1、抗争

  昭和39年(1964) 泡瀬派vs山原派、那覇派、普天間派連合軍

2、経過

 (1)、普天間派と泡瀬派の誕生

  ・第一次沖縄戦争後、那覇派から田場盛孝が独立して宜野湾市に普天間派を結成し、さらにコザ派から喜屋武盛晃が泡瀬区出身者を引き連れて独立してコザ市に泡瀬派を結成した。さらに、コザ派は首領の喜舎場が引退して顧問となり、新たに新城が首領となって山原派と名を改めた。

 (2)、喜舎場朝信襲撃事件(泡瀬派→山原派)

  ・コザ市を縄張りとしている山原派と泡瀬派は小競り合いが絶えなかった。そのような中で、昭和39年(1964)、コザ市街地で泡瀬派は山原派顧問・喜舎場を襲撃した。一命はとりとめたが、山原派は激怒し、報復の準備をした。

 (3)、喜屋武盛一幹部襲撃事件(山原派→泡瀬派)

  ・喜舎場襲撃事件に対して、山原派は泡瀬派首領・喜屋武盛晃の弟で泡瀬派幹部の喜屋武盛一を、山原派構成員・上原秀吉が刺し、ボディーガードと銃撃して報復をした。上原秀吉は、上原一家首領・上原勇吉の弟である。

 (4)、那覇派関係者刺殺事件(泡瀬派→山原派(実際は那覇派))

  ・泡瀬派は首領の弟が刺されて重傷を負わされてことから、山原派の者を刺殺した。しかし、この者は実際は山原派ではなく、抗争に関与していなかった那覇派関係者であった。これによって、泡瀬派と山原派の抗争に、那覇派も参戦することとなった。泡瀬派は、山原派と那覇派を相手としなければならなくなった。

 (5)、山原派、那覇派、普天間派連合軍の結成

  ・追い詰められた泡瀬派首領・喜屋武は、普天間派首領・田場に仲裁を依頼したが、田場はこれを断った。第二次沖縄抗争の激化によって、警察は取締を強化してゆき、沖縄ヤクザ全体の死活問題とまでなっていった。ここで、山原派、那覇派、普天間派連合軍の結成された。山原派はコザ派時代に那覇派首領・又吉を二度にわたて殺害しようとしたが、沖縄ヤクザ全体の大局に立って、両派は共同戦線を張ることとした。また、普天間派首領・田場は、連合に参加する代わりに、抗争が終わった後に泡瀬派が持っていた縄張りの一部の割譲を申し入れ、認められた。しかし、これが第三次沖縄抗争の原因となっていく。

 (6)、再び喜舎場朝信襲撃事件(泡瀬派→山原派)

  ・三派の連合結成に対して、泡瀬派は最後の賭けとして、再び山原派顧問・喜舎場を襲撃した。しかし、この計画は失敗し、逆に三派の泡瀬派総攻撃が始まった。

 (7)、泡瀬派の解散

  ・三派の猛攻に対して、泡瀬派はもはや打つ手がなく、昭和42年(1967)1月に解散を宣言した。これによって、第二次沖縄抗争は終結した。

3、映像

 (1)、実録・沖縄やくざ戦争 いくさ世30年・抗争勃発編

  ・第一次沖縄抗争、第二次沖縄抗争、第三次沖縄抗争から沖縄連合旭琉会成立までが描かれています。史実に忠実で、役名も本名のまま出てきます。説明→抗争シーンの連続で、ドラマと解説の中間くらいの作品です。また、山陰事件、博多事件、郷田会vs矢嶋組、広島抗争という本土の抗争の歴史が組み込まれています。

   又吉世喜 小沢仁志

   花城松一 中野英雄

   田場盛孝 四方堂亘

   喜舎場朝信 ゆう輝哲也

   新城喜史 遠藤憲一

   上原勇吉 寺島進

   喜屋武盛晃 寺本剛 

   多和田真山 森永健司



<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『地獄の沖縄10年戦争』(二条凛、竹書房、2009)