1、第一次頂上作戦

 (1)、意義

  ・昭和39年(1964)から始まった第一次頂上作戦によって、昭和41年(1966)9月までには本多会、住吉会、綿政会、日本国粋会など「広域暴力団」10団体が山口組を除いてすべて解散させられてしまった。山口組は解散はしなかったが、壊滅的な打撃をこうむった。

 (2)、結果

  ・第一次頂上作戦によって山口組は団体数65団体、成員数で1561人が減った。しかし、昭和49年の調査では過去の盛時をしのぐ団体数497団体、成員数10929人まで回復・膨張した。

2、若頭の交代

 (1)、地道行雄から梶原清晴へ

  ①、地道行雄から梶原清晴へ

   ・山口組若頭であった地道行雄は、第一次頂上作戦において山口組の解散を主張したり、「さんちかタウン恐喝事件」での取り調べの際に、田岡が関与した旨の供述をしてしまったことから、信望を失っていった。地道は、昭和43年(1968)2月に自ら若頭職を辞任した。後任の若頭には、梶原清晴がついた。

  ②、梶原清晴とは

   ・田岡は、梶原を第一次頂上作戦後疲弊した山口組の若頭に据えた理由を、「梶原は山口組内にあって敵が少ない。梶原の人柄からいえば、どちらかというと消極的であり、穏便主義者である。(中略)。性格は几帳面で四角いマスのような男で、冗談もいわぬ生一本さがあった。頼まれれば否といえぬ八方美人的な評価もあったが、人間はしっかりしており組内での人望は高く、地道も何かにつけて梶原の意見を求めていたようである」とする。

 (2)、梶原清晴から山本健一へ

  ①、梶原の死

   ・昭和46年(1971)7月、梶原は、自らの趣味と、『山口組時報』第2号「磯釣りコンペ」の下見のために鹿児島の硫黄島へ釣りへ行った。島の南端にある野天の天然温泉に入ろうとしたところ、突然高波に襲われて溺死した。享年46歳。

  ②、若頭・山本健一

   ・梶原の後任の若頭人事は、山本広と山本健一の名が上がった。若頭補佐6人の互選で山本広に決定したが、敗れた山本は田岡に直訴し、田岡の鶴の一声で山本が若頭の職についた。山本健一若頭の下で、山口組は大阪戦争を戦った。

3、抗争から社交の時代へ

 (1)、意義

  ・第一次頂上作戦以後、山口組は抗争をしようにも警察の監視下にあり、多少の動きに凶器準備集合罪や銃刀法が発動された。そうした中で、社交が重視されるようになった。

 (2)、他団体との縁組

  ①、稲川会
 
   ・山口組は昭和35年以降、横浜へ進出しようとし、横浜を地盤とする稲川組(のちに稲川会)と抗争を起こしていた。しかし、昭和47年(1972)10月、稲川会側が田岡邸を訪れて、後見人を立てない略式で、若頭・山本健一と稲川組理事長で横須賀一家組長の石井唯博が、若頭補佐・益田芳夫と稲川組専務理事で箱屋一家組長の趙春樹が、それぞれ兄弟盃を交わした。

  ②、中島連合会

   ・若頭補佐・小田秀臣と中島連合会理事長・高山登久太郎が、若衆・大石誉夫と中島連合会系の石田繁一が兄弟盃を交わした。

  ③、共政会

   ・反山口組の関西二十日会の有力組織であり、山口組とは昭和38年の広島戦争以後対立関係にあった広島の共政会と、昭和54年(1979)に和解した。

 (3)、ゴルフとカラオケ

  ・ヤクザの世界でもゴルフやカラオケが流行りとなった。『山口組時報』にはコンペの成績が掲載され、また稲川組では「稲穂会」というゴルフ愛好会が作られて、月一回の定例でゴルフコンペが催された。

4、「正業」から非合法的ビジネスへ

 (1)、意義

  ・第一次頂上作戦の結果、ヤクザは合法的企業を経営することが難しくなった。この後、非合法であるが高利潤の商売へと参入していった。

 (2)、難しくなる合法的ビジネス

  ①、土建業

   ・土建業では、ヤクザ系の企業は入札権はく奪、公共事業からの追放が、この頃から行われるようになった。

  ②、金融業

   ・昭和58年(1983)11月、貸金業規制法が施行された。これによって、支店長クラスまで前科者を排除することとなり、前科者ばかりのヤクザは金融業の登録が不可能となった。さらに、無登録で金融業を営業すると、懲役3年以下、罰金3万円以下、またはその併科という重罰が用意された。

  ③、風俗営業

   ・新風営法や税務署の狙い撃ちによって営業しにくくなった。

  ④、興行

   ・美空ひばりの興行が、共演者で実弟のかとう哲也が山口組系益田組の舎弟頭で前科五犯であることから、各地の公会堂など公共施設の使用が拒否された。

   ・田岡一雄自身の原作となる東映映画「山口組三代目」の上映拒否決議が全国の防犯協会で続発した。しかし、「山口組三代目」さらにその続編の「三代目襲名」は興行的に大成功した。作品の封じ込めが逆に宣伝となってしまったのである。三作目の「山口組三代目・激突編」を制作が予定されたが、これは中止された。

 (3)、非合法ビジネスへ

  ・昭和52年(1977)に警察庁が発表した調査によると、ヤクザが行う合法的ビジネスは、土建、金融、風俗、興行、露天等であり、非合法ビジネスは、賭博、債権取り立て、ノミ行為等、麻薬等、エロ
フィルム、ポン引売春、土建関係(手配)、みかじめ(用心棒)であった。

5、第一次頂上作戦後の田岡一雄

 (1)、第一次頂上作戦前の田岡

  ・田岡は、第一次頂上作戦前は、船内荷役の甲陽運輸、神戸芸能社という高収益の企業をもち、また「下田ガス」会長、「共同企業」取締役など、合法的資金源を十二分に持っていた。よって、この頃の山口組は若衆からの上納金の徴収は行っていなかった。

 (2)、第一次頂上作戦後の田岡

  ・第一次頂上作戦によって田岡は、甲陽運輸は三菱倉庫などの系列下され、神戸芸能社は倒産をするなど、合法的資金源を失った。よって、これ以後はこれといった収入源をもたず、若衆達が納める上納金(月20万円)や、たまたま大金を儲けた若衆が田岡の心証をよくしようと思って運ぶ時々の上納金に頼るようになった。ここで、山口組の上納金制度が始まったわけである。

 <参考文献>

 『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)
 『ヤクザの死に様』(山平重樹、幻冬舎、2006)