1、抗争

 ・昭和5年(1930)11月2日、関口愛治ら4人が、高山春吉を刺殺した事件。

2、経過

 (1)、高山春吉の悪行

  ①、恐喝・喧嘩

   ・飯島一家小倉組内の尾津喜乃助の身内・高山春吉が、新宿や銀座の繁盛している露店や一般商店に対して、暴力で脅して金銭を巻き上げたり、喧嘩を売ったりしていた。やがて、親分の尾津のところにも文句が寄せられるようになった。

  ②、「関東兄弟連盟」の結成

   ・高山は尾津が商売旅で留守中に、自分の兄弟たちに呼びかけて「関東兄弟連盟」なる組織を勝手に結成してしまった。百余人ほどのこの組織は、露店や一般人に対して恐喝・喧嘩を繰り返していた。

 (2)、尾津vs高山

  ①、尾津vs高山

   ・尾津組内はもとより露天商の親分衆たちも「高山断固制裁」を主張した。これに対して高山は「関東兄弟連盟」の仲間4、50人を集めて、殴り込みの相談をし始めた。尾津も関口愛治ら親分衆が味方をすることとなり応戦体制を整えた。

  ②、仲裁

   ・昭和5年(1930)8月、飯島一家の元老格・伊丹徳蔵が仲裁に入り抗争は避けられた。

 (3)、「関東兄弟連盟」の崩壊と高山の逃走

  ・高山は仲裁案になった「尾津に謝罪する」という項目を実行することを断った。さらに、尾津に味方をした関口などの親分衆まで首を狙うと放言し始めた。さすがの兄弟分たちも高山にはついていけないと「関東兄弟連盟」を去り、瓦解した。孤立した高山は、名古屋、高崎、青森と逃走の旅に出た。

 (4)、「親分衆二十六人の密約」

  ・尾津の立場を支持する関口愛治ら26人の親分衆は、四谷の料亭で開かれた料亭の席上で、一番最初に高山を発見した者が高山を殺害するという密約を結んだ。

 (5)、高山暗殺事件

  ①、高山の発見

   ・昭和5年(1930)10月、全国を回っていた組員から、高山が山形にいる旨の連絡が関口に入った。

  ②、山形へ

   ・「親分衆二十六人の密約」に基づいて、関口愛治、関口の子分・今野正人、尾津の子分・木村勇蔵、熊村菊次郎の子分・山口珠義の4人が、夜行列車にのって、山形へ向かった。

  ③、高山暗殺事件

   ・昭和5年(1930)11月2日に山形に到着した一行は、高山をおびき出して刺殺した。木村、本田、今野の3人が殺人罪、関口愛治他1人が殺人教唆、他2人が犯人隠匿罪で書類送検された。

 (6)、その後

  ・昭和14年(1926)10月17日、関口は仙台刑務所を出所した。この後、大塚の料亭で出所祝いが行われ、総勢150人が駆けつけた。後に関口は新宿へ進出をするが、これは新宿に庭場を持つ尾津の力添えであった。

<参考文献>

 『極東会大解剖』(実話時代編集部、三和出版、2003)
 『山口組抗争史激突山口組VS極東会』(土井泰昭、高橋晴雅、竹書房、2009)