稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

2016年08月

ヤクザ抗争史 北見抗争

1、抗争

 昭和59年 北海道 一和会加茂田組花田組vs稲川会稲川一家岸本組星川組

2、人物

 (1)、星川組組長・星川濠希

  ・星川濠希は北海道赤平市に生まれた。少年時代から喧嘩三昧で少年院を出入りしていたが、20歳で北見に出て、寄居関保連合の親分の若い衆となった。しかし、昭和56年(1981)にその親分が関保連合を破門され、星川自身も宙に浮いた存在となってしまった。そんな時に、稲川会稲川一家岸本組組長・岸本卓也と出会い、盃を交わして、北見に稲川会に看板を掲げた。

 (2)、花田組組長・花田章

   ・花田章は、昭和3年(1928)の青森生まれた。戦時中は海軍に入り、復員後に北見で愚連隊をやり、のちに北見で一家を構える奥州金子一家に入った。やがて花田は奥州金子一家の四代目を継承するが、昭和50年(1975)に三代目山口組加茂田組組長・加茂田重政の舎弟になったのを機に、その座を降りた。昭和59年(1984)の山一抗争時には、加茂田に従って一和会へ移った。花田は加茂田組舎弟頭補佐の地位にあり、当時の花田組は、北見、札幌などに構成員350人を擁する大組織であった。

3、経過

 (1)、花田章組長射殺事件
 
  ①、直接の原因

   ・星川組と花田組はシノギをめぐってイザコザが頻発するようになった。直接の原因となったのは、昭和59年(1984)7月30日、北見市内の飲み屋で、星川組組員が北見職安を舞台に起こした「雇用保険訴訟事件」について、花田が星川を「ヤクザのやることじゃない」と激しく面罵した事件であった。これにより星川組の組員は、親分が恥をかかされたと受け取った。

  ②、経過
  
   ・昭和59年(1984)8月1日、北見市のスーパーから買い物をすませて駐車場へ戻ってき花田が、星川組組員に射殺される。当時は山口組と一和会が抗争をしており、稲川会は山口組と親戚関係であったことから、一和会対稲川会の抗争になるのではないかと警察は警戒した。

 (2)、関東二十日会により仲介

  ①、意義
   
   ・稲川会が加入している関東二十日会は抗争防止に動いた。また、一和会側も山口組との抗争中であることから稲川会を敵にまわすのはまずいので、一和会会長・山本広が加茂田重政を説得した。これにより、関東二十日会の当番組織であった日本国粋会総長・八木沢由雄と松葉会会長・中村益也が仲介をして、小樽のホテルで手打式が行われた。

  ②、手打ちの問題点

   ア)、山口組の不満

    ・山口組は一和会と抗争中であった。山口組はそもそも一和会をヤクザとしては認めておらず、それなのに親戚団体の稲川会が一和会相手に、その組織を公認するに等しい手打ちを行ったことが不満であった。

   イ)、花田組の不満

    ・一和会が報復もせずにこの手打ちを受け入れたのは、手打ちによって山口組の親戚団体である稲川会が一和会の存在を公認したこととなるからであった。しかし、花田組組員にとっては、組長の命を奪われたにも関わらず、返しなしで「五分と五分」の手打ちは受け入れがたかった。

 (3)、星川濠希組長射殺事件

  ①、意義

   ・花田章組長射殺事件における手打ちの条件に不満を持った花田組組員らは、昭和59年(1984)11月19日、北見市のキャバレーで星川を射殺した。享年40歳。しかし、これは明らかな手打ち破りであり、仲裁になった松葉会や日本国粋会のメンツを潰したばかりでなく、一和会と稲川会の抗争が再燃するかもしれないこととなった。

  ②、抗争の拡大

   ・昭和59年(1984)12月、星川組の組員が花田組傘下の組員を襲い、1人死亡1人に重傷を負わせた。

 (4)、再び手打ち式を開く

  ・一和会幹事長・佐々木将雄と前回の仲裁役であった日本国粋会常任相談役・八木沢由雄が兄弟分であったので、このパイプを通して佐々木が誠意を尽くし、昭和61年(1986)11月15日に再び手打ちが成立した。花田組は丹羽勝治が二代目を継承し、星川組も二代目体制へと移行した。

 (5)、丹羽勝治組長射殺事件

 ①、竹中正久の墓前での殺人事件

  ・昭和61年(1986)2月27日、姫路市の竹中正久の墓前で、山口組系竹中組内柴田会の若手組員二人が墓の掃除をしようとしていた所、近くの墓石に隠れていた花田組組員に射殺された。

 ②、丹羽勝治組長射殺事件

  ・昭和63年(1988)4月111日、札幌市内で丹羽は山口組系弘道会傘下のヒットマンに射殺された。この後、加茂田組は弘道会への報復を計画した。しかし、加茂田重政の引退によって、結局は返しは行わなかった。

4、その後

 (1)、花田組

  ・花田組は後に花田会と改称して、初代花田章の舎弟であった橋本功が会長となった。上部団体の加茂田組が解散したことから、山口組系二代目山健組内二代目健竜会北竜会傘下となった。さらに、平成27年(2015)には六代目山口組系茶谷政一家に移籍をした。

 (2)、星川組

  ・星川組は、北見市唯一のヤクザであったが、平成29年(2017)11月、警察に解散届を提出した。全盛期は100人ほどいた組員も、解散時は4人であった。

4、映像

 (1)、実録 手打ち破り

 ・橋爪会(モデルは花田会)の視点からみた北見抗争です。基本的に史実に忠実ですが、最後は劇的に終わっています。

  長峰康平 本宮泰風

  江畑祐市 小沢仁志

  橋爪勝治(モデルは花田章) 岡崎二朗

  都築猛雄(モデルは星川濠希) 小沢和義



 (2)、実録・北海道やくざ戦争 北海の挽歌



<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)
 『ヤクザの死に様』(山平重樹、幻冬舎、2006)


ヤクザ抗争史 大阪戦争

1、抗争

 昭和50~53年 大阪府 山口組vs松田組

2、松田組とは

 ・松田組は、昭和20年(1945)に松田雪重が大阪市西成区で結成した博徒組織である。昭和44年(1969)に松田が死亡すると、二代目は樫忠義が継承した。反山口組の関西二十日会に所属する、勢力300人ほどの組織であった。他方、大阪戦争が始まる頃の山口組は、1万人ほどの組員を抱えていた。

3、経過

 (1)、第一期 ジュテーム事件

  ①、原因

   ・松田組溝口組の賭場に山口組佐々木組徳元組幹部が賭場荒らしをしたので、松田組溝口組は賭場の出入りを禁止した。これに対して、昭和50年(1975)7月26日、メンツがある山口組佐々木組徳元組は、松田組溝口組2人を連れて、豊中の喫茶店ジュテームで話し合いをした。これを拉致されたと勘違いした松田組溝口組の組員たちは、喫茶店に乗用車二台で乗り付けてピストルを乱射し、山口組佐々木組徳元組組員3人を射殺し、1人に重傷を負わせた。松田組溝口組は賭場が生命線なので、この賭場を守るために必死であった。

  ②、山口組の報復

   ・当初、山口組は報復には乗り気でなかった。抗争の非は山口組側にあった事、山口組の三、四次団体の抗争である事、抗争をしても出費がかさみ経済的でない事などがその理由である。よって、山口組側の返しは、ジュテーム事件があった日の一か月後の昭和50年(1975)8月23日に、大阪市にある松田組村田組村田岩三組長宅に拳銃を打ち込むのみであった。

  ③、松田組の返し

   ・山口組の報復に対して、松田組の返しは早かった。村田組長宅に拳銃が撃ち込まれた日の翌日に、松田組村田組の過激派である大日本正義団幹部・平沢勇吉が山口組本部事務所に拳銃を打ち込み逃走した。さすがに抗争に乗り気でなかった山口組も、本部事務所に銃撃されたことで、若頭の山本健一をはじめ主戦論が強くなっていった。

  ④、山口組の報復

   ・松田組系手束組が取り仕切っていた大阪府松原市の盆踊り会場で、山口組系の組員が拳銃で発砲して集まっていた市民を混乱に陥れた。さらに、山口組系佐々木組の組員が松田組系瀬田会会長代行宅を襲撃して組員に一人を怪我を負わせ、さらに山口組系中西組組員・羽根恒美も、パトカーの張り付け警備を押して、松田組樫忠義組長宅に拳銃を打ち込んだ。

  ⑤、中西組組員射殺事件から第三次頂上作戦へ

   ・泥沼化した抗争の中で、複数の関係筋が和解を働きかけて一時は和解への道筋が見えたが、昭和50年(1975)9月3日、山口組側の和解話の窓口となっていた中西一男組長の中西組事務所に、松田組村田組大日本正義団の組員が乗用車で突入し運転席から拳銃を撃ち込み、中にいた中西組員一人を射殺した。警察庁は中西組組員射殺事件の翌々日に、タイミングをはかったかのように第三次頂上作戦を開始し、山口組と松田組の抗争は小康状態となった。

  ⑥、和解の動き

   ・当時、山口組は若頭が山本健一で、若頭補佐に菅谷政雄がいた。菅谷は昭和34年(1959)に山口組入りした新参者ではあったが、その勢力は14府県、60下部団体、1200人の構成員を抱えた一大勢力であった。若頭の山本健一にとってみれば、自分よりも勢力を持ちながら、自分よりも役職が下である菅谷は、恐怖でありある種の嫉妬の対象でもあった。この菅谷が勝手に松田組と和解交渉をすすめたとして、菅谷は昭和50年(1975)10月の定例幹部会で謹慎処分となり、若頭補佐の地位は凍結となった。この謹慎は昭和51年(1976)4月に解かれたが、若頭補佐から筆頭若衆に降格となった。この後、菅谷は昭和52年(1977)1月に起こした三国事件によって、山口組を絶縁となる。

 (2)、第二期 日本橋事件

  ①、吉田芳弘会長射殺事件

   ・昭和51年(1976)10月3日、大阪日本橋で松田組村田組大日本正義団の吉田芳弘会長が、山口組佐々木組片岡組組員・與則和らによって射殺された。山口組から当事者であることから決着をつけるように圧力をかけられていた佐々木組が、巨額の費用と数か月にわたる準備をして決行した暗殺であった。なお、この吉田芳弘会長の運転手をしていたのが、鳴海清であった。

  ②、佐々木道雄組長襲撃計画

   ・会長を射殺された大日本正義団の組員は吉田会長の仇討ちを誓い、山口組佐々木組の佐々木道雄組長宅の近くにアジトを構えて佐々木組長をうかがった。しかし、このアジトは兵庫県警に発覚して16人もの組員が逮捕されて、襲撃計画は未遂に終わる。

 (3)、第三期 ベラミ事件

  ①、田岡一雄組長襲撃事件

   ・昭和53年(1978)7月11日、田岡一雄は京都太秦の東映撮影所の火事見舞いに訪れて、その帰りにナイトクラブ「ベラミ」に立ち寄った。警護役は細田利明、仲田喜志登、そして羽根悪美であった。田岡はベラミでショーが終わった後、松田組村田組大日本正義団幹部である鳴海清に銃撃され、全治三週間の怪我を負った。

  ②、鳴海組員からの挑戦状

   ・山口組はトップが襲撃されたことに激怒して、警察よりも先に鳴海を見つけ出そうと必死に行方を追った。他方鳴海は、昭和53年(1978)8月11日、新大阪新聞社に田岡を挑発する「挑戦状」を送りつけた。この挑戦状により鳴海が西成にいるとして警察と山口組がローラー作戦で行方を追うが発見できなかった。鳴海はこの頃、関西二十日会加盟の忠成会の世話で、加古川や三木市を点々としていた。

  ③、山口組の報復

   ア)、意義

    ・鳴海の挑戦状が新聞に載って以後、山口組の報復の火蓋が切って落とされた。山口組は松田組組長・樫忠義や、松田組村田組大日本正義団会長・吉田芳幸の命を取ろうとしたが、樫は自宅にこもって一歩も出ず、吉田は逃げ回っていた消息がつかめなかった。この時の様子を吉田芳幸は動画で語っている。



   イ)、松田組村田組の潮見義男若頭補佐射殺事件

    ・昭和53年(1978)8月17日、大阪市にある公衆浴場で松田組村田組の潮見義男若頭補佐が射殺された。この事件の首謀者として、当時は山健組の若頭補佐であった盛力健児が逮捕され、懲役16年の刑に服した。盛力はこの時の様子を『鎮魂 ~さらば、愛しの山口組』(宝島社、2013)の中が詳しく述べている。

   ウ)、松田組西口組の西口善夫組長宅襲撃事件

    ・昭和53年(1978)9月2日、和歌山市で合法企業を多数営み松田組随一の金持ち組織であった松田組西口組の西口善夫組長宅に、山口組山健組健竜会の組員が侵入し拳銃を乱射した。西口組長はゴルフで外に出ていたが、警戒中であった西口組の組員2人が射殺された。この事件の首謀者として、当時山口組山健組健竜会で若頭補佐を務めていた、現神戸山口組組長・井上邦雄が逮捕され、懲役17年の刑に服した。この功績で健竜会会長・渡辺芳則は山健組の二代目になれ、山口組の若頭まで登れたことから、渡辺は井上に感謝し、出所後も井上を引き立てた。

  ④、鳴海が腐乱死体で発見される

   ア)、意義

    ・昭和53年(1978)9月17日、兵庫県六甲山中で鳴海の死体が発見された。腐乱が激しく、背中の刺青から鳴海であると判明された。

   イ)、誰が鳴海を殺害したのか

    ・昭和53年(1978)10月7日、関西二十日会に連なる団体の幹部5人が、兵庫県警に出頭し、県警は犯人隠匿容疑で逮捕した。彼らは鳴海の殺害については否認していたが、約一か月後にそのうちの2人が幹部の命令で殺害した旨を自供した。起訴状によると彼らが鳴海を殺害した理由は、鳴海が無断で西成に戻ろうとしたりして鳴海を持て余していた点と、鳴海を同団体が組織ぐるみで隠匿していた事実が発覚することを恐れたからとされた。最高裁は、「自白調書が信用しがたい」として大阪高裁に審議のやり直しを命じ、大阪高裁で同団体幹部らは無実が確定し冤罪であったことが明らかとなった。鳴海を誰が殺害したのかは、いまだに不明である。

 (4)、止まない山口組の攻撃

  ①、意義

   ・鳴海の死は山口組が手を下したものではなかったので、鳴海の死で松田組をよしとするわけにもいかなかった。よって、鳴海の死が明らかになった後も、しばらく返しが行われた。

  ②、杉田組長射殺事件

   ・昭和53年(1978)9月24日、和歌山市内の松田組福田組事務所を訪れた福田組杉田組組長を、待ち伏せをしていた山口組宅見組の組員が銃撃した。杉田組長は翌日に亡くなった。

  ③、宅見組による樫組長宅空爆計画

   ・松田組の樫組長は、自宅にこもっていたので、山口組は全く手が出せない状態であった。そこで山口組宅見組は樫組長宅の近くに前線基地を設営し、ダイナマイトを積んだラジコンのヘリコプターを飛ばして樫組長宅を空爆する計画を立てた。この計画は実験段階で露見し、宅見組の組員が殺人予備と銃刀法違反容疑で逮捕された。

  ④、吉田芳幸会長収監

   ・松田組村田組大日本正義団会長・吉田芳幸は、ベラミ事件後80日間の逃走生活を送ったが、山口組の報復におびえる生活に疲れ、大阪府警に連絡を入れて収監された。吉田は昭和52年(1977)に佐々木道雄暗殺計画で銃刀法違反に問われて保釈の身であったが、無断で姿をくらましたために、大阪地裁が収監命令を出していたのである。

    cf.この後、大日本正義団は石川明が昭和57年(1982)に三代目をついで復興させ、波谷組へと移籍した。山一抗争時は山口組とも一和会とも友誼関係を結んでいる。平成2年(1990)に解散した。

  ⑤、村田組若頭襲撃事件

   ・昭和53年(1978)10月4日、山口組山健組健心会は大阪市内のスナックで松田組村田組若頭・木村誠治を狙撃し、江口健治ら幹部6人が逮捕された。

  ⑥、石井組長襲撃事件

   ・昭和53年(1978)10月、尼崎市で松田組瀬田組石井組組長を、山口組藤原会と玉地組による混成チームが襲撃した。石井組長は事務所に逃げたが、逃げ遅れた組員1人が射殺された。

  ⑦、柴田組長射殺事件

   ・昭和53年(1978)10月24日、大阪市西成区のアパートで、大日本正義団の舎弟・柴田勝が、山口組溝橋組勝野組の副組長・松崎喜代美によって射殺された。大阪戦争が終わりかけていた時期、勝野組組長・勝野重信が手柄を上げようと焦っていた所、副組長の松崎が自ら名乗り出てヒットマン役を引き受けたものであった。射殺された柴田とヒットマンの松崎は博奕仲間であった。

 (5)、抗争終結

  ・昭和53年(1978)11月1日、山口組はマスコミを前に若頭・山本健一、若頭補佐兼本部長・小田秀臣、若頭補佐・山本広が大阪戦争の終結宣言を読み上げた。松田組と手打ちをすることもなく、一方的に山口組側が終結としてしまったのである。



3、映像

 ・実録 絶縁状

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)


ヤクザ抗争史 横浜事件

1、抗争

 昭和38年 神奈川県 山口組vs錦政会(現稲川会)

2、山口組の横浜進出

 (1)、山口組の横浜進出

  ・山口組は関東進出の足掛かりとして横浜への進出を計画した。横浜は、戦後熱海で利権を得て、静岡、神奈川、東京と勢力を拡大していった錦政会(現稲川会)の縄張りであった。

 (2)、井志組・菅谷組・益田組の進出

  ①、はじまり

   ・昭和35年に山口組井志組の金刺虎助が横浜でポン引きを始めた。これが順調であったので、その後続々と山口組系組織が横浜に進出してきた。

  ②、続々と進出

   ・昭和36年12月、山口組菅谷組が「菅谷興業横浜支部」の看板をあげた。昭和37年2月には日本国粋会元横浜支部長・末次正宏を井志繁雄が養子とする形で、井志組が横浜支部を設けた。さらに、昭和37年6月には山口組関東進出の切り札として益田佳於率いる益田組が35人の配下とともに進出し、食堂兼仕出し業「丸三食品」を開店した。

3、児玉誉士夫の「東亜同友会」構想

 (1)、児玉誉士夫の「東亜同友会」構想

  ・児玉誉士夫は昭和37年夏ころから、全国の博徒を大同団結させ自己の統率下に置き、反共のための右翼行動隊を作ろうという「東亜同友会」構想を持つ。

 (2)、田岡一雄と町田久之が兄弟分となる

  ①、児玉の計画

   ・児玉は田岡を引き入れるために、児玉と同じく日本プロレス興業の役員を務め緊密に連帯をしていた東声会会長・町田久之と田岡を、田岡を兄、町田を弟とする兄弟分の縁組を結ぼうと計画した。田岡も当時1400人の構成員を持っていた東声会を組み入れることができるし、日本プロレスの興行権をも確保できることから、この計画を受け入れた。

  ②、田岡と町田の結縁式

   ・昭和38年2月、田岡と町田が結縁式が神戸の料亭で執り行われた。この式場には、鶴政会会長・稲川角二をはじめ阿部重作、関根賢、磧上義光、波木量次郎など錚々たる関東の親分衆も出席した。

  ③、「東亜同友会」の関西発起人会

   ・児玉はこれ以前に、「東亜同友会」の発起人会を関東地区や中京地区で開催していた。よって、田岡と町田の結縁式の機会を利用して、結縁式終了後に京都の都ホテルで関西発起人会を開催することとした。この会には関西の錚々たる親分衆が参加したが、山口組と対立している本多会や京都の篠原組などは参加を見送った。

4、グランド・パレス事件

 (1)、グランド・パレス事件

  ・昭和38年3月、横浜にあるサパークラブ「グランド・パレス」で、井志組横浜支部長・堀江精一ら2人と錦政会大幹部・林喜一郎ら5人が喧嘩をした。堀江は林が帰るのを狙って襲撃しようと考え、井志組横浜支部に電話を入れて日本刀を持たせた20人の組員でグランド・パレスを包囲させた。しかし、異様な事態に通行人が警察に通報し、堀江らは凶器準備集合罪で一斉に逮捕された。

 (2)、稲川の激怒

  ・稲川は、私淑する児玉が「関東同友会」構想を推し進めている最中であったので、気を使って山口組の横浜進出には見て見ぬふりをしていた。しかし、この事件に激怒し、東亜同友会を脱退し山口組の横浜進出に備えることとした。

 (3)、児玉の仲裁

  ・稲川の脱退に驚いた児玉は仲裁役を買って出た。和解条件は、「襲撃事件に関与した全員を除名する」「井志繁雄は指をつめる」「横浜在住の組員は10人以下とする」と山口組に厳しいものであったが田岡は受け入れ、山口組は横浜から一時撤退をした。
 
5、山口組の麻薬追放運動

 (1)、「麻薬追放国土浄化同盟」の結成

  ・昭和38年4月、田岡は田中清玄と組み、立教大学総長・松下正寿を責任者にたて、麻薬審議会会長・菅原通斉、参議院議員・市川房枝、作家・平林たい子など著名人の賛同を得て、「麻薬追放国土浄化同盟」を結成した。この結成大会を横浜で行われ、同盟の横浜支部長には益田佳於が就任した。つまり、これは実質的な横浜における益田組の組事務所の開設であった。

 (2)、稲川の激怒

  ・稲川はこれを和解条項違反であるとして激怒し、児玉誉士夫、阿部重作、関根賢、波木量次郎ら関東の親分衆立会いのもとで、田岡を詰問した。田岡は、「横浜から麻薬を追放したらいつでも山口組は神戸に引き上げる」と答えた。

6、反山口組連合の集結

 (1)、横浜総会の結成

  ・稲川は児玉は頼りにならず、田岡の山口組の関東進出の意向は変わらないとみて、住吉会や松葉会などと連携をはかり、傘下の各団体から腕力と胆力に優れた鉄砲玉をえりすぐり、反山口組連合戦線ともいえる横浜総会を立ち上げた。

 (2)、関東会の結成

  ①、「関東会」構想
 
   ・関東の親分衆は、山口組の関東進出を抗争をせずに阻止するために、右翼を標榜する連合組織「関東会」の結成を計画した。関東のヤクザ組織が結集すれば山口組の牽制にもなるし、右翼団体を標榜すれば警察権力との対立も緩和できると考えたことによる。

  ②、結成式

   ・昭和38年12月、熱海つるやホテルに錦政会、松葉会、住吉会、日本国粋会、義人党、北星会、東声会の各代表に、児玉、白井為雄、中村武彦などの右翼の巨頭を結集して、関東会の結成式が執り行われた。初代理事長には松葉会の藤田卯一郎が選ばれた。ただし、田岡と兄弟分の町田率いる東声会も参加したことから、反山口組色は多少薄れたものとなった。

  ③、田中清玄襲撃事件

   ・関東会結成の直前、東声会の木村睦男が田中清玄を銃撃して重症を負わせる事件が起こった。木村は、東声会が山口組の関東進出を手引きしたという誤解を、田岡と結ぶ田中清玄を殺すことで晴らしたかったのが動機であるとした。東声会会長の町田は指を詰めた上で田岡に謝罪をした。

 (3)、本多会等関西のヤクザ組織と関東のヤクザ組織の連帯

  ・昭和39年5月、本多会二代目会長・平田勝市と松葉会会長・藤田卯一郎が兄弟分の結縁を結んだ。さらに、同年11月には、平田と藤田に加えて、大阪藤原会の藤原秋夫、大阪直島義勇会の山田祐作、京都中島会の図越利一、名古屋稲葉地会の上条義夫、静岡中泉一家の播磨福策らが互いに五分の兄弟分盃を交わし、反山口組連盟が結成された。

7、山口組の対抗

 ・反山口組でヤクザ組織が集結するのに対して田岡は、昭和38年7月、菅谷政雄と酒梅組組長・中納幸男に兄弟分盃を交わさせ、さらに翌39年12月には地道行雄と日本国粋会会長・森田政治が結縁を結んだ。

8、第一次頂上作戦

 (1)、第一次頂上作戦

  ・昭和39年3月、警視庁は第一次頂上作戦の一環として、山口組、本多会、山口組系柳川組、稲川会、松葉会、住吉会、日本国粋会、東声会、義人党、北星会の10団体を広域暴力団と指定して取り締まりを強化した。

 (2)、反山口組連合の総崩れ

  ・この取り締まりの中で昭和40年1月に関東会が、同年3月には北星会、錦政会が、同年4月には本多会が、同年5月には住吉会が、同年9月には松葉会が、同年12月は日本国粋会が、翌昭和41年9月には東声会が解散を発表した。また、昭和44年には山口組系柳川組も解散をしているので、第一次頂上作戦で解散をしなかったのは、山口組と義人党のみであった。

9、和解

 (1)、田岡が倒れる

 ・昭和40年、田岡は全港振総会が催されたホテルの廊下で狭心症と心筋梗塞を併発して倒れ、入院していた。稲川は昭和43年に賭博容疑で懲役3年の実刑に服していたが、出所後に田岡の見舞いに行った。この場で山口組若頭の山本健一と稲川会理事長の石井隆匡が兄弟分盃をかわすことが決まった。この後、山口組の横浜進出を担った山口組若頭補佐・益田佳於と稲川会専務理事・趙春樹も兄弟分盃を交わしている。

 (2)、田岡の葬儀で

  ・昭和56年、田岡は関西労災病院で亡くなった。この田岡の葬儀委員長は稲川が務めた。

9、映像

 ・関東極道連合会

 ・修羅の花道2

   横浜事件から山一抗争まで

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)


ヤクザ抗争史 高松戦争

1、抗争

 昭和37年(1962) 香川県 三代目山口組若林組vs親和会

2、親和会と三代目山口組若林組

 (1)、親和会とは

  ・親和会の前身は北原伝次郎が結成した北原組である。北原は、昭和20年代に本多会会長・本多仁介の舎弟となった。北原が市議会議員となったことから、昭和34年(1959)4月、北原組は娘婿の柴田敏治が継承した。しかし、その柴田も市議選立候補を表明したので、昭和40年(1965)に北原組は解散をした。そして、この北原会の幹部であった細谷勝彦が、北原組の地盤を継承して昭和40年(1965)に結成したのが親和会である。

 (2)、三代目山口組若林組とは

  ・太政官香西支部長であった若林暲が、昭和33年(1958)に、団体等規制令で解散となった旧太政官の組員を集めて結成したのが若林組である。昭和37年(1962)8月には若林が三代目山口組若頭・地道行雄から舎弟盃をうけて地道組に加入した。これが香川への山口組進出となった。昭和39年(1964)には三代目山口組組長・田岡一雄から親子盃をうけて直参に昇格した。

3、抗争

 (1)、昭和46年の抗争

  ・昭和46年(1971)7月、若林組副組長と親和会組員がクラブで些細なことで喧嘩となり、双方に助っ人が駆け付けて大乱闘となった。親和会幹事長・篠浦茂夫が若林組副組長を刺殺し大抗争となった。

 (2)、高松抗争

  ①、原因

   ・昭和57年(1982)、親和会幹部・竹内寛と若林組若頭が車の接触を原因として乱闘となった。話し合いの最中に若林組事務所に向かって発砲をし逃走した。若林組副会長の断りによっていったんは収まるも、抗争は激化していった。

  ②、抗争の拡大

   ・喫茶店における親和会組員と若林組組員の喧嘩口論に端を発し、竹内らが若林組事務所前で組員に発砲をした。さらに竹内らはパトカーがいなくなった後再び相手事務所の玄関の扉を破り、中にいた数名に発砲をし、若林組若頭を射殺、同組員に重傷を負わせた。

   ・この事件の4ヶ月後、竹内らの裁判を傍聴していた親和会組員を、待ち伏せをしていた若林組組員2人が襲撃し、親和会組員2名が重傷を負った。

  ③、和解

   ・阪神懇親会の仲裁によって和解が成立した。

 (3)、新高松抗争

  ①、親和会幹事長射殺事件

   ・昭和59年(1984)5月15日、三代目山口組小田秀組四代目中津川組幹部らに親和会幹事長・篠浦茂夫が射殺された。

  ②、四代目中津川組幹部射殺事件

   ・昭和59年(1984)5月26日、親和会幹部・西村辰也と同会組員・吉良博文が、四代目中津川組幹部2人を射殺した。

  ③、手打ち

   ・この時は、四代目砂子川組組長・山本英貴、二代目大日本平和会副会長・山中武夫の仲裁によって、手打ちが成立した。

4、その後

 (1)、その後

  ・親和会は、新高松抗争で2人を射殺し、懲役18年を満期で務め上げた吉良博文が、平成17年(2005)に二代目を継承した。他方、若林組も若林暲が平成14年(2002)に引退して、高松戦争で活躍した篠原重則が二代目を継承した。

 (2)、山口組と親和会の平和共存

  ・平成19年(2007)、吉良は、六代目山口組幹部・光安克明と、五分の兄弟盃を交わした。この盃儀式は、山口組総本部で行われ、双方の最高幹部だけでなく、五社会加盟のトップ・最高幹部も列席した。

<参考文献>

 『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)
 「実録・ドキュメント893 伝説の親分 細谷勝彦 初代高松親和会会長」

ヤクザ抗争史 大和郡山事件

1、抗争

 昭和36年 奈良県 山口組柳川組vs土井熊組服部組

2、昭和30年代初頭の奈良

 ・昭和30年代初頭の奈良は、倭奈良会、互久楽会、土井熊組など大阪組織の植民地であった。

3、経過

 (1)、山口組柳川組の奈良進出

  ①、奈良県内でプロレス興行をやる

   ・昭和36年5月、柳川組組長・柳川次郎は兄弟分として付き合っている力道山をよんで、近鉄あやめが池遊園地でプロレス興行を行った。当時の力道山人気はものすごいもので、約1万人が会場に集まり、柳川組の名は奈良県一帯に知れ渡った。

  ②、右翼団体「大義同志会」結成

   ・昭和36年に、柳川次郎は右翼団体「大義同志会」を結成して、その本部を奈良県奈良市においた。会長は別の人を置き、柳川自身は顧問に座ったがこれはあくまでも表向きであり、実質的には谷川康太郎率いる「大義同志会全国行動隊」が実働部隊であった。奈良県に事実上柳川組の看板をあげたことになる。

  ③、奈良県下のヤクザ組織を強引に傘下におさめる

   ・大義同志会は奈良県下のヤクザ組織の組長宛に「貴下を大義同志会○○支部長に命ず」という辞令を送りつけた。ほとんどの奈良県下のヤクザ組織は大義同志会に加わり、会費を柳川組に納入するようになる。しかし、これに反発したのが大和郡山に本拠地をもつ服部組組長・喜多久一であった。

 (2)、柳川組の服部組潰し

  ①、服部組組員と柳川組組員の喧嘩

   ・昭和36年6月7日、大和郡山市内の寿司屋で服部組組員と柳川組組員とが喧嘩し、柳川組組員はヤカンの熱湯をかけられてヤケドをおう。柳川組はこの絶好の機会に治療費と見舞金含めて50万円(現在でいう1000万円)を要求した。服部組側は40万は現金ではらい、残りの10万円は競輪の八百長で成功した分で払うという条件で手打ちとなる。

  ②、服部組組員が柳川組組員を誤射する

   ・服部組は八百長で失敗して資金のめどが立たなくなってしまう。昭和36年6月27日、柳川組組員がこの問題で服部組事務所を訪れようとしたところ、殴りこみと勘違いした服部組組員がこの柳川組組員を誤射してしまい、2人に重傷をおわせてしまう。

  ③、喜多久一組長刺殺事件

   ・このトラブルは倭奈良会会長・石田郁三の仲裁でいちおう話がついたが、柳川組は収まらなかった。昭和36年7月4日、銭湯から出てきた喜多久一が柳川組行動隊の福島末博ら3人に刺殺されて死亡する。これにより、服部組は崩壊した。

4、影響

 ・柳川組のほか、地道組、益田組、小西一家、白神組、坂井組、一心会など山口組系組織が奈良へどんどん進出していった。

3、映像
 
 ・実録 柳川組

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)

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