稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

ヤクザ組織小史 碑文谷一家

1、意義

 ・幕末に四文安太郎が創設した歴史と伝統を有する名門一家。

2、初代四文安太郎

 (1)、意義

  ・四文安太郎は、浅草の新門辰五郎、魚河岸の佃屋三吉、大川端の小島和吉らと並び称される江戸で幕末の名高い侠客である。

 (2)、国定忠治との友情

  ・天保13年(1842)、国定忠治が関所破りで捕まり江戸の伝馬町へ送られた時、牢名主をしていたのが四文安太郎であった。そこで四文安太郎と国定忠治との間には深い友情が築かれた。

 (3)、広大な縄張りを築く

  ・東京から神奈川にかけて広大は縄張りを築いた。幕末の大侠客小金井小次郎も碑文谷一家の縄張りにだけは手を出さなかった。

3、二代目林新吉、三代目安東栄次郎、四代目安藤伊之助、五代目吉沢政吉

 ・「籠新」とも「出雲屋新吾」とも異名をとった二代目から五代目まで、名門碑文谷一家の縄張りをよく守った。

4、六代目大杉精一

 ・今日の任侠系右翼の嚆矢である「東海聯盟」を主宰し、大正から昭和初期にかけて、田中大将三百万円事件、安田共済保険事件、徳川義親不敬ダンス事件などに動き、活発な右翼活動を展開した。

5、七代目高橋梅吉

 ・大杉六代目とともに戦前、戦中、戦後にかけて碑文谷一家を支えた。

6、八代目西山実

 ・高橋七代目が引退の相談を稲川会総裁・稲川聖城にしたとき、稲川総裁が碑文谷一家に送り込んだのが西山八代目である。そして昭和34年(1959)に稲川会入りをした。
 
7、九代目長谷川春治

 ・西山八代目が韓国で病に倒れ、引退を余儀なくされる。突然のことであったので、稲川総裁によって、自らの子飼いの若い衆で、熱海山崎屋一家の代貸をつとめていた長谷川春治が九代目として指名された。

8、十代目西山輝

 ・長谷川九代目は、稲川会が三代目の稲川裕紘体制になると、跡目を西山輝に譲って自身は稲川会最高顧問として若い者の指導にあたった。

9、十一代目熊谷正敏

 ・若頭として西山十代目を支えた、ドキュメンタリー映画「Young Yakuza」で有名な熊谷正敏が十一代目を継承した。



<参考文献>

 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)

ヤクザ組織小史 上萬一家

1、意義

 ・幕末に藤江萬吉が興した全国有数の名門一家。

2、初代藤江萬吉

 (1)、出生

  ・本所四ツ目出身で「上総屋」を屋号としていた。「上総屋の藤江萬吉」がつまって「上萬一家」となった。清水次郎長とも吞み分けの兄弟分であった。

 (2)、広大な縄張り

  ①、穏やかな親分

   ・藤江は生涯に喧嘩を一度もしたことがないという穏やかな親分であった。寺銭をことごとく身内のものの女房や子に与え、また旅人にも至れり尽くせりで遇したので、自然と藤江の周りには人が集まってきて、その配下は1000人とも2000人ともいわれた。

  ②、喧嘩をせずに広大な縄張りを築く

   ・藤江はこのような気質なので、大きな抗争が起きても藤江が出てくるだけで和解が成立した。藤江は「南葛飾十万石」と言われる東京の東南部から千葉にかけて現在の総武線沿線に広大な縄張りを持ったが、これらの縄張りは喧嘩ではなくこのような仲裁の謝礼として得たものであった。

 (3)、晩年

  ・実子の萬次郎に跡目を譲り、「上方亭」という寄席を経営して悠々自適の生活を送り、明治35年(1902)に亡くなった。

3、二代目藤江萬次郎
 
 ・藤江萬吉の実子であり二代目を継いだが、44歳の若さで亡くなった。

4、三代目石井亀吉

 (1)、経歴

  ・二代目・藤江萬次郎の妹の亭主である石井亀吉が、三代目を継承した。「木場亀」とよばれ、初代、二代目と違って武闘派であった。大正から昭和初期にかけての上萬一家第二の全盛期を築いた。

 (2)、浅草高橋組との抗争

  ・大正14年(1925)、浅草で浅草高橋組と抗争を起こした。この抗争は、ダイナマイトや機関銃まで持ち出し、双方数百名の助っ人が駆け付けた大規模なもので、死者はでなかったが数十名の重軽傷者が出た。関東国粋会の仲裁で和解した。
 
 (3)、上萬の四天王

  ・山口伝吉、高田宇吉、鈴木福太郎、杉山清太郎は上萬の四天王と呼ばれ、石井をよく支えた。

5、四代目高田宇吉

 ・高田は戦中戦後期に代目を継承し、大変な時期を乗り切った。

6、五代目藤田卯一郎

 (1)、経歴

  ・上萬一家は、高田が昭和25年(1950)に死去した後、当代不在を余儀なくされた。そのような中で一家再建を託され五代目を襲名したのが、藤田卯一郎であった。藤田は期待にこたえて、名門上萬一家の勢威を取り戻した。

 (2)、松葉会の旗揚げ

  ・藤田は、戦前から戦後にかけて勢威を誇った旧関根組を再建して、昭和35年(1960)に松葉会を結成し、初代会長に就任した。

7、六代目田山芳徳

 ・藤田の後を継いだのは、温厚な田山芳徳であった。

8、七代目佐ヶ野一明

 ・昭和45年(1970)、佐ヶ野一明が七代目を継承した。佐ヶ野は、20年以上上萬一家を支え、また松葉会の要職を歴任した。

9、八代目萩原元

 (1)、出生

  ・昭和17年(1942)、市川市行徳に生まれ、16歳の時に渡世入りをした。昭和45年(1970)に松葉会上萬一家田所二代目・伊東清にもらわれ、昭和49年(1974)に田所三代目を継承した。

 (2)、就任

  ・荻原は、長い間佐ヶ野を総長代行として支え、佐ヶ野病死後に八代目を継承し、また松葉会の要職もつとめた。

 (3)、松葉会の分裂騒動

  ・松葉会が平成21年(2009)に松葉会と松葉会同志会へ分裂したとき、上萬一家は松葉会同志会側についた。また、平成26年(2014)に松葉会関根組の分裂騒動が起こった時、傘下組織の一部が上萬一家から離れた。

10、九代目河基真治

 ・平成28年(2016)、河基真治が九代目を継承した。



<参考文献>

 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)


ヤクザ組織小史 助川一家

1、意義
 
 ・茨城県日立市を本拠とし北茨城市、高萩市から福島県の一部までの広大な縄張りをもつ関東でも有数の名門一家。

2、助川海防城の築城と助川一家の設立

 (1)、助川海防城の築城

  ・天保7年(1836)に水戸藩九代藩主徳川斉昭の命によって助川海防城の築城がはじまった。このとき、人夫方の頭領となって築城完成に尽力をしたのが、近村の人夫方下役支配置取締役の侍であった。築城後に、この侍が刀を捨て博徒一家を興し自ら頭領となった。これが助川一家のはじまりである。

 (2)、合議制

  ・創始者の侍は天狗党の乱で助川海防城が炎上した際に、一家一門をあげて消火につとめたが城の焼失とともに殉じた。その後、助川一家は大きくなったが、この侍の後を継ぐものがいなく、数人の貸元たちの合議制によって一家は成り立っていた。

3、初代滑川造酒

 ・明治末期になって、合議制で運営されていた助川一家をまとめて初代に就任したのが、滑川造酒であった。

4、二代目久野益義

 (1)、意義

  ・久野は、水戸出身で若いときに日立で滑川のもとで修業をし、二代目を継承した。その後、三代目を鈴木保三郎に譲り、昭和初期に上京して関根組と縁ができた。

 (2)、松葉会旗揚げに参画

  ・昭和28年(1953)、関根組最高幹部となった久野は、藤田卯一郎とともに松葉会の旗揚げに参画し、昭和34年(1959)の政治結社松葉会発足時には、総務会長に就任し六役の一人として活躍した。

5、三代目鈴木保三郎

 ・鈴木は、戦争に召集されて外地で終戦を迎え、昭和20年(1945)末に引き上げ船で帰国し、戦後混乱期の助川一家の再建に力を尽くした。しかし、昭和24年(1949)に34歳の若さで病死した。

6、四代目神山孝三

 ・神山は、松葉会六役の一人である和泉武志の舎弟であった。さらに助川一家は、松葉会旗揚げに参画した久野二代目の縁もあった。よって神山の時に助川一家は松葉会に加盟した。

7、五代目関靖夫、六代目関喜久夫、七代目関孝司

 (1)、五代目関靖夫

  ・地元日立で生まれた関兄弟は男7人女2人の9人兄弟であり、そのうち5人が助川一家入りした。昭和43年(1968)に兄の関靖夫が五代目を継承すると、喜久夫はその代行に就任し番頭役として支えた。

 (2)、六代目関喜久夫

  ・平成5年(1993)に兄関靖夫から跡目を継承し、関喜久夫が六代目に弟の関孝司が代行に就任した。

 (3)、七代目関孝司

  ①、就任

   ・関喜久夫の跡目は関孝司が継承し、総長代行は橋本一男が就任した。

  ②、逮捕
 
   ・平成22年(2010)11月に起きた四代目山健組事務所前で爆発物が爆発した事件の首謀者として、平成27(2015)10月に逮捕された。

<参考文献>

 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)



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