1、意義

 ・故稲川聖城総裁が、戦後一代で築き上げた巨大組織。静岡県熱海市が発祥であるが、現在の本拠地は六本木である。

2、初代稲川聖城

 (1)、渡世入り

   ・大正3年、横浜浅間町に生まれ、19歳の時に神奈川に広い縄張りを持ち、鶴岡政次郎、藤木幸太郎、笹田照一といった実力親分衆とも五分の兄弟分であった、堀井一家三代目総長・加藤伝兵衛の盃を受けて渡世入りをした。

 (2)鶴岡政次郎の若衆となる

  ①、鶴岡政次郎とは
 
   ・明治26年に千葉で生まれ、大正の初め頃に横浜に根を下ろし綱島一家を構えた。その決断力や実行力から「飛行機政」の異名をとり、藤木幸太郎、笹田照一、加藤伝兵衛とともに「神奈川四天王」と言われた実力者であった。
 
  ②、鶴岡政次郎の若衆となる

   ・稲川はこの鶴岡に目をかけられて、鶴岡は加藤に話をつけて稲川をもらいうけることとし、昭和23年に鶴岡の若衆となった。

  ③、山崎屋一家を承継する

   ・昭和24年、老舗博徒である熱海の山崎屋一家総長・石井秀次郎が引退をすると、その跡目を稲川が継承し、稲川組を結成した。なお看板には「稲川興業」と掲げた。これが今日の稲川会のスタートである。

 (3)、横浜の愚連隊を統一する

  ①、終戦直後の横浜

   ・終戦直後の横浜は、伝統的な博徒の集まりである「京浜兄弟会」(雨宮光安、秋山繁次郎、滝沢栄一、高橋橋松、山瀬惣十郎、外峯勇、漆原金一郎)と、新興勢力の愚連隊四天王(モロッコの辰、井上喜人、林喜一郎、吉水金吾)が激しく対立をし、保土ヶ谷児童遊園地決闘事件など抗争事件をおこしていた。

  ②、愚連隊四天王の稲川組入り

   ・愚連隊四天王のうち、モロッコの辰と井上がまずは、稲川聖城の若い衆となり、その後、服役から帰ってきた吉水と林が相次いで稲川の若い衆となった。京浜兄弟会が手を焼いた愚連隊四天王を全員、稲川は戦わずして自らの若い衆にしてしまったのである。この愚連隊四天王が稲川会初期の四天王として基礎固めに大きく貢献をしていった。

 (4)、稲川組の躍進

  ①、横浜を制する

   ・終戦から10年の間に稲川組は躍進をし、京浜兄弟会を押えて横浜を制し、さらに小田原、川崎と勢力を広げていった。

  ②、東京進出
  
   ・昭和34年、ついに稲川組は東京に「稲川興業」の看板を掲げて東京事務所を開設し、東京へ進出した。

  ③、鶴政会結成

   ・東京進出と同じ昭和34年、組織名を鶴岡政次郎の名をとって「鶴政会」とした。鶴岡はその翌年に亡くなっているが、その時の葬儀は稲川が葬儀委員長をつとめ、劇場を貸し切った壮大なものであった。なお、昭和38年には組織名を「錦政会」と改めている。

 (5)、「関東会」の結成

  ・右翼の大物児玉誉士夫による、全国の博徒を大同団結させて反共の防波堤にしようという「東亜同友会」構想に稲川は協力した。しかし、この構想は頓挫し、稲川の提唱によって関東組織が大同団結して昭和38年に「関東会」が結成された。当初は反山口組の意味合いが強かったが、三代目山口組組長・田岡一雄と舎弟となっていた東声会会長・町井久之が加入したことによって、その色合いは薄められた。

 (6)、当局からの弾圧と再建

  ①、弾圧

   ・当局は第一次頂上作戦を行った。これによって関東会は解散を余儀なくされ、稲川も総長賭博罪で逮捕された。昭和40年に錦政会は解散した。

  ⑥、再建

   ・稲川は懲役を終えると、昭和47年に現場に復帰し組織の再建を行った。これまでの稲川組から「稲川会」に改称して自らが初代会長となり、理事長には石井隆匡を就け、またこの時に、富士に稲穂を型どった新しい代紋ができ、東京港区六本木に稲川会本部事務所が置かれた。

 (7)、山口組との友好関係

  ・昭和47年、稲川会理事長・石井隆匡と三代目山口組若頭・山本健一が五分の兄弟盃を交わし、山口組と稲川会は兄弟関係となった。この時に、山口組は多摩川を越えないという紳士協定が交わされたといわれる。さらに、田岡が亡くなった時には、稲川が山口組本葬儀の執行委員長を務め、四代目山口組組長・竹中正久の継承式でも後見人を務めた。

 (8)、昭和60年新年会



3、二代目石井隆匡

 (1)、渡世入り

  ・大正13年に横須賀市に生まれた。学生時代は非常に優秀であり、終戦を人間魚雷回天隊基地のある八丈島でむかえた。終戦直後の昭和21年に渡世入りをしている。

 (2)、横須賀一家の継承

  ・昭和38年に名門横須賀一家五代目総長の継承した。

 (3)、稲川会二代目継承

  ・石井は稲川会長に次ぐナンバーツーの理事長職で稲川会長をよく支え、昭和61年稲川会の二代目会長となった。稲川初代はこのときに総裁となっている。

 参照)、ヤクザ人物史 石井隆匡

4、三代目稲川裕紘

 (1)、渡世入り

  ・昭和15年に稲川総裁の実子として生まれた。渡世入り後は横須賀一家の石井のもとで厳しい修行生活を送り、昭和49年に熱海の山崎屋一家を継承した。昭和55年にはさらに横浜市の縄張りも継承して、稲川一家と名乗った。

 (2)、就任

  ・平成2年、石井二代目が病気療養のためにわずか4年で引退しカタギとなったことにより、稲川裕紘が三代目を襲名した。



   平成2年の忘年食事会の動画。



 (2)、指定暴力団になる

  ・平成4年、暴対法が施行されて稲川会は、山口組、住吉会とともに指定暴力団の第一号となった。

 (3)、隆盛を極める

  ①、内部

   ・横須賀、岸本、大前田、碑文谷、杉浦、山川など有力組織が若い衆を300人から1000人をも抱え、稲川裕紘三代目体制を支えた。

  ②、外部

   ・住吉会、国粋会、極東会、松葉会と親戚縁組をし平和共存路線に尽力し、さらに、平成8年には五代目山口組組長・渡辺芳則と稲川裕紘が五分の義兄弟盃を交わして話題となった。

 (4)、相次ぐ抗争事件

  ・平成13年には稲川会系組織と二率会系組織との間で「川崎抗争」を起こし、一時は住吉会をも巻き込んでの大抗争が懸念された。また、同年に稲川会系大前田一家と住吉会系向後睦会の間で四ツ木斎場事件が発生し、さらに、松葉会、国粋会、極東会とも抗争事件を起こした。

 (5)、急逝

  ・平成17年、稲川裕紘は64歳の若さで急逝した。



5、四代目角田吉男

 (1)、就任

  ・三代目急逝後は1年間喪に服して集団指導体制で当代をおかず、一周忌法要を済ませた後、平成18年に稲川総裁の承認の下、稲川会山川一家池田組本部で、京葉七熊一家総長・角田吉男の四代目継承式が執り行われた。



   稲川総裁の出席が大きな意味を持った。



 (2)、幻の五代目継承式

  ・角田の継承式と同日に、稲川裕紘の実子である稲川英希が静岡県熱海市の稲川会本家で五代目継承式を執り行った。稲川会の分裂したのかと疑われたが、稲川総裁が角田の継承式に出席したことからも正当性は角田にあった。稲川英希も角田と話し合って一本化に合意している。

 (3)、山口組との縁組

  ・平成18年、二代目山川一家若頭・内堀和也と二代目弘道会若頭・竹内照明が五分の兄弟盃を交わした。後見人は稲川会理事長で二代目山川一家総長の清田次郎と六代目山口組若頭で二代目弘道会会長の髙山清司が務め、取持人は後に双愛会会長となる双愛会本部長・塩島正則が務めた。



 (4)、稲川会館の建設

  ・平成19年に横浜市に「稲川会館」を完成させて、盃儀式などの主たる行事はここで行うようになる。



 (5)、稲川聖城総裁死去

  ・平成19年、稲川会の創始者であり業界のドンとして君臨してきた稲川聖城総裁が93歳でなくなる。

6、五代目清田次郎

 (1)、山川一家とは

  ・山川一家は川崎の愚連隊のドンであった山川修身が結成した組織である。山川は平成2年にできた稲川裕紘三代目体制のときに稲川会理事長に就任して会長をよく支え、後に最高顧問となって平成9年に逝去した。

 (2)、渡世入り

  ・清田次郎は、昭和15年に生まれ、川崎で愚連隊を統率していた山川終身に出会い山川一家に入った。その後は山川一家の若頭として山川を支え、稲川裕紘三代目体制が発足し山川が稲川会理事長となった時、清田が山川一家の二代目を継承した。

 (3)、就任
  
  ①、襲名

   ・清田は角田四代目体制の時は理事長として支え、平成22年、角田が死去すると五代目に就任した。この時、六代目山口組組長・司忍が後見人となり、その名代として六代目山口組若頭・髙山清司が列席した。



  ②、人事

   ・清田は平成20年に内堀和也に山川一家三代目の座を譲り、



    平成22年に自らが稲川会の五代目に就任すると、稲川会ナンバー2の理事長の座に内堀を据えた。

7、六代目内堀和也

 ・平成31年(2019)4月7日、五代目会長の清田が総裁となり、長年理事長として清田を支えてきた内堀和也が六代目会長に就任した。内堀会長体制においては、他組織の後見はついていない。

8、映像

 ・修羅の群れ

 <参考文献>

 『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)
 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)