1、抗争

 昭和37年(1962) 鶴政会(のちの稲川会)vs加賀美一家

2、人物

 (1)、川上三喜とは

  ①、モロッコ軍団の一員へ

   ・川上はもともと、土浦の甲種飛行予科練習生であった。終戦後は自暴自棄となって喧嘩に明け暮れる日々を送っていた。そんな中出会ったのが、モロッコの辰こと出口辰夫の腹心・佐々木鳴夫であった。川上は佐々木の誘いでモロッコ軍団の一員となった。

  ②、横須賀一家へ

   ・モロッコの辰も佐々木も、肺結核とヒロポン・ヘロインに侵されて、若くして亡くなった。残された川上は、石井隆匡に引き取られ横須賀一家入りし、川上組を立ち上げた。

  ③、山梨一家創設

   ・甲府抗争で懲役12年の刑を終え昭和50年に出所し、川上は甲府市に地盤を築いて、横須賀一家から独立し山梨一家を立ち上げた。

 (2)、加賀美章とは

  ①、愚連隊時代

   ・加賀美は、甲府の「パリージャン」という愚連隊グループのリーダー・東川定太郎の舎弟となった。しかし、東川と折り合いが悪くなり、東川を刺殺し、網走刑務所に長く服役をした。

  ②、加賀美一家

   ・出所後、加賀美は甲府で加賀美一家を立ち上げ、「穴切グループ」と対立しながら、もとから博徒一家の力が弱かった甲府で最大勢力となった。さらに加賀美は土建会社を経営し、山梨土建業会でも顔役となっていた。

3、経過

 (1)、繁華街での小競り合い

  ・昭和37年(1962)、川上は横須賀から3人の若い衆を連れて、山梨グループの内藤陸郎を訪ねて、甲府に遊びに来ていた。甲府の歓楽街で飲み歩いている時に、川上一統は加賀美一家30人ほどに取り囲まれ、路地に連れ去られて暴行脅迫をうけた。川上の若い衆は、川上が連れ去られたと思い込み、横須賀へ電話をかけて仲間の応援を要請した。

 (2)、応援部隊の派遣

  ・横須賀から甲府へすぐに十数名の応援部隊が派遣された。リーダーは横須賀一家代貸の村田忠。また、後に稲川会三代目会長となる稲川裕紘の姿もあった。しかし川上が、自ら加賀美を殺る、もし仕損じたら後は任せる旨を伝えたので、応援部隊は待機をした。

 (3)、加賀美襲撃事件

  ・川上は4人を連れて加賀美の土建会社事務所へ乗り込み、加賀美を銃撃した。加賀美は5発銃弾を受けたが、会社のすぐそばに外科病院があったことから一命は取り留めた。事件の報を聞いて村田率いる応援部隊は横須賀へと引き上げた。川上達も横須賀へ戻り、石井に報告した後に警察に出頭した。川上は殺人未遂で懲役12年の刑で服役した。

 (4)、戦後処理

  ①、宮本廣志との交渉

   ・石井の命を受けて、宮本が入院中の加賀美との交渉にあたることになった。宮本は加賀美に、甲府の縄張りを譲り渡してカタギになるか、それとももう一度喧嘩をするかを迫った。加賀美は三日後に返答するとした。

  ②、林喜一郎との交渉

   ・石井の依頼を受けて、今度は石井の舎弟である林が交渉にあたることになった。三日後に林は加賀美のもとを訪れ、加賀美は自身の引退と加賀美一家の者たちを鶴政会で面倒を見ることを頼んだ。こうして甲府抗争は終結した。

 (5)、その後の甲府

  ・鶴政会会長・稲川聖城から石井は、甲府の縄張りを預けられることとなった。石井は、甲府の縄張りを川上に預けたが、川上が服役で留守の間は、旧加賀美一家と穴切グループの一統を傘下に引き入れ、旧加賀美一派の代貸・長久吾一と穴切グループの首領・小塚原良介を兄弟分にさせて、二人を甲府の代貸に据えて、甲府の責任者として縄張りを死守させ、川上の出所を待つこととした。

 <参考文献>

 『最強の経済ヤクザと呼ばれた男 稲川会二代目会長石井隆匡の生涯』(山平重樹、2014、幻冬舎)