稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

2016年09月

ヤクザ抗争史 埼玉抗争

1、抗争

 平成20年(2008) 埼玉県 山口組vs住吉会

2、経過

 (1)、鈴木寛茂相談役刺殺事件(住吉会→山口組)

  ・平成20年(2008)3月31日、埼玉県八潮市で六代目山口組二代目小西一家二代目堀政連合系組織の鈴木寛茂相談役が住吉会住吉一家伊勢野会の幹部2人と、政治結社会長ら幹部4人の計6人に刺殺される。原因は、事務所開設についてトラブルがあったとか、地元の祭りで個人的なトラブルがあったなどといわれている。

 (2)、鈴木敦嗣幹部射殺事件(山口組→住吉会)

  ・平成20年(2008)4月1日、埼玉県ふじみ野市にある住吉会住吉一家三角八代目の組事務所前で、同組の鈴木敦嗣幹部が銃殺される。二代目堀政連合は伊勢野会の組員を狙ったが雲隠れしてしまったので、事務所当番明けで事務所から出てきた鈴木幹部が狙われたという。これで、六代目山口組二代目小西一家二代目堀政連合と住吉会住吉一家伊勢野会だけでなく、住吉一家三角六代目をも巻き込んだ、埼玉南東部一帯の抗争に発展した。

 (3)、和解

  ・山口組と住吉会の全面抗争になるかと緊張に包まれたが、山口組は六代目体制を発足させてから抗争厳禁を打ち出して平和共存路線を推し進めてきた。これにより、埼玉抗争もすぐに和解が成立する。和解条件は、最初に犠牲者を出したということで住吉会側から山口組側へ弔慰金を支払うということで、お金で解決する方向となった。

3、その後

 ・鈴木寛茂相談役刺殺事件で、殺人罪に問われた伊勢野会幹部は、無期懲役が確定した。他方、鈴木敦嗣幹部射殺事件では、二代目小西一家から40名以上の逮捕者をだし、さらに落合勇治組長までもが殺人の疑いで逮捕をされた。落合組長は平成29年(2017)12月に最高裁への上告が棄却され、無期懲役と3000万円の罰金刑が確定した。

4、裁判の問題点

 ・この埼玉抗争について、山平重樹氏が『サムライ: 六代目山口組直参 落合勇治の半生』(山平重樹、徳間書店、2018)で書かれていますが、ヤクザ同士の抗争よりも、その後の裁判のほうに問題の多い抗争でした。元山口組顧問弁護士の山之内幸夫氏がYoutubeの動画で裁判について解説されています。



<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『サムライ: 六代目山口組直参 落合勇治の半生』(山平重樹、徳間書店、2018)





ヤクザ抗争史 仙台抗争

1、抗争

 平成19年 宮城県 六代目山口組二代目宅見組vs住吉会西海家

2、経過

 (1)、抗争の原因

  ・六代目山口組二代目宅見組高木組に近い人物が、住吉会西海家早坂組の縄張りに飲食店を開店したことから、両組間で何度かトラブルが起こる。殴り合いの喧嘩までしたが、上層部からの厳命で一線は越えていなかった。

 (2)、正面衝突

  ・平成19年3月29日、仙台市若林区のマンションで六代目山口組二代目宅見組高木組の組員が、住吉会西海家早坂組の組員に包丁でさされた。翌30日には今度はその報復として、仙台市青葉区で、西海家の組員と準構成員が、六代目山口組二代目宅見組高木組組員に襲撃され重傷を負った。

 (3)、和解

  ・西麻布抗争後の再燃が危惧されたが、平成19年3月31日、六代目山口組若頭補佐で関東ブロック長である芳菱会総長・瀧澤孝が仙台入りし、西海家と話し合いをして和解が成立した。

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)



ヤクザ抗争史 西麻布事件

1、抗争

 平成19年(2009) 東京都 山口組国粋会vs住吉会

2、国粋会の山口組入り

 (1)、名門・国粋会

  ①、名門・国粋会

   ・戦前は「大日本国粋会」、戦後も昭和33年(1958)に結成された「日本国粋会」には生井一家、幸平一家、田甫一家、小金井一家、佃政一家、落合一家、信州斉藤一家、金町一家など関東甲信越にまたがる主要博徒団体が加入するなど、国粋会は長い歴史を持つ名門組織であった。よって、浅草、銀座、渋谷、六本木など都内のお金になりそうな繁華街のほとんどは、国粋会のメンバーである生井一家や落合一家のシマ(縄張り)であった。

  ②、貸しジマ

   ・国粋会は自らが持つ広大なシマ内で営業する権利を、住吉会などに貸し付け、毎年決まった額の「地代」を取っていた。住吉会などは、借りたシマ内の飲食店や風俗店からみかじめ料や用心棒代を集め、この一部を国粋会へ提供した。例えば、小林会は銀座や六本木を国粋会から借りて、仕切っていた。

 (2)、国粋会の内紛

  ①、日本国粋会四代目・工藤和義

   ・平成3年(1991)、金町一家七代目総長・工藤和義が日本国粋会四代目に就任した。この時、「日本国粋会」から「国粋会」と改称している。

  ②、工藤会長の改革

   ・平成13年(2001)、工藤はそれまで連合体であった組織体制を、自分と幹部が「親と子」もしくは「兄と弟」の盃を交わして、ピラミッド型の組織に変えようとした。しかし、生井一家十二代目総長・柴崎雄二朗、佃繁会会長・尾関裕計、落合一家八代目総長・瀧口政利の三人がこの案に反発した。

  ③、抗争へ

   ・工藤は柴崎ら三組長を絶縁処分とし、彼らが持っていた縄張りを国粋会預かりとするという強硬策に出た。これに、生井一家系列の組長達が続々と会長はへ寝返っていくことから、柴崎ら三組長はこの処分は無効だと宣言して、抗争に突入した。両派は、銀座や新橋などの繁華街で乱闘や発砲繰り返した。

 参考)、宅建太郎さんが抗争過程について紹介されています。



  ④、山口組の仲裁

   ・工藤は三代目稲川会会長・稲川裕紘と五厘下がりの兄弟盃を交わしており、他方柴崎ら三組長はシマの関係上住吉会と親しかった。よって、稲川会も住吉会も第三者的な立場で仲裁することが困難であった。そこで仲裁に入ったのが山口組であった。平成15年(2003)、三組長は引退をし、代目継承した上で残存勢力は国粋会に戻ることとなった。

 (3)、国粋会の山口組入り

  ①、山口組入り

   ・仲裁をしてくれた山口組と工藤はいい関係となった。工藤は、関東二十日会の加盟団体へ一方的に脱退を通知し、平成17年(2005)9月7日、山口組が六代目体制発足直後に、工藤は六代目組長・司忍の舎弟盃を受けて執行部会への出席がない山口組最高顧問となった。

  ②、国粋会の山口組入りの意味

   ・国粋会は浅草、銀座、渋谷、六本木など広大なシマを持ち、住吉会などに貸しジマをしていた。しかし、国粋会が山口組入りしたことによって、山口組の力を背景に貸しジマを返せと言われたら、今まで貸しジマでシノギをしてきた関東の組織はシノギが立ち行かなくなってしまう。国粋会の山口組入りは、山口組と他の関東組織との間で緊張を生み出した。

3、西麻布抗争

 (1)、杉浦幹部射殺事件

  ・平成19年(2007)2月5日、住吉会系小林会三代目会長・小林忠紘は、小林会系武州前川八代目の義理事へ出かけるので、小林の秘書役である小林会直井組組長代行・杉浦良一が迎えに行った。この時、犯人たちは、東京港区西麻布の路上に停めた車の後部座席に座っていた杉浦を、小林と勘違いをして射殺してしまった。

 (2)、犯人不明のままでの住吉会の返し

  ①、山口組太田会事務所へ

   ・住吉会の返しは早かった。事件から1時間後に、麻布十番のマンションにある山口組太田会山崎総業の事務所に銃弾が撃ち込まれた。なぜ太田会が狙われたのかというと、麻布十番は小林会のシマであったが、ここに太田会が事務所を構えたことにより、緊張が高まっていた。杉浦が射殺される前日にも、杉浦が同席して、太田会と小林会との間で話し合いがもたれていた。よって、この解決案に不満を持った太田会側が杉浦を射殺したのではないかと思ったからである。

  ②、山口組国粋会事務所へ

   ・同年2月6日、住吉会は、以前山口組国粋会系組織の事務所があった、渋谷区道玄坂のマンションにカチコミをした。なぜ国粋会が狙われたのかというと、国粋会系組織の中には、国粋会の山口組加入後、今までシマを貸してきた関東系の組織に対して、強硬な態度に出て、地代の値上げを要求するようなところもあった。よって、これでトラブルが発生して、この要求を最も強硬にはねつけていた杉浦が射殺されたのではないかと思ったからである。

 (3)、犯人不明のままでの和解

  ①、山口組最高幹部達との交渉

   ・同年2月7日、犯人不明のまま、山口組若頭補佐・瀧澤孝、総本部長・入江禎、若頭補佐・橋本弘文が上京し、住吉会会長代行・関功、総本部長・太田健真と話し合いに入った。この話し合いは、単に杉浦幹部射殺事件についてだけではなくて、国粋会と住吉会との間の貸しジマ・借りジマの新しいルール作りも行った。

  ②、和解の内容

   ア)、国粋会の縄張りと住吉会に対するその賃借関係は現状維持とする。縄張り内に新しい利権が生まれた場合は、その扱いは両者協議の上で決める。

   イ)、山口組が弔慰金を支払う。

    ・平成16年(2004)10月24日、浅草ビューホテル近くの住吉会系中村会事務所に、山口組系貴広会組員50人が押しかけてた。その後、浅草ビューホテル一階の喫茶室で改めて話し合いに入ったときに、中村会幹部が貴広会組員に向けて発砲し、2人死亡、2人重傷を与えた。この事件で山口組側は返しも金銭的な補償も求めなかったので、杉浦幹部射殺事件と浅草ビューホテル事件を相殺して、山口組から住吉会へ支払われた弔慰金は安かったという。

 参考)、ヤクザ抗争史 浅草発砲事件

   ウ)、事件の責任をとって国粋会会長・工藤和義は引退する。

4、工藤会長の自殺

 (1)、工藤会長の自殺

  ①、意義

   ・平成19年(2007)2月15日、山口組と住吉会の和解が成立してから10日後に、工藤は自宅で自殺した。

  ②、なぜ工藤会長は自殺したのか?

   ア)、西麻布抗争の犯人が国粋会の者であったから

    ・工藤は、西麻布事件の犯人が国粋会の者であるという報告を受けていた可能性がある。そこで、山口組に迷惑をかけたことから精神的に追い詰められて自殺をした可能性がある。

   イ)、国粋会の山口組入りで多くの者に迷惑をかけたから

    ・関東二十日会を脱退して名門国粋会を山口組に入れたが、山口組は国粋会を山口組色に作り替えようとしている。その事で、他の関東の組織にも国粋会の構成員にも迷惑をかけたので自殺をした。

   ウ)、出頭しなくてよいと言って送り出したヒットマン達について山口組から出頭させるように命じられたから

    ・宅建太郎さんが新しい説を紹介されています。



 (2)、国粋会五代目会長・藤井英治

  ・工藤会長の跡目は、国粋会理事長・藤井英治が継承し、六代目山口組の直系若衆となった。藤井は長野県諏訪市にある信州斉藤一家総長であり、場所柄弘道会会長・髙山清司とは気脈を通じた仲であった。

5、杉浦幹部射殺犯逮捕

 ・平成21年(2009)12月、山口組国粋会系幹部・宮下貴行と岩佐茂雄が、殺人と銃刀法違反容疑で逮捕された。その後裁判で、宮下は無期懲役、岩佐は懲役30年の刑を宣告した。かつて、ヤクザがヤクザを殺害しても懲役15年ほどで、刑務所から出てきたら組の幹部として迎えられるといったことが行われていたが、今はヤクザがヤクザを殺害しても無期やかなりの懲役を強いられる時代となり、抗争で「男を売る」時代は終わったと言える。

6、映像

 ・関東極道連合会 第五章

 ・盃外交

 ・東京やくざ抗争

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
 『世界を操るヤクザ・裏社会』(新人物往来社、2003)

ヤクザ抗争史 宅見若頭射殺事件

1、抗争

 平成9年 兵庫県 山口組宅見組vs(山口組)中野会

2、人物

 (1)、五代目山口組若頭・宅見勝

  →ヤクザ人物史 宅見勝

 (2)、五代目山口組若頭補佐・中野太郎

  ①、意義

   ・中野会は、最盛期構成員1700人。兵庫、大阪、東京を中心に組事務所、企業事務所を全国に展開していた。

  ②、山健組の古参幹部

   ・中野は昭和11年(1936)、大分県に生まれ、昭和34年(1959)頃に大阪に出て、大阪の独立組織澄田組傘下の名和組に籍を置いた。しかし、同組が解散したので、山本健一の若中となり、山健組入りした。後に五代目山口組組長となる渡辺芳則や、五代目山口組若頭補佐となる三代目山健組組長・桑田兼吉よりも古参の山健組幹部である。しかし、「懲役太郎」と言われていたほどよく刑務所に行っていたので、組運営がおろそかになり、山健組での出世が遅れた。

  ③、渡辺芳則と桑田健吉との関係

   ア)、渡辺芳則

    ・中野と渡辺との関係は深かった。渡辺が健竜会を立ち上げたときは、中野は初代相談役につき、渡辺が二代目山健組組長を継ぐと、中野は舎弟頭補佐となり、渡辺が五代目山口組組長となると、中野は直参に昇格して組長秘書→若頭補佐と昇格していった。中野は渡辺の後見人を自認し、絶えず渡辺のそばにいて支え、渡辺も中野を頼りにしていた。

   イ)、桑田兼吉

    ・中野にとって桑田は孫の世代にあたる。初代健竜会では相談役の中野に対して桑田は副会長であり、仲が良かった。しかし、桑田が三代目山健組を継いだあたりから両者の仲が悪くなり、五代目山口組執行部では両者は同じく若頭補佐であったが、桑田は宅見の側についていた。

  ④、シノギ

   ア)、シノギを求めて

    ・中野会のもともとの縄張りは神戸市の西のはずれである須磨であった。しかし、須磨区にはたいしたシノギがないことから、東京、北九州、京都へ進出していった

   イ)、東京

    ・中野会は首都圏へ進出し、都内に企業事務所約190カ所を程を開設しトラブルを起こしていった。このことから、中野会は関東のヤクザには受けが悪かった。

   ウ)、北九州

    ・北九州は四代目工藤會の地盤であり、溝下秀男によって阻まれた。

   エ)、京都

    ・中野は八幡市に住まいを移して京都に進出した。ここでも地元の会津小鉄会とシノギでぶつかるようになり、会津小鉄会の組員が中野を理髪店で襲撃する八幡事件へとつながっていった。

  ⑤、超武闘派

   ア)、砂子川組への誤爆

    ・昭和62年(1987)2月、山口組と一和会は抗争の「終結」を宣言した。この後、昭和62年(1987)6月13日に、山広組内川健組組員二人が、大阪府枚方市のレストラン「ファンタジア」で食事中だった二代目山健組内中野会副会長・池田一男を銃殺する事件が起こった。しかし、中野会側は最初は誰が犯人かわからず砂子川組を攻撃してしまい、砂子川組関係者2人を殺害し3人に重傷を負わせ、一和会が犯人だとわかってからは、山広組事務局長・浜西時雄を射殺した。この事件から、暴力団内でも山口組内でも、中野会は怖いというイメージができた。

   イ)、盛力会会長・盛力健児の証言

    ・中野と仲が良かった盛力は、「(中野は)二言目には「あのガキ、殺したる」やから。それもほんまに殺るから。有言実行型やから。だから山口組のなかで五代目(渡辺芳則)以外、誰一人として中野にビビってモノ言えんかったし、中野も聞く耳なんか持ってへん」と証言する。

3、なぜ、宅見は中野会から狙われたのか?

 (1)、宅見と中野の不仲

  ①、五代目山口組の執行部

   ・五代目山口組組長・渡辺芳則は、宅見、総本部長・岸本才三、副本部長・野上哲男らの力で擁立された。この時宅見らは渡辺と、組運営の権限を5年間執行部に任せるという約束をしたという。よって、太田興業会長・太田守正は、五代目山口組の組織運営を「天皇機関説的」と指摘するが、若頭の宅見と7人の若頭補佐(英組組長・英五郎、倉本組組長・倉本広文、弘道会会長・司忍、芳菱会総長・瀧澤孝、三代目山健組組長・桑田兼吉、中野会会長・中野太郎、古川組組長・古川雅章)、総本部長・岸本、副本部長・野上らによって物事は決定し、組長の渡辺はそれを追認するだけであった。特に若頭の宅見の力は強く、渡辺の回答が否や保留と出ても、若頭の宅見が「ええやろ。わしから頭に後で話しとくわ」と承諾すれば、そのまま渡辺も納得する局面が多々あったという。

  ②、渡辺の不満

   ・渡辺は、5年たっても若頭を下りない宅見に不満を持っていた。また、若頭補佐となった中野も、山口組を牛耳っているのは宅見であると見て取り、「宅見は五代目の親分をないがしろにして自分が実権を握り、山口組をええようにしている」と常々思っていた。

  ③、宅見のクーデター

   ア)、渡辺への不満

    ・宅見は、渡辺を担ぎやすい神輿として五代目組長に擁立してみたものの、渡辺に取り巻きができてやりにくさを感じていた。また、直参たちも、「山健組に非ざれば山口組に非ず」といわれるほどの山健組びいきと、直参から金をとりまくり自分に金を運んでくる直参をかわいがる渡辺に不満を持っていた。

   イ)、宅見のクーデター

    ・宅見は渡辺外しのクーデターを計画したという。そのメンバーは若頭補佐の古川、司、そして渡辺の身内である桑田であった。宅見は中野にも声をかけたが、中野は宅見の誘いを断った。そこで、宅見はこのまま放置をしておくと、中野から渡辺に計画が漏れてしまうことを危惧した。

 (2)、八幡事件

  ①、八幡事件とは

   ・平成8年(1996)7月10日、中野が自宅近くの理髪店で散髪をしている時に、会津小鉄会系組員が中野を銃撃した。中野のボディーガード役であった中野会系高山組組長・高山博武が応戦し、襲撃側2名を射殺した。会津小鉄会はすぐに会長・図越利次が山口組本部へ出向き、謝罪をして3億円を支払った。宅見はこの謝罪を受け入れ、あっさりと山口組と会津小鉄会は和解をしていしまった。

  ②、中野の不満

   ・中野は、この八幡事件の処理において、自分の同意を得ないままに和解を進めてた宅見に不満をもった。さらに、会津小鉄会からの謝罪の3億円が一銭も中野には渡ってこなかった。

  ③、黒幕は宅見か

   ・クーデター計画を中野に知られた宅見が、渡辺に計画が漏れる前に中野を殺害しようと考え、京都に進出してきた中野会に手を焼いていた会津小鉄会に依頼して中野を狙わせたという説がある。真相は不明である。

5、事件

 (1)宅見若頭射殺事件

  ①、計画

   ・中野会は、犯人不明で宅見が殺害されることで、渡辺を中心とする新しい五代目体制を築こうと計画した。また、八幡事件の宅見黒幕説が正しいのであれば、中野会は八幡事件の報復として宅見を狙ったとも考えられる。事件の首謀者は中野会系壱州会会長・吉野和利とされているが、中野は後のインタビューで、中野会の若い人たちが自分たちの考えでやったのかという質問に対して、「まあ、そういうことになります。建前はね」と答えている。なお、この計画を渡辺が、同意してたのか、指示や命令を与えていたのか、全く知らなかったのかは不明である。

  cf.なお、中野は『悲憤』(中野太郎、宮崎学、講談社、2018)の中で、渡辺の宅見殺害に対する積極的な命令があったとする。

  ②、宅見の監視
 
   ・吉野は、平成6年(1996)末頃から、実行犯となる中野会系神戸総業幹部・中保喜代春と中野会系至龍会組員・吉田武に、宅見の動静の監視を命じた。

  ③、暗殺の最終準備

   ・平成9年(1997)8月26日、実行犯に「見届け役」である財津組組長・財津晴敏から拳銃が渡され、吉野から事件現場での役割分担などの指示なされた。

  ④、宅見若頭暗殺事件

   ・平成9年(1997)8月28日、新神戸駅近くのオリエンタルホテルで、宅見、総本部長・岸本才三、副本部長・野上哲男が談笑していたところ、宅見のみが射殺された。さらに、流れ弾が近くにいた歯科医師にあたり、この歯科医師も死亡した。なお、宅見は30年来糖尿と肝臓を患っており、平成8年(1996)10月に肺炎も併発し、生死の境をさまよっていた。余命はあと半年か1年とみられており、中野会に襲撃されなくても、長くは生きられなかったという。享年61歳。



 (2)、中野会の破門→絶縁へ

  ①、中野会の破門

   ・襲撃犯が逃走用に使った車が、中野会系中島総業のものだと判明し、事件に中野会が関与していることが濃厚となった。よって、平成9年(1997)8月31日、山口組は中野会を破門とした。組の若頭を殺すことは重大事なので通常なら絶縁である。しかし、山口組執行部でも倉本、古川、桑田らが中野会を絶縁すべきと主張する中、中野に同情的な渡辺は復帰の含みがある破門とした。よって、中野会組員の認識も、「もう山口組系の組ではなくなったが、我々はヤクザをやめたわけではないし、一年たてば、また山口組に復帰できると聞かされている」といったものであった。

  ②、中野会の絶縁

   ・平成9年(1997)9月3日、流れ弾にあたった歯科医師が死亡した。これによって、渡辺も破門を撤回して、中野会はヤクザ社会からの永久追放を意味する絶縁となった。しかし、中野会は解散もせずに存続し続けた。

 (3)、山口組系宅見組vs中野会

  ①、山口組系宅見組vs中野会

   ・中野会は山口組を絶縁されたので、今までのヤクザの掟では山口組から攻撃を受けることになるはずであった。しかし、山口組執行部は、宅見組以外の山口組は中野会を攻撃するなという通達を出した。つまり、山口組vs中野会ではなく、山口組系宅見組vs中野会で済ませようとしたのである。この背景には、渡辺の中野会びいきや、平成9年(1997)10月に施行された、内紛による抗争でも事務所に使用制限がかけられるという改正暴対法の影響がある。

  ②、豪友会問題

   ・平成9年(1997)10月2日、豪友会の組員が高知の中野会系事務所へ発砲をした。これに対して、渡辺は本部通達である宅見組以外の山口組組織への発砲禁止令に違反するとして、豪友会会長・山内鐘吉を謹慎処分とした。しかし、絶縁されても解散しない組織への攻撃はヤクザの性であり、これを咎める行為は山口組の士気にかかわると、若頭補佐・桑田兼吉が反対した。

  ③、宅見組問題

   ・宅見組は、若頭・入江禎が二代目を継承することとなったが、副組長・天野洋志穂など、入江が代目を継承することについて反対の勢力も組内には存在していた。よって、宅見組出身の山口組若頭補佐・倉本広文が調整に汗をかいて(一説には入江二代目体制を誕生させるために指を詰めたともいう)、平成9年(1997)10月25日に盃直しを行い、二代目宅見組が誕生した。なお、天野は二代目宅見組には加わらず、天野組を結成して直参に昇格した。この後、二代目宅見組や天野組によって、報復が行われていった。

 (4)、事件関係者の末路

  ①、現場指揮官の変死

   ・平成10年(1998)7月6日、宅見若頭射殺事件の現場指揮官であった、中野会系壱州会会長・吉野和利が、潜伏中の韓国ソウル市内のホテルで変死体で発見された。吉野の死体は「鼻から血が流れ、口からは血混じりの泡を吹きだしている。胸には青黒く鬱血斑が出、素人の目には、ふとん蒸しかなにかで窒息死させられたのではないかと思われる」ようなものであった。韓国の司法当局が司法解剖をして脳卒中と判断し、遺体を引き取った兵庫県警も再解剖の結果病死とした。

  ②、実行犯の逮捕

   ア)、意義

    ・4人の実行犯のうち、3人が逮捕された。裁判の結果、全員懲役20年となった。

   イ)、概要

    ・平成10年(1998)10月2月、実行犯の中保喜代春が仙台市内のパチンコホールで逮捕された。

    ・平成11年(1999)2月15日、吉田武が逮捕された。

    ・同年7月12日、川崎英樹が逮捕された。

  ③、中野会若頭射殺事件

   ・平成11年(1999)9月、中野会若頭・山下重夫が、大阪市生野区の事務所として使っていた麻雀店内で、宅見組組長秘書・西野保を中心とした4人グループに射殺された。

  ④、中野会副会長射殺事件

   ・平成14年(2002)1月25日、中野会副会長・弘田憲二が、沖縄で山口組天野組組員・山下哲生によって射殺された。

  ⑤、中野会解散

   ・平成14年(2002)7月、中野は自宅で食事会を催して組織の立て直しを図るが、平成15年(2003)1月25日、脳梗塞で倒れ入院し、その後は自宅で警察に守られながら静養をするようになった。平成17年(2005)7月、山口組五代目組長・渡辺芳則が引退を表明し、山口組は六代目体制へと移った。中野も自らの守護者であった渡辺の引退後の同年8月、竹中組組長・竹中武の仲介で、六代目山口組側で総本部長・入江禎と若頭補佐・寺岡修が動き、中野は引退を決意した。平成19年(2007)年、インタビューで中野は「こんなことになるなら、宅見をやらなければよかった」と悔恨したという。

  ⑥、最後の実行犯の死

   ・4人の実行犯のうち最後まで逮捕されていなかった鳥屋原精輝が、平成18年(2006)6月、神戸市六甲アイランドの倉庫内で遺体となって発見された。鳥屋原は病死したが、関係者が埋葬に困って倉庫に放置したものと思われる。

  ⑦、最後の関係者の逮捕

   ・平成年(2013)6月5日、最後の事件関係者である財津晴敏が埼玉県狭山市で逮捕された。裁判の結果、無期懲役となった。




<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)
 『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
 『鎮魂 ~さらば、愛しの山口組』(盛力健児、宝島社、2013)
 『血別 山口組百年の孤独』(太田守正、サイゾー、2015)

ヤクザ抗争史 八幡事件

1、抗争

 平成8年(1996) 京都府 山口組中野会vs会津小鉄会

2、原因

 (1)、京都不可侵の約定

  ・会津小鉄会は京都を地盤とした伝統的な組織である。しかし、山口組系の組織がたびたび進出を図ったことによりトラブルが起こり、三代目山口組の時代に山口組が京都へ進出しないという「京都不可侵」の約定を締結していた。

 (2)、スージータウン構想とヤクザ

  ・五代目山口組発足後、バブル経済の時期に、京都駅前の崇仁地区の再開発計画が持ち上がる。この時、武富士が資金を出して崇仁協議会が地上げを行った。その後、武富士と崇仁協議会は対立するようになり、武富士は山健組を使って崇仁協議会へ攻撃を行った。さらにここに、京都を地盤とする会津小鉄会も入り、また後には山健組に代わって中野会が動くようになった。ここに、中野会対会津小鉄会の抗争が起こる。この過程で起きたのが、中野会会長・中野太郎の襲撃事件である。

 (3)、中野会対会津小鉄会の経過

   ・平成4年(1992)4月、中野会系の不動産業者が会津小鉄会の組員に刺殺された。

   ・平成5年(1993)10月、山口組系の組員が会津小鉄会系の組員を刺殺した。

   ・平成7年(1995)6月、中野会と会津小鉄会の間で13件の発砲事件が起こった。

   ・平成7年(1995)6月、崇仁協議会元会長・高谷泰三宅に銃弾が撃ち込まれ、放火された。

   ・平成7年(1995)7月、中野の自宅に銃弾が撃ち込まれた。

   ・平成7年(1995)7月、崇仁協議会委員長・藤井鉄雄宅が襲撃され、役員が銃撃されて重傷を負った。

   ・平成7年(1995)8月、崇仁協議会の幹部である建設会社社長・井尻修平が、中野会組員に射殺された。

   ・平成7年(1995)8月、山口組藤和会と会津小鉄会山浩組との間で抗争が相次ぎ、藤和会の組員が会津小鉄会の組員と間違えて警官を射殺した。この事件は渡辺五代目も使用者責任が問われた。

   ・平成8年(1996)2月、五代目山口組若頭補佐・桑田兼吉、会津小鉄会若頭・図越利次、共政会会長・沖本勲の三者で兄弟盃を結んだ。

3、八幡事件の経過

 (1)、中野会長襲撃事件

  ・平成8年(1996)7月20日、京都府八幡市の理容店で散髪中の中野が、会津小鉄系の組員に銃撃された。中野は無事であったが、中野のボディーガード役であった中野会系高山組組長・高山博武が会津小鉄会中島会傘下の小若会と七誠会の組員の2人を射殺した。

 (2)、会津小鉄系組員の逮捕

  ・京都府警は逃走したヒットマンのうち、会津小鉄系中島会幹部3人を殺人未遂で逮捕した。さらに、山口組と会津小鉄会の抗争拡大を警戒して、警官1500人を動員して厳戒態勢を敷いた。

 (3)、和解の成立

  ・山口組の最高幹部が襲撃されたことによって、山口組と会津小鉄会の全面抗争となることが懸念されたが、事件当日の深夜に会津小鉄会若頭・図越利次ら最高幹部数人が神戸の山口組総本部を訪れて、図越は断指の上で、五代目山口組若頭・宅見勝ら山口組最高幹部に謝罪をして和解を申し入れ、山口組側もこれを受け入れた。

 (4)、中野会の不満

  ・会津小鉄会と山口組の間では和解が成立したが、会長を襲撃されながらなんの返しもできない中野会側には不満が残った。さらに、中野は警察の事情聴衆を受けていた間に和解が成立してしまったために、直接和解の話を聞いておらず、また、会津小鉄会からの謝罪の3億円が一銭も中野に入ってこなかったことから、中野も不満の募らせた。

4、事件の背景

 (1)、宅見勝黒幕説

  ①、五代目山口組の執行部

   ・五代目山口組組長・渡辺芳則は、宅見、総本部長・岸本才三、副本部長・野上哲男らの力で擁立された。この時宅見らは渡辺と、組運営の権限を5年間執行部に任せるという約束をしたという。よって、太田興業組長・太田守正は、五代目山口組の組織運営を「天皇機関説的」と指摘するが、若頭の宅見と7人の若頭補佐(英組組長・英五郎、倉本組組長・倉本広文、弘道会会長・司忍、芳菱会総長・瀧澤孝、三代目山健組組長・桑田兼吉、中野会会長・中野太郎、古川組組長・古川雅章)、総本部長・岸本、副本部長・野上らによって物事は決定し、組長の渡辺はそれを追認するだけであった。特に若頭の宅見の力は強く、渡辺の回答が否や保留と出ても、若頭の宅見が「ええやろ。わしから頭に後で話しとくわ」と承諾すれば、そのまま渡辺も納得する局面が多々あったという。

  ②、渡辺の不満

   ・渡辺は、5年たっても若頭を下りない宅見に不満を持っていた。また、若頭補佐となった中野も、山口組を牛耳っているのは宅見であると見て取り、「宅見は五代目の親分をないがしろにして自分が実権を握り、山口組をええようにしている」と常々思っていた。

  ③、宅見のクーデター

   ア)、渡辺への不満

    ・宅見は、渡辺を担ぎやすい神輿として五代目組長に擁立してみたものの、渡辺に取り巻きができてやりにくさを感じていた。また、直参たちも、「山健組に非ざれば山口組に非ず」といわれるほどの山健組びいきと、直参から金をとりまくり自分に金を運んでくる直参をかわいがる渡辺に不満を持っていた。

   イ)、宅見のクーデター

    ・宅見は渡辺外しのクーデターを計画したという。そのメンバーは若頭補佐の古川、司、そして渡辺の身内である桑田であった。宅見は中野にも声をかけたが、中野は宅見の誘いを断った。そこで、宅見はこのまま放置をしておくと、中野から渡辺に計画が漏れてしまうことを危惧した。

  ④、八幡事件

   ・クーデター計画を中野に知られた宅見が、渡辺に計画が漏れる前に中野を殺害しようと考え、京都に進出してきた中野会に手を焼いていた会津小鉄会に、図越と兄弟関係にあった桑田兼吉を通して依頼し、中野を狙わせた。

  ⑤、宅見若頭射殺事件

   ・中野を襲撃したことについて、会津小鉄会の側が謝罪をしてきた。中野は、この八幡事件の処理において、自分の同意を得ないままに和解を進めてた宅見に不満をもった。中野会では宅見の襲撃計画が立てられ、吉野和利が総指揮者となって宅見を新神戸オリエンタルホテルで射殺した。

 (2)、司忍黒幕説

  ①、意義

   ・平成26年(2014)9月、六代目山口組組長・司忍と、若頭・高山清司を批判する怪文書が流れた。その中で、八幡事件について司忍(当時は若頭補佐)黒幕説が流布された。なお、太田守正は「六代目に恨みを感じている者が、勝手気ままに推論と妄想を重ねた代物」と評価する(『血別 山口組百年の孤独』(太田守正、サイゾー、2015)。

  ②、八幡事件

   ・大分生まれの司忍は、集団就職後の大阪での履歴をすべて中野に把握されており、頭が上がらない目の上のたんこぶ的な存在であった。また、当時の若頭の宅見と若頭補佐の古川雅章、桑田兼吉、瀧澤孝等の山口組幹部は、中野の先鋭的な言動に苦々しく、また恐怖を感じていた。よって、司忍が、宅見、古川、桑田に殺害をけしかけた。

   ・当時、会津小鉄会の図越は、中野に多額の金銭を無心されており、さらに中野が京都に引っ越してて中野会が本格的に京都に進出してきたこともあって、恐怖を感じていた。山口組が直接襲撃するのではなく、会津小鉄会が襲撃することとなったが、会津小鉄会の襲撃は失敗に終わった。

  ③、宅見若頭暗殺事件

   ・中野暗殺失敗後、会津小鉄会の謝罪が宅見の根回しによって簡単に受け入れられた。さらに、中野は以前、渡辺の処遇について宅見からトラップ一杯の現金を届けるから自分に一任してくれと申出がなされことがあり、中野は宅見に不信を深めていった。中野は、渡辺の同意を得た後に宅見を射殺した。宅見若頭射殺事件の後、執行部が渡辺を責め立て、中野は絶縁処分となった。

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『血別 山口組百年の孤独』(太田守正、サイゾー、2015)
 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、講談社、2013)



スポンサーリンク
記事検索
スポンサーリンク
スポンサーリンク
プライバイシーポリシー
  • ライブドアブログ