久保に二軒、中山道の板鼻宿に一軒のほか三軒の家を持ち、兄弟分や子方と称する身内は100人ほどいたというほど勢威があった。その中には、大前田英五郎の父久五郎や生井一家初代の生井弥兵衛もおり、彼らは北関東大久保一家の貸元であった。
  
  ②、大前田英五郎の父久五郎

   ・大前田英五郎の父久五郎は、博徒を志して田中の身内となり、賭場口を三か所も預かるほどの貸元となった。やがて近村の遊び人も集まってきて、田中から縄張りを認められ、大前田一家を創設した。

 (3)、死去
 
  ・田中は天明4年(1784)2月に行われた大々的な博徒狩りでとらえられ、同年に亡くなった。

3、二代目金谷秀蔵、三代目金谷團蔵、四代目金谷粂蔵、五代目金谷九兵衛

 ・牧野国泰総長の時代まで四代目と五代目の代目継承が確認できなかったので、四代目は中島栄作とされ、牧野は八代目を名乗っていた。さらに、二代目と三代目については名称が不詳であった。しかし、作家の藤田五郎の調査によりこれらが判明し、北関東大久保一家の系譜に二人が付け加わり、牧野から代目を継承した荻野義朗は十一代目を名乗るようになった。

4、六代目中島栄作

 ・田中初代死去後、一家は衰退をしていたが、それを立て直したのが六代目の中島栄作であった。言い伝えでは、大前田英五郎や国定忠治と兄弟分、もしくは親しい関係であり、現在の北群馬郡吉岡町一帯を本拠地とし、たいそう羽振りがよかった。明治14年(1881)に亡くなっている。

5、七代目中島常吉、八代目中島安五郎、九代目中島豊吉

 (1)、意義

  ・七代目中島常吉の弟が八代目中島安五郎であり、その甥が九代目中島豊吉である。中島は、大正末から昭和初期にかけて高崎の武田愛之助、前橋の飯久保新造、飯塚金作などとともに「上州七人組」と言われた大親分である。

 (2)、松葉会入り

  ・中島は関根組組長・関根賢と子供のころからの兄弟分であった。関根組解散後に幹部が結成した松葉会に、中島も参加した。

6、十代目牧野国泰

 (1)、出生

  ・大正10年(1921)、東京に生まれた。戦後は栃木の小山を振り出しに前橋、沼田に落ち着いて地盤を築いていった。関根賢元関根組組長の強い要請により、昭和44年(1969)に中島九代目の跡目をとり十代目に就任した。

 (2)、松葉会会長へ

  ・北関東大久保一家十代目を20年以上つとめ、平成4年(1992)には松葉会会長に就任し、平成21年(2009)までつとめた。

7、十一代目荻野義朗

 (1)、意義

  ・牧野十代目の跡目は、長年一家の代行をつとめてきた荻野義朗が継承した。



 (2)、松葉会内の内紛

  ・牧野の跡目をめぐって松葉会内は主流派と反主流派に分かれた。反主流派は松葉会同志会を結成したが、平成21年(2009)に牧野が引退し、跡目は荻野が松葉会の六代目を継承することとなった。

 (3)、総裁へ

  ・平成26年(2014)、荻野は松葉会の総裁に就任し、伊藤芳将が松葉会の七代目となった。この人事を承認しないグループは松葉会関根組を結成した。

8、十二代目小池清一

 ・平成25年(2013)、小池清一が十二代目を継承した。

<参考文献>

 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)

ヤクザ組織小史 小金井一家

1、意義

 ・幕末の大侠客小金井小次郎を始祖とする名門中の名門組織。

2、初代小金井小次郎

 (1)、出生

  ・文政5年(1818)に、現在の東京都小金井市関野町で代々名主をしている関家の次男として生まれる。
 
 (2)、博徒の道へ

  ・小次郎は16、17歳頃に博徒の道に入り、府中の親分藤屋万吉こと市村万吉の薫陶をうけ、25歳で小金井一家を起こす。

 (3)、新門辰五郎との出会い

  ・小次郎が二塚の喧嘩でとらえられて佃島に送られた時、その佃島で新門辰五郎と出会い、意気投合をした。弘化3年(1846)に小石川駒込から出火して佃島までおよぶ大火があったときに決死で消火作業にあたって功績で二人は放免され、このとき以来兄弟分としての長い付き合いが始まった。

 (4)、三宅島での生活

  ・小次郎は安政3年(1856)に三宅島へ遠島となる。水不足の島民のために大きな貯水戸をつくったり、村の廻船を利用して商売をやったり、博打や用心棒をやったり、さらには難破船を救助したときに外国産乳牛をもらい受けこれが後に三宅島での乳牛改良につながったりと侠客としての才気を発揮した。明治の大赦で小次郎は12年ぶりに故郷の小金井村へ戻っている。

 (5)、最期

  ・小次郎は明治14年(1881)に亡くなった。最期の言葉は「この道は俺一代で打ち切る。和十郎は今日限り離縁するから、藤屋に戻って市村和十郎として生きよ」「ずいぶん世話になったなあ。あとは頼むぞ。それにつけても、喧嘩と非道だけはするなよ」であった。

 (6)、大侠客として語り継がれる

  ・小次郎は東京の西郊一帯から川崎・鶴見にまたがる大きな縄張りを築き上げ、幕末の大侠客として語り継がれる大親分となった。

3、二代目市村和十郎

 ・初代小金井小次郎は、自分限りにするとしたが、小金井一家はその後離縁したはずの和十郎が跡目を継ぎ二代目となった。

4、三代目西村林右衛門

5、四代目金子萬吉

6、五代目渡辺国人

7、六代目石井初太郎

8、七代目納谷富蔵

 (1)、旧二率会設立

  ・昭和44年(1969)、小金井一家、八王子一家、大月の親之助一家とが糾合して二率会が設立される。小金井一家七代目総長であり四軒寺六代目でもあった納谷富蔵が初代会長に就任した。

 (2)、二率会の代紋

  ・旧二率会の代紋は「丸に二引き」と呼ばれるもので、「二率会」という名称の由縁にもなったものであったが、これは代々小金井一家の代紋であった。この代紋の由来は、小次郎が大名の参勤交代に際しての道中警備などに協力したことから徳川家からもらったものである。

9、八代目堀尾昌志

 (1)、経歴

  ・九州に生まれて若い頃に小金井一家新宿四代目・田中松太郎の若い衆となる。堀尾は田中の跡目を継ぎ新宿五代目となり、さらに納谷富蔵の跡目を継ぎ小金井一家の八代目総長となった。二率会でも会長代理をつとめた。

 (2)、八王子抗争

  ・平成2年(1990)に五代目山口組宅見組と二率会八王子一家との間で八王子抗争が勃発した。最終的に五代目山口組若頭・宅見勝と二率会会長・宮本高三が話し合い、抗争終結の合意に至った。なお、堀尾は宅見と兄弟盃を交わしている。

10、九代目岡澤和佳志

 (1)、小金井一家を継承する

  ・平成5年(1993)に小金一家九代目を継承した。さらに二率会五代目会長にも就任している。

 (2)、住吉会へ接近する

  ・岡澤は、堀尾から続く宅見組との親戚関係を守ってきたが、宅見組が入江禎に代替わりして以後、住吉会に急接近してゆく。住吉会と親戚関係になろうとしたが入江に難色を示され、住吉会の西口総裁に相談するも解決できず、棚上げ状態のまま住吉会側主導で友好関係を作られて行いった。

 (3)、二率会の解散

  ①、各団体の思惑

   ・初代宅見勝以来の親戚関係を維持したい宅見組、二率会を引き込みたい住吉会、さらに二率会が住吉会入りしてしまうと二率会が神奈川に持っていたシマも住吉会となってしまい神奈川に住吉の代紋を掲げさせたくない稲川会など、各団体の思惑が錯綜する。

  ②、二率会の解散と岡澤の引退

   ・平成13年(2001)に岡澤は二率会を解散させ、自らは引退をした。これにより、小金井一家本家の当代も不在となってしまった。

  ③、その後の小金井一家

   ・東京都下は各貸元ごとに分割して住吉会入りし、神奈川県下は稲川会入りし、京浜小金井一家となった。

11、十代目鈴木隆一

 ・京浜小金井一家総長・鈴木隆一が、岡澤九代目引退以後不在となっていた小金井一家十代目を名乗り、稲川会に名門の小金井一家の名跡が復活した。

12、十一代目瀬戸正昭

13、十二代目池田龍治

 ・平成27年(2015)、稲川会山川一家出身の池田龍治が十二代目を継承した。

<参考文献>

 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)

ヤクザ組織小史 武蔵屋

1、意義

 ・東京の下町下谷一帯を縄張りとした江戸時代から続く老舗組織。

2、初代武蔵屋新造(木村金太郎)

 (1)、経歴

  ・木村金太郎はもともとは下谷から浅草にかけての駕籠の元締めであった。また、町奉行として有名な遠山金四郎とも兄弟分であった。

 (2)、上野広小路の大喧嘩

  ①、上野広小路の大喧嘩

   ・武蔵屋新造は、加賀藩お抱えの加賀鳶と縄張りを争って抗争を起こした。断続的に抗争がおこり、特に上野山下と池之端仲町通りでの衝突は激しく、腕を切り落とされたものや足を斬られてうずくまるものでたくさん出た。結局は、町奉行が各顔役に取り鎮めを命じて収まったが、双方に数十人の死傷者を出した。

  ②、抗争の結果

   ・この抗争の結果として武蔵屋新造兄弟と加賀鳶の首領は死罪になるものとみられていたが、新造と遠山金四郎との交友があったことから罪一等を減じられて、新造とその次弟の初五郎は佐渡への島流しとなった。

  ③、抗争の影響

   ・この抗争はのちに講談となり、江戸の侠客として武蔵屋新造の名前は関八州までとどろかせる結果ともなった。

3、二代目武蔵屋新造、三代目武蔵屋新造
 
 ・初代武蔵屋新造こと木村金太郎とその次弟の初五郎は島流しとなったので、三弟が二代目武蔵屋新造を、四弟が三代目武蔵屋新造を名乗った。

4、四代目林庄吉

5、五代目石井竹松

 ・「猫竹」こと石井竹松は、大正末から昭和の初めの間、武蔵屋一家を五代目をつとめた。しかし、この頃の武蔵屋一家は昔日の勢いはなくなっており、さらに戦争で若者が戦地へと駆り出されてたことによって凋落著しかった。

6、六代目高橋義人

 (1)、経歴

  ・高橋義人は、大正3年(1914)に北海道石狩郡石狩町生振で、四人兄弟の長男として生まれた。16歳で上京し、土建業の小千鳥組二代目・岩本梅三郎の若い衆となり、人の上に立つ器量から頭角をあらわす。

 (2)、六代目の襲名

  ・岩本梅三郎は、高橋を自分の後継者と考えていた。しかし、高橋が石井五代目の用心棒のようなことをやっていたことから、石井五代目が高橋を養子にもらい、昭和19年(1944)に衰退した武蔵屋一家の再興を託して、六代目とした。

 (3)、新日本義人党ー日本義人党ー義人党

  ①、意義 

   ・昭和20年(1945)、高橋は「新日本義人党」を結成し、初代党首となった。昭和25年(1950)にGHQの団体等規正令によって解散を余儀なくされるが、昭和35年(1960)に再び反共運動の推進を旗印に「日本義人党」として再建した。その後、「義人党」と改称し、関東二十日会の有力組織として長い間活動をしてゆく。

  ②、正業に就くべし

   ・義人党の設立当初からの基本目標は「働き場所のない者には、仕事を世話してやり、全員が働きながら協力しあう」というものであった。よって、90%以上の者が土建関係その他の正業についており、このために昭和39年(1964)からはじまった第一次頂上作戦においても、山口組とともに解散をせずに持ちこたえた。

  ③、暴対法施行前に解散

   ・平成4年(1992)の暴対法施行直前に義人党は解散を声明した。

7、十代目松広昭平

 ・平成4年(1992)、義人党の理事長であった松広昭平が十代目を承継し、住吉会住吉一家武蔵屋として住吉会に加入した。

<参考文献>

 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)

スポンサーリンク
記事検索
スポンサーリンク
スポンサーリンク
プライバイシーポリシー
  • ライブドアブログ