1、意義

 ・約50年間に渡って流血抗争を繰り広げてきた沖縄ヤクザが、平成23年に一本化して結成されたのが旭琉會である。

2、第一次沖縄抗争

 (1)、抗争

  昭和36年(1961) 那覇派vsコザ派

 (2)、概要

  ・沖縄ヤクザの源流は、第二次世界大戦後、沖縄では米軍基地から食糧を奪う「戦果アギャー」と呼ばれる人々や、琉球空手家達グループである。昭和27年(1952)になると、彼らはコザ市(現沖縄市)を拠点とするコザ派と、那覇市を拠点とする那覇派の二大勢力にまとまった。コザ派の那覇市進出を巡って、昭和36年(1961)からコザ派と那覇派の抗争が起こった。この抗争は、両派合わせて100人以上の構成員が検挙され、さらには逮捕された者達の裁判費用や女房子どもを面倒を見る費用など資金面で両者は疲弊し、昭和37年末(1962)に第一次沖縄抗争は終結した。

3、第二次沖縄抗争

 (1)、抗争

  昭和39年(1964) 泡瀬派vs山原派、那覇派、普天間派連合軍

 (2)、概要

  ・第一次沖縄戦争後、那覇派から田場盛孝が独立して宜野湾市に普天間派を結成し、さらにコザ派から喜屋武盛晃が泡瀬区出身者を引き連れて独立してコザ市に泡瀬派を結成した。さらに、コザ派は首領の喜舎場が引退して顧問となり、新たに新城喜文が首領となって山原派と名を改めた。泡瀬派と山原派は、縄張りが同じコザ市であることから争いが絶えなかった。さらに、泡瀬派が山原派の人物と間違えて那覇派関係者を刺殺してしまったことから那覇派が、さらに普天間派も山原派側につき、最終的には泡瀬派vs山原派、那覇派、普天間派連合軍となってしまった。追い詰められた泡瀬派は、昭和42年(1967)1月に解散を宣言した。

4、第三次沖縄抗争

 (1)、抗争

  昭和42年(1967) 山原派・那覇派連合軍vs普天間派

 (2)、概要

  ・第二次沖縄抗争終結後、山原派、那覇派、普天間派の三派で遊技場を共同経営することとなった。しかし、普天間派はこの遊技場の向かい側に独自に遊技場をオープンさせた。さらに、普天間派は旧泡瀬派が持っていた縄張りにどんどん進出していった。旧泡瀬派は、山原派から独立したので、もともと旧泡瀬派の縄張りは山原派のものであった。ここに、普天間派が進出してきたことから、山原派と普天間派の間に緊張が高まった。那覇派は山原派側についてので、山原派・那覇派連合軍vs普天間派の戦いとなった。昭和42年(1967)10月、普天間派首領・田場は自宅で射殺され、田場の妻が普天間派の解散宣言をしたことによって、第三次沖縄抗争は終わった。

5、第四次沖縄抗争

 (1)、抗争

  昭和48年(1973)から昭和56年(1981) 沖縄連合旭琉会(のち沖縄旭琉会→二代目旭琉会)vs上原一家(のち三代目山口組系大平組内上原組)・三代目山口組系大平組内古川組内琉真会

 (2)、概要

  ①、「沖縄連合旭琉会」を結成

   ・昭和44年(1969)、三代目山口組系小西一家内親琉会沖縄支部として、国琉会が那覇市に事務所を開設された。これに対して、山原派と那覇派は激しい抵抗をし、さらに警察の手入れによって、1年も満たない期間で、国琉会は解散に追い込まれた。本土ヤクザの沖縄進出に刺激されて、昭和45年(1970)12月に山原派と那覇派は大同団結をはたし「沖縄連合旭琉会」を結成された。

  ②、沖縄連合旭琉会内の内紛

   ・沖縄連合旭琉会内において、沖縄連合旭琉会理事長・新城喜史と上原一家首領・上原勇吉との間で内紛が起こった。上原は沖縄連合旭琉会を飛び出し、沖縄連合旭琉会800人vs上原一家50人の抗争がはじまった。沖縄連合旭琉会理事長・新城と又吉世喜射殺されたり、上原一家組員が半ば生きたまま生き埋めにされたりと、この抗争は熾烈を極めた。

  ③、山口組系組織と沖縄旭琉会の成立

   ・追い込まれた上原は、山口組系大平組組長・大平一雄と舎弟盃を交わし、那覇市首里に三代目山口組系大平組内上原組の看板を掲げた。さらに、那覇市若狭には三代目山口組系大平組内古川組内琉真会が設立された。これに対応して、昭和51年(1976)12月、沖縄連合旭琉会を沖縄旭琉会に改め、会長に多和田真山が就任した。これ以後、沖縄旭琉会vs上原組・琉真会の抗争が始まった。

  ④、手打ち

   ・昭和56年(1981)7月4日に、三代目山口組田組長・田岡一雄を後見人、三代目山口組系二代目吉川組組長・野上哲男、山口組の友好団体である二代目澄田組二代目藤井組組長・橋本實と、二代目旭琉会会長・和多田真山とが五分兄弟盃を交わすことで、実質的な「手打ち」を行った。

6、第五次沖縄抗争

 (1)、抗争

  昭和58年(1983) 二代目(三代目)旭琉会vs山口組系大平組内上原組

 (2)、概要

  ・第四次沖縄抗争後、二代目旭琉会では会長の和多田の専横化が目立ってきたので、昭和57年(1982)10月9日、反和多田派の急先鋒である富永清率いる富永一家組員が、和多田を射殺した。和多田の後任には、昭和58年(1983)5月に翁長一家総長・翁長良宏が三代目旭琉会会長に就任した。他方、和多田が死亡したことによって五分兄弟盃が有名無実化したことにより、山口組系大平組内上原組の活動が活発化した。翁長の子飼いの幹部が上原組に襲撃される等の事件が起こるが、昭和59年(1984)、三代目山口組若頭・竹中正久が、三代目旭琉会理事長・富永清と、上原組組長・上原秀吉を大阪のホテルに呼び、話し合いがもたれ、三代目旭琉会と山口組は親しい関係を築き、上原組は沖縄で安んじて存続することができるようになった。

7、第六次沖縄抗争

 (1)、抗争

  平成2年(1990) 三代目旭琉会vs沖縄旭琉会

 (2)、概要

  ・第五次沖縄抗争後、三代目旭琉会会長・翁長良宏と理事長・富永清が不仲となった。平成2年(1990)9月、富永は三代目旭琉会を脱会して、「沖縄旭琉会」を結成した。これ以後、三代目旭琉会と沖縄旭琉会の間で、開始から二ヶ月あまりで発砲29件、死者6人をだす、熾烈な抗争が始まった。平成4年(1992)2月、沖縄旭琉会側が「抗争終結宣言」を発表した。

8、旭琉會の成立

 (1)、四代目旭琉会の成立

  ・平成22年(2010)7月、三代目旭琉会は、翁長良宏から花城松一への代目継承が行われた。四代目旭琉会の継承式は、第六次沖縄抗争で対立した沖縄旭琉会会長・富永清が「後見人」の下で開かれ、第六次沖縄戦争のピリオドが打たれた象徴的な出来事となった。

 (2)、旭琉會の成立

  ・平成23年(2011)、沖縄旭琉会が四代目旭琉会を吸収する形で旭琉會が成立した。沖縄旭琉会を率いた富永清が会長に、四代目旭琉会を率いた花城松一が会長代行にそれぞれ就任し、沖縄唯一の指定暴力団となった。

 (3)、富永の逝去

  ・令和元年(2019)7月12日、富永が逝去した。享年74歳。

 (4)、永山克博の暫定代表就任

  ・富永逝去後約2年半にわたって会長が不在となっていたが、幹事長で二代目照屋一家総長の永山克博が暫定代表に就任した。

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
 『地獄の沖縄10年戦争』(二条凛、竹書房、2009)
 『山口組vs沖縄ヤクザ』(土井泰昭、竹書房、2010)
 「沖縄の指定暴力団「旭琉会」の暫定代表、永山幹事長が就任 世代交代へ足固めか」(琉球新報、20220213)