稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・ヤクザ組織小史

ヤクザ組織小史 東組

1、意義

 ・ヤクザ組織が密集する西成で一本独鈷を貫く超武闘派組織である。

2、来歴

(1)、初代東清

  ①、少数でのスタート

   ア)、池田組

    ・「浪花の侠客」と言われた池田大次郎率いる池田組の舎弟頭に、信貴久治という者がいた。この信貴の子分が東清である。

   イ)、少数でスタート

    ・信貴は選挙に出馬することとなり、ヤクザ渡世を引退した。これにより東清は、1960年代にヤクザの激戦区大阪西成でわずか20~30人ほどで東組を結成した。この頃の西成は60~70の組事務所がひしめいており、その中で群を抜く戦闘力で一本独鈷を守ってきた。

  ②、新世界事件

   ・大阪の歓楽街、新世界は東組の縄張りであった。そこへ、三代目山口組菅谷組系初田組が進出してきた。昭和46年(1971)正月早々、東組と菅谷組系初田組は衝突し、通天閣近くの喫茶店で乱闘の末、東組は菅谷組系初田組の若頭を堺市にある東組系清勇会の事務所へ拉致する事件が起こった。

  ③、三代目山口組系山健組との抗争

   ・昭和48年(1973)に東組は三代目山口組系山健組と抗争を起こした。きっかけは、大阪ミナミの喫茶店で、山健組傘下組織の幹部と東組組員とが喧嘩をし、山健組組員が重傷を負ったことによる。この抗争は、山健組と東組双方の事務所への発砲や銃撃戦、さらに御堂筋でのカーチェイスなどと燃え上がり、三代目山口組幹部会でも協議されるようになった。東組を徹底的に叩こうという強硬派と、三代目山口組組長・田岡一雄が入院したばかりの時期だったので抗争は自重しようという穏健派に分かれて紛糾したが、若頭補佐・清水光重が指を切断して和解を訴えた。これに田岡文子が動いて、東組との抗争は和解ということになった。これ以後、東清は清水と親戚として親交を結ぶようになった。また、武闘派の山健組に対して一歩も引かない戦いをしたことから、東組は武闘派集団として名を馳せた。

  ④、三代目山口組系桜井組内難波安組との抗争

   ・昭和57年(1982)に東組は三代目山口組系桜井組内難波安組と抗争を起こした。きっかけは、堺市の喫茶店へのゲーム機のリースを巡るトラブルであった。東組系二代目清勇会事務所と難波安組事務所へのカチ込みの応酬が行われ、さらには、桜井組系の組員が東組本家事務所を銃撃すると、東組側ものちに二代目東組組長となる滝本博司が、桜井組本部事務所前を警察官が警戒していた中で、警官に「おはようさん」と声をかけた上で堂々と事務所内に入り込み、拳銃4発を打ち込むという事件を起こした。この事件から3日後に、三代目会津小鉄会理事長・高山登久太郎、四代目砂子川組組長・山本英貴、三代目倭奈良組組長・橋本正男を仲裁人として、和解の手打ち式が行われた。

  ⑤、新大阪戦争

   ・昭和58年(1983)、五代目酒梅組との間で2ヶ月の間に約40件の発砲事件を起こすという新大阪戦争を繰り広げた。双方合わせて死者1名、負傷者8名、逮捕者107名を出している。

    →新大阪戦争

  ⑥、三代目山口組系弘田組との抗争

   ・昭和58年(1983)、東組は三重で三代目山口組弘田組と抗争を起こした。

  ⑦、四代目山口組系倉本組との抗争

   ・昭和60年(1985)、東組は四代目山口組倉本組と抗争を起こした。この時、東組二代目清勇会組員が、尼崎のラウンジ・キャッツアイで19歳のアルバイトホステスを誤って射殺してしまう事件(キャッツアイ事件)が起きた。二代目清勇会会長・川口和秀はこの事件の首謀者ということで逮捕され、15年の刑に服した。

    →キャッツアイ事件

  ⑧、泉州抗争

   ・昭和62年(1987)、四代目山口組杉組・須藤組との間で半年に計26件の事件で死者5人、負傷者2人をだす泉州抗争を起こした。

    →泉州抗争
  
 (2)、二代目滝本博司

  ①、ツートップ体制

   ・平成22年(2010)2月、東清のもとで長年若頭を務めてきた滝本博司が二代目東組組長となった。東組は「組」であはるが東清は「総長」を名乗ってきた。この人事によって、東清はそのまま総長となり、滝本を組長とする、東総長ー滝本組長のツートップ体制となった。

  ②、川口和秀の出所

   ・キャッツアイ事件で長期服役をしていた川口が、平成22年(2010)12月に府中刑務所から出所し、副組長に就任した。平成元年(1989)1月に逮捕されて以来、22年ぶりの社会復帰であった。

  ③、二代目清勇会の加盟抹消と川口の絶縁

   ・令和4年(2022)1月、滝本と川口が対立。初代総長・東清の実弟で初代清勇会会長・東勇が間に入って川口が独立することで一旦話がついたが、結局同年2月28日に川口が絶縁となり、二代目清勇会が家名抹消となった。



3、映像

 (1)、実録 東組抗争史 閻魔の微笑

  ・最近は「ヤクザと憲法」でおなじみの東組が、ヤクザ激戦区西成でのし上がっていくストーリーです。最初は、昭和21年(1946)、終戦直後の岡崎礼さん演じる若き日の東清と松田組の話から始まります。岡崎礼さんは、華のあるいい役者ですね。坊主だと髪型でごまかせないので本当の男前だと思います。しかし、傷害事件を起こして最近は出演されていません。復帰はないのでしょうか。その後、昭和31年(1956)に移り、東清役が白竜さん、東勇役が小沢仁志さんに代わって、東組の結成の話に移ります。酒谷組(モデルは酒梅組)など既存組織に因縁をつけてはシマを奪ったり、呼ばれていないのに葬式に押し付けて売名したり、かなり強引に勢力を広げていきます。好戦的な東組ですが、特に酒谷組との新大阪戦争は詳しく描写されています。



  cf.岡崎礼さんは現在反ワクチン運動をされているそうです。

 (2)、ヤクザと憲法

  ・平成30年(2018)、「ヤクザと憲法」に出演した、東組二代目清勇会若頭・大野大介が、ビルの建設代金の支払いを逃れるため、工事代金を請求した下請け業者を脅したとして、建設会社社長とともに、暴力行為等処罰法違反の疑いで逮捕された。

 <参考文献>

 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊侠伝・川口和秀』(山平重樹、幻冬舎、2016)
 『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)
 「反ワクチン団体自称リーダーの元俳優を逮捕 父は俳優・岡崎二朗 過去にも殺人未遂で逮捕歴」(よろずー、20220420)

ヤクザ組織小史 住吉会 福田晴瞭(はれあき)の時代

1、福田晴瞭とは

 (1)、渡世入り

  ・昭和18年(1943)、千葉県で生まれた。中学生までは青森で過ごし、東京の高校に進学したことから一人暮らしを始めた。福田が16歳の時、銀座でトラブルを起こして小林会会長・小林楠扶と知り合い、そのまま渡世入りした。

 (2)、出世

  ・福田は、小林会の部屋住みからはじまり、若者総責任者、本部長と出世をしてゆき、平成2年(1990)に小林会の二代目を継承した。また住吉会においても、30代で常任相談役となり、その後も副理事長、理事長と出世していった。

2、住吉会会長・住吉一家総長となる

 (1)、住吉会会長となる

  ①、意義

   ・平成10年(1998)、福田は西口茂男の指名をうけて、住吉会の会長となった。平成14年(2002)、西口は住吉一家六代目のまま住吉会の「総裁」職についた。これにより、西口総裁ー福田会長の二人三脚の体制が成立した。

  ②、執行部改革

   ・平成14年(2002)、西口総裁ー福田会長の下に、「三役(理事長・幹事長・総本部長)ー八役(組織委員長・渉外委員長・諮問委員長・運営委員長・慶弔委員長・懲罰委員長・風紀委員長・事務局長)ー役員待遇ー執行部副会長」というラインを形成する大胆な執行部改革を行った。

 (2)、住吉一家七代目を継承する

  ①、意義

   ・住吉会の会長職を譲ったあとも西口は住吉一家六代目に留まっていたが、平成17年(2005)に、住吉一家総長の地位も福田へ譲った。これにより福田は、住吉会会長・住吉一家総長となり、大住吉のトップとなった。

  ②、執行部改革

   ・福田七代目体制の発足同時に、三役(理事長・幹事長・総本部長)を四役(本部長・理事長・幹事長・総本部長)とし、さらにその上に会長代行を新設した。この会長代行には、共和六代目・関功が就任した。

3、相次ぐ抗争事件

 (1)、時系列

  ①、二率会東京勢力の加入

   ・平成2年(1990)に発生した八王子抗争により、平成13年(2001)に二率会が解散し、東京勢力が住吉会へと加入した。

    参考)、ヤクザ抗争史 八王子抗争

  ②、四ツ木斎場事件(稲川会→住吉会)

   ・平成13年(2001)、東京都葛飾区にある四ツ木斎場で、向後睦会会長・熊川邦男が稲川会大前田一家小田組幹部・吉川一三と小田総業幹部・村上善男に射殺された。さらに、熊川の近くにいた住吉会滝野川一家総長・遠藤浩司と住吉会向後睦会松井組幹部・西村俊英にも命中し、遠藤は死亡、西村も重傷を負った。

    参考)、ヤクザ抗争史 四ツ木斎場事件

  ③、前橋スナック乱射事件(住吉会→元稲川会)

   ・平成15年(2003)、四ツ木斎場事件の時に見届人であったという噂の大前田一家元本部長・後藤邦雄が、前橋市にあるスナック加津で襲撃された。襲撃した住吉会幸平一家矢野睦会幹部・小日向将人と同幹部・山田健一郎は無差別乱射を行い、以前から命を狙われていた後藤は机の下に潜んで助かったが、なんの関係もない市民3人と後藤のボディーガードをしていた男性1人の計4人が射殺され、1人が重傷を負った。

    参考)、ヤクザ抗争史 四ツ木斎場事件

  ④、北関東抗争(住吉会⇔五代目山口組)

   ・平成15年(2003)、住吉会住吉一家親和会と五代目山口組弘道会が抗争を起した。

    参考)、ヤクザ抗争史 北関東抗争(栃木抗争)

  ⑤、浅草発砲事件(住吉会→五代目山口組)

   ・平成16年(2004)、浅草ビューホテル近くの住吉会中村会事務所に、貴広会組員50人が押しかけてた。その後、浅草ビューホテル一階の喫茶室で改めて話し合いに入ったときに、住吉会中村会香山組組員・片桐俊らが貴広会組員へ突然発砲し、中川総業組長・中川謙一と川口総業若頭・末吉民男が死亡、川口総業組長・川口京孝ら2人が軽傷を負った。

    参考)、ヤクザ抗争史 浅草発砲事件

  ⑤、西麻布抗争(六代目山口組→住吉会)

   ・平成19年(2007)、住吉会系小林会三代目会長・小林忠紘は、小林会系武州前川八代目の義理事へ出かけるので、小林の秘書役である小林会直井組組長代行・杉浦良一が迎えに行った。この時、六代目山口組五代目国粋会組員が、東京港区西麻布の路上に停めた車の後部座席に座っていた杉浦を、小林と勘違いをして射殺してしまった。

    参考)、ヤクザ抗争史 西麻布事件

  ⑥、埼玉抗争(住吉会⇔六代目山口組)

   ・平成20年(2008)、埼玉県八潮市で六代目山口組二代目小西一家二代目堀政連合系組織の相談役が住吉会住吉一家伊勢野会の幹部2人と、政治結社会長ら幹部4人の計6人に刺殺された。直後、埼玉県ふじみ野市にある住吉会住吉一家三角八代目の組事務所前で、同組の幹部が小西一家の組員に銃殺された。
   
    参考)、ヤクザ抗争史 埼玉抗争

 (2)、山口組との友好関係を築く
  
  ・六代目山口組は平和外交を進めていたが、住吉会とはさまざまな流血抗争が起こっていた。関東二十日会に加盟する5団体のうちで山口組と親戚関係にないのは住吉会だけであった。よって、平成23年(2011)、福田ら最高幹部が神戸に出向いて、出所してきた六代目山口組組長・司忍と会談し、翌日には山口組の最高幹部が住吉会本部を訪問をした。

4、特別相談役へ

 (1)、特別相談役へ

  ・平成26年(2014)、住吉会の会長職が福田から住吉会会長代行で住吉一家共和六代目・関功へ譲られた。福田は住吉一家七代目の地位には留まり、住吉会においては「特別相談役」という新設の地位についた。

 (2)、アメリカから経済制裁対象に指定される

  ・平成23年(2011)、オバマ政権はヤクザを国際的に活動する犯罪組織と認定し、翌平成24年(2012)には、山口組に続いて住吉会と西口、福田を経済制裁の対象に指定した。これにより、アメリカの資産が凍結され、アメリカの企業や個人と取引をすることが禁じられた。

<参考文献>

『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)

ヤクザ組織小史 住吉会 西口茂男の時代

1、意義

 ・西口茂男の時代は、住吉会が連合体から組織へと変わっていく時代であった。住吉連合(会)には、堀政夫の人格を慕って全国のさまざまな博徒やテキヤ組織が集結していった。しかし、堀が亡くなったことによって、人間関係ではなく盃を交わすことによって制度による組織を構築する必要が生じた。これを反映して名称も「住吉連合会」から「住吉会」となっている。他方、西口の時代はバブル崩壊や暴対法の施行など、ヤクザが衰退していく時代のはじまりでもあった。

2、西口茂男とは

 (1)、渡世入り

  ・昭和4年(1929)に生まれる。住吉一家向後初代・向後平のもとで渡世入りし、博徒の修行に励んだ。そして、二十代の若さで部屋住みの責任者となっている。

 (2)、出世

  ・昭和31年(1956)に浅草妙清寺事件が起こり向後が亡くなると、住吉一家向後二代目を継承した。また、住吉一家においても、早くから幹部に登用され、理事長などの要職を担った。さらに、住吉連合会においても、会長まで上り詰めた。また、「バクチの天才」としても有名であった。

3、住吉会の会長へ

 (1)、住吉会の会長へ

  ①、意義

   ・平成3年(1991)に「住吉連合会」が発展的に解消して「住吉会」が立ち上げられ、住吉連合会会長である西口が住吉会の会長となった。さらに、住吉連合会総裁・堀政夫の逝去により空席となっていた住吉一家六代目も、西口が合わせて承継した。

  ②、直系制度の確立

   ・住吉連合会は、堀の人徳に惹きつけられた全国の博徒テキヤ組織の寄り合い所帯的な色合いが濃かった。しかし、堀が亡くなったので西口は、最高幹部及び各一家の当代や一部ナンバー2クラスとの間で親子盃を交わし、直系制度を確立した。

  ③、「副理事長」の新設

   ・平成4年(1992)、「会長ー副会長ー常任相談役ー相談役ー専任評議員ー常任評議員ー評議員ー代議員」の副会長の下に「副理事長」というポストを新設し、若手実力派組長117人を選出した。これは、住吉会傘下組織の急増により、常任相談役に就く者が約600人ほどになってしまったので、常任相談役の中で実力がある者を副理事長としたものである。

 (2)、指定暴力団になる

  ・平成4年(1992)、住吉会は山口組や稲川会とともに暴対法に基づく指定暴力団第一号となった。西口の口癖は「ヤクザの基本を忘れちゃ困る」であり、暴対法制定時も「ヤクザの基本を守って、常識を踏みはずさない限り、何も気にすることはないんだから、それほど神経をとがらせるな。それより、いまこそわれわれが襟を正す時期にきてるんだ」と語った。

 (3)、「平和共存・内政不干渉」路線の継承

  ①、親戚関係の構築

   ・西口は、堀の「平和共存・内政不干渉」路線を継承し、平成4年(1992)には稲川会と、翌平成5年(1993)には国粋会と親戚となり、さらに平成5年(1993)に西口は、稲川会会長・稲川裕紘と国粋会会長・工藤和義との兄・舎弟盃の取持人を務めた。

  ②、相次ぐ加入

   ・平成3年(1991)には、西海家総連合会、東京盛代錦戸連合会、東京盛代盛永会が、翌平成4年(1992)には、義人党が解散して武蔵屋一家として住吉会へ加入した。

4、住吉会の総裁へ

 (1)、意義

  ・平成10年(1998)、西口は住吉一家六代目のまま、住吉会会長を住吉一家小林会二代目会長・福田晴瞭(はれあき)に譲り、平成14年(2002)に住吉会の総裁となった。平成17年(2005)には、住吉一家総長の座も福田に譲った。

 (2)、アメリカから経済制裁対象に指定される

  ・平成23年(2011)、オバマ政権はヤクザを国際的に活動する犯罪組織と認定し、翌平成24年(2012)には、山口組に続いて住吉会と西口、福田を経済制裁の対象に指定した。これにより、アメリカの資産が凍結され、アメリカの企業や個人と取引をすることが禁じられた。

5、逝去

 ・平成29年(2017)、逝去。享年88歳。

<参考文献>

『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)

ヤクザ組織小史 住吉会 堀政夫の時代

1、意義

 ・堀の時代は、「平和共存、内政不干渉」の方針のもとに、膨張していった時代である。全国各地の博徒テキヤ組織が堀の人徳を慕って住吉会へと加入し、昭和58年(1983)の警察庁の調べによると、住吉連合会は24都道府県にまたがり、113団体6600人の構成員までに拡大した。他方、関東の他の博徒組織とは「関東二十日会」を、テキヤ組織の親睦団体である「関東神農同志会」とは定期的な食事会を行うなど、他組織との平和共存にも努めていった。

2、堀政夫とは

 (1)、出生

  ・大正14年(1925)、堀は長崎県佐世保に生まれた。

 (2)、渡世入り

  ①、意義

   ・住吉一家二代目・倉持直吉の貸元の一人である二代目住吉一家高輪伊皿子貸元・井出六蔵との縁で渡世入りした。
 
  ②、秘話

   ・堀は芝白金の芝居一座で用心棒をしていた。また、芝白銀で人気があった「フジトシオ一座」の役者でもあったという。ここから「お役者政」という呼び名が付いた。堀は土地の愚連隊とともに、芝浦一帯で勢力を張っていた阿部重作一門に殴り込みをかけた。この喧嘩の仲裁に入ったのが井出であった。堀はこの時に井出のもとでヤクザをやる決心をした。

 (3)、旅

  ①、旅

   ・堀は若い時分は、「日本を二まわり半くらい歩いてるんじゃないか」というくらい、日本中を旅して歩いた。この時の出会いが堀の人生の財産となり、この時の縁でのちに住吉連合(会)入りする組織も多かった。

  ②、血気盛んな若い時代

   ・後年は謙虚で温厚な堀も若い時分は、博奕の借金の取り立てでテキヤ連中5、6人に囲まれても絶対にひかず、愚連隊と決闘して相手の耳をドスでそぎ落とすなど、血気盛んであった。

 (4)、中里一家と住吉一家を継承

  ・長旅を終えた堀は、昭和30年代初頭に井出の命で千葉県野田市に移り、中里一家三代目・高野巳之吉の後を継いで、四代目となった。さらに、昭和42年(1967)、堀が42歳の時に磧上義光の病没にともない、磧上の遺言によって堀が住吉一家五代目を継承した。

3、住吉連合ー住吉連合会

 (1)、住吉連合結成

  ①、意義
  
   ・昭和40(1965)年4月、第一次頂上作戦の影響により港会から改称してわずか7ヶ月で、住吉会は解散となった。昭和44年(1969)、堀は再び旧住吉会の同志を糾合して「住吉連合」を結成し、自らが代表となった。しかし、堀は金銭にこだわらない性格で、大住吉のトップに立っても借家住まいをし、やがて千葉県に自分の家を持ったが、それも木造二階建ての建売だったという。

  ②、膨張する住吉連合(会)

   ア)、意義

    ・住吉連合(会)には、堀の人徳を慕って全国各地の博徒やテキヤ組織が住吉連合(会)入りをし、組織は膨張していった。

   イ)、旧「友愛会」

    ・昭和33年(1958)、幸平一家の本橋政夫、土支田一家の杉原繁雄、滝野川一家の福原陸三、二本木小川一家の西沢福司の4博徒が集まって「友愛会」が結成された。この友愛会は自然消滅していたが、住吉連合に丸ごと加盟をした。

   ウ)、親和会

    ・昭和47年(1972)、栃木を中心に茨城や群馬の一部まで勢力を張っている屈指の名門組織である親和会が加盟した。

   エ)、丸唐会
   
    ・昭和49年(1974)、いわき市に本拠を置く名門組織の丸唐会が加盟した。

   オ)、西方

    ・昭和54年(1979)、石巻市の西方二代目が加盟した。

   カ)、三心会

    ・昭和61年(1986)、釧路市の三心会が加盟した。

  ③、テキヤ寄居一家との五分兄弟盃

   ・堀は、テキヤ組織との関係も構築していった。昭和48年(1973)、住吉連合(滝野川一家総長・福原陸三、親和会栃木一家総長・小松澤繁、同光京一家総長・大町年市)と寄居一家(森田信一、田中銀次郎、峰久雄)の6人による五分兄弟盃の取持人を務めた。

  ④、関東二十日会

   ・昭和47年(1972)、稲川会、住吉連合、松葉会、日本国粋会、東亜友愛事業組合、交和会、二率会、双愛会、義人党の9団体からなる関東博徒組織の親睦団体、関東二十日会が結成された。

 (2)、住吉連合会へ再編

  ①、意義

   ・昭和57年(1982)、堀は「住吉連合」を「住吉連合会」とし、自らは代表から会長となって組織の再編を断行した。

  ②、組織改革

   ア)、副会長職の新設

    ・住吉連合時代は、「代表ー常任相談役ー相談役ー常任評議員ー評議員ー代議員」という順序で役職が並んでいたが、組織改革により副会長職が新設され、「会長ー副会長ー常任相談役ー相談役ー専任評議員ー常任評議員ー評議員ー代議員」という順序となった。

   イ)、名誉職の新設

    ・功労者の長老や先輩諸氏のために、「名誉顧問」「常任顧問」「特別参与」などの名誉職を新設した。

 (3)、池袋抗争

  ・昭和58年(1983)、住吉連合会幸平一家石田睦池田会と極東関口三浦連合会との間で抗争が勃発した。

   参考)、ヤクザ抗争史 池袋抗争

 (4)、総裁を設ける

   ・昭和63年(1988)、新たに総裁制を導入し、「堀政夫総裁ー川口喨史会長ー西口茂男理事長ー小林楠扶本部長」という体制となった。しかし、川口会長と小林本部長が相次いで亡くなったことなら、平成2年(1990)に「堀政夫総裁ー西口茂男会長ー沼澤春男理事長ー鈴木康夫本部長」というラインに加えて6人の会長補佐、12人の副会長という体制を敷いた。 

5、最期

 ・平成2年(1990)、堀は改革の志半ばで亡くなった。享年65歳。その葬儀には全国から2万人が参列したという。

<参考文献>

『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)
『日本の暴力団』(仲村雅彦、1985、政界往来社)

ヤクザ組織小史 住吉会 磧上(せきがみ)義光の時代

1、意義

 ・磧上の時代は第一次頂上作戦の時代である。港会は住吉会へと改称されたが、その7か月後に解散をすることになった。なお、昭和40年(1965)2月19日の朝日新聞によると、この頃の住吉会は東京中心に埼玉、千葉、栃木、群馬など十と県に勢力が及び、構成人数は約3800人。幹部は港湾荷役、運送業、不動産業、料理やなどを経営しているが、バクチを常習とし、債権取り立てや民事介入事件などを資金源としている、と報道されている。

2、就任

 ・昭和37年(1962)、住吉一家総長・阿部重作は引退し、その跡目は上萬一家の貸元であった磧上義光が継承した。

3、「港会」を「住吉会」へ

 ・昭和39年(1964)、磧上は連合組織である「港会」を「住吉会」に改めて自らその会長となった。さらに、昭和38年(1963)に錦政会、港会、松葉会、日本国粋会、義人党、東声会、北星会の7団体で結成された関東ヤクザの親睦団体である「関東会」の二代目理事長に、松葉会会長・藤田卯一郎の後をうけて就任した。

4、第一次頂上作戦と住吉会の解散

 (1)、第一次頂上作戦

  ①、当局を刺激した関東会のビラ

   ・関東会は「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」というビラを配送した。これに政治家は激怒し、警察庁が準備していた第一次頂上作戦の徹底強化に口実を与える結果となった。

  ②、第一次頂上作戦のはじまり

   ・昭和39年(1964)頃から、広域暴力団に指定する山口組、本多会、住吉会、錦政会、日本国粋会、松葉会、日本義人党、北星会、東声会、柳川組の10団体を集中的に壊滅させようという、第一次頂上作戦がはじまった。

 (2)、磧上の逮捕

  ・昭和39年(1964)度中に住吉会の検挙者は1021人、磧上も昭和39年(1964)に各組織のドンのトップをきって逮捕され、さらに、神奈川県の旅館で行った阿部の引退見舞いとしての総長賭博を行った角で、昭和40年(1965)に再び逮捕された。

 (3)、住吉会の解散

  ・昭和40(1965)年3月に錦政会が解散をし、住吉会も同年4月に解散をした。港会と改称されてからたった7ヶ月での解散となった。

5、磧上の死

 ・磧上は昭和42年(1967)に病没した。享年53歳。

<参考文献>

『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)


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