1、抗争
昭和59年 北海道 一和会加茂田組花田組vs稲川会稲川一家岸本組星川組
2、人物
(1)、星川組組長・星川濠希
・星川濠希は北海道赤平市に生まれた。少年時代から喧嘩三昧で少年院を出入りしていたが、20歳で北見に出て、寄居関保連合の親分の若い衆となった。しかし、昭和56年(1981)にその親分が関保連合を破門され、星川自身も宙に浮いた存在となってしまった。そんな時に、稲川会稲川一家岸本組組長・岸本卓也と出会い、盃を交わして、北見に稲川会に看板を掲げた。
(2)、花田組組長・花田章
・花田章は、昭和3年(1928)の青森生まれた。戦時中は海軍に入り、復員後に北見で愚連隊をやり、のちに北見で一家を構える奥州金子一家に入った。やがて花田は奥州金子一家の四代目を継承するが、昭和50年(1975)に三代目山口組加茂田組組長・加茂田重政の舎弟になったのを機に、その座を降りた。昭和59年(1984)の山一抗争時には、加茂田に従って一和会へ移った。花田は加茂田組舎弟頭補佐の地位にあり、当時の花田組は、北見、札幌などに構成員350人を擁する大組織であった。
3、経過
(1)、花田章組長射殺事件
①、直接の原因
・星川組と花田組はシノギをめぐってイザコザが頻発するようになった。直接の原因となったのは、昭和59年(1984)7月30日、北見市内の飲み屋で、星川組組員が北見職安を舞台に起こした「雇用保険訴訟事件」について、花田が星川を「ヤクザのやることじゃない」と激しく面罵した事件であった。これにより星川組の組員は、親分が恥をかかされたと受け取った。
②、経過
・昭和59年(1984)8月1日、北見市のスーパーから買い物をすませて駐車場へ戻ってき花田が、星川組組員に射殺される。当時は山口組と一和会が抗争をしており、稲川会は山口組と親戚関係であったことから、一和会対稲川会の抗争になるのではないかと警察は警戒した。
(2)、関東二十日会により仲介
①、意義
・稲川会が加入している関東二十日会は抗争防止に動いた。また、一和会側も山口組との抗争中であることから稲川会を敵にまわすのはまずいので、一和会会長・山本広が加茂田重政を説得した。これにより、関東二十日会の当番組織であった日本国粋会総長・八木沢由雄と松葉会会長・中村益也が仲介をして、小樽のホテルで手打式が行われた。
②、手打ちの問題点
ア)、山口組の不満
・山口組は一和会と抗争中であった。山口組はそもそも一和会をヤクザとしては認めておらず、それなのに親戚団体の稲川会が一和会相手に、その組織を公認するに等しい手打ちを行ったことが不満であった。
イ)、花田組の不満
・一和会が報復もせずにこの手打ちを受け入れたのは、手打ちによって山口組の親戚団体である稲川会が一和会の存在を公認したこととなるからであった。しかし、花田組組員にとっては、組長の命を奪われたにも関わらず、返しなしで「五分と五分」の手打ちは受け入れがたかった。
(3)、星川濠希組長射殺事件
①、意義
・花田章組長射殺事件における手打ちの条件に不満を持った花田組組員らは、昭和59年(1984)11月19日、北見市のキャバレーで星川を射殺した。享年40歳。しかし、これは明らかな手打ち破りであり、仲裁になった松葉会や日本国粋会のメンツを潰したばかりでなく、一和会と稲川会の抗争が再燃するかもしれないこととなった。
②、抗争の拡大
・昭和59年(1984)12月、星川組の組員が花田組傘下の組員を襲い、1人死亡1人に重傷を負わせた。
(4)、再び手打ち式を開く
・一和会幹事長・佐々木将雄と前回の仲裁役であった日本国粋会常任相談役・八木沢由雄が兄弟分であったので、このパイプを通して佐々木が誠意を尽くし、昭和61年(1986)11月15日に再び手打ちが成立した。花田組は丹羽勝治が二代目を継承し、星川組も二代目体制へと移行した。
(5)、丹羽勝治組長射殺事件
①、竹中正久の墓前での殺人事件
・昭和61年(1986)2月27日、姫路市の竹中正久の墓前で、山口組系竹中組内柴田会の若手組員二人が墓の掃除をしようとしていた所、近くの墓石に隠れていた花田組組員に射殺された。
②、丹羽勝治組長射殺事件
・昭和63年(1988)4月111日、札幌市内で丹羽は山口組系弘道会傘下のヒットマンに射殺された。この後、加茂田組は弘道会への報復を計画した。しかし、加茂田重政の引退によって、結局は返しは行わなかった。
4、その後
(1)、花田組
・花田組は後に花田会と改称して、初代花田章の舎弟であった橋本功が会長となった。上部団体の加茂田組が解散したことから、山口組系二代目山健組内二代目健竜会北竜会傘下となった。さらに、平成27年(2015)には六代目山口組系茶谷政一家に移籍をした。
(2)、星川組
・星川組は、北見市唯一のヤクザであったが、平成29年(2017)11月、警察に解散届を提出した。全盛期は100人ほどいた組員も、解散時は4人であった。
4、映像
(1)、実録 手打ち破り
・橋爪会(モデルは花田会)の視点からみた北見抗争です。基本的に史実に忠実ですが、最後は劇的に終わっています。
長峰康平 本宮泰風
江畑祐市 小沢仁志
橋爪勝治(モデルは花田章) 岡崎二朗
都築猛雄(モデルは星川濠希) 小沢和義
(2)、実録・北海道やくざ戦争 北海の挽歌
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)
『ヤクザの死に様』(山平重樹、幻冬舎、2006)
昭和59年 北海道 一和会加茂田組花田組vs稲川会稲川一家岸本組星川組
2、人物
(1)、星川組組長・星川濠希
・星川濠希は北海道赤平市に生まれた。少年時代から喧嘩三昧で少年院を出入りしていたが、20歳で北見に出て、寄居関保連合の親分の若い衆となった。しかし、昭和56年(1981)にその親分が関保連合を破門され、星川自身も宙に浮いた存在となってしまった。そんな時に、稲川会稲川一家岸本組組長・岸本卓也と出会い、盃を交わして、北見に稲川会に看板を掲げた。
(2)、花田組組長・花田章
・花田章は、昭和3年(1928)の青森生まれた。戦時中は海軍に入り、復員後に北見で愚連隊をやり、のちに北見で一家を構える奥州金子一家に入った。やがて花田は奥州金子一家の四代目を継承するが、昭和50年(1975)に三代目山口組加茂田組組長・加茂田重政の舎弟になったのを機に、その座を降りた。昭和59年(1984)の山一抗争時には、加茂田に従って一和会へ移った。花田は加茂田組舎弟頭補佐の地位にあり、当時の花田組は、北見、札幌などに構成員350人を擁する大組織であった。
3、経過
(1)、花田章組長射殺事件
①、直接の原因
・星川組と花田組はシノギをめぐってイザコザが頻発するようになった。直接の原因となったのは、昭和59年(1984)7月30日、北見市内の飲み屋で、星川組組員が北見職安を舞台に起こした「雇用保険訴訟事件」について、花田が星川を「ヤクザのやることじゃない」と激しく面罵した事件であった。これにより星川組の組員は、親分が恥をかかされたと受け取った。
②、経過
・昭和59年(1984)8月1日、北見市のスーパーから買い物をすませて駐車場へ戻ってき花田が、星川組組員に射殺される。当時は山口組と一和会が抗争をしており、稲川会は山口組と親戚関係であったことから、一和会対稲川会の抗争になるのではないかと警察は警戒した。
(2)、関東二十日会により仲介
①、意義
・稲川会が加入している関東二十日会は抗争防止に動いた。また、一和会側も山口組との抗争中であることから稲川会を敵にまわすのはまずいので、一和会会長・山本広が加茂田重政を説得した。これにより、関東二十日会の当番組織であった日本国粋会総長・八木沢由雄と松葉会会長・中村益也が仲介をして、小樽のホテルで手打式が行われた。
②、手打ちの問題点
ア)、山口組の不満
・山口組は一和会と抗争中であった。山口組はそもそも一和会をヤクザとしては認めておらず、それなのに親戚団体の稲川会が一和会相手に、その組織を公認するに等しい手打ちを行ったことが不満であった。
イ)、花田組の不満
・一和会が報復もせずにこの手打ちを受け入れたのは、手打ちによって山口組の親戚団体である稲川会が一和会の存在を公認したこととなるからであった。しかし、花田組組員にとっては、組長の命を奪われたにも関わらず、返しなしで「五分と五分」の手打ちは受け入れがたかった。
(3)、星川濠希組長射殺事件
①、意義
・花田章組長射殺事件における手打ちの条件に不満を持った花田組組員らは、昭和59年(1984)11月19日、北見市のキャバレーで星川を射殺した。享年40歳。しかし、これは明らかな手打ち破りであり、仲裁になった松葉会や日本国粋会のメンツを潰したばかりでなく、一和会と稲川会の抗争が再燃するかもしれないこととなった。
②、抗争の拡大
・昭和59年(1984)12月、星川組の組員が花田組傘下の組員を襲い、1人死亡1人に重傷を負わせた。
(4)、再び手打ち式を開く
・一和会幹事長・佐々木将雄と前回の仲裁役であった日本国粋会常任相談役・八木沢由雄が兄弟分であったので、このパイプを通して佐々木が誠意を尽くし、昭和61年(1986)11月15日に再び手打ちが成立した。花田組は丹羽勝治が二代目を継承し、星川組も二代目体制へと移行した。
(5)、丹羽勝治組長射殺事件
①、竹中正久の墓前での殺人事件
・昭和61年(1986)2月27日、姫路市の竹中正久の墓前で、山口組系竹中組内柴田会の若手組員二人が墓の掃除をしようとしていた所、近くの墓石に隠れていた花田組組員に射殺された。
②、丹羽勝治組長射殺事件
・昭和63年(1988)4月111日、札幌市内で丹羽は山口組系弘道会傘下のヒットマンに射殺された。この後、加茂田組は弘道会への報復を計画した。しかし、加茂田重政の引退によって、結局は返しは行わなかった。
4、その後
(1)、花田組
・花田組は後に花田会と改称して、初代花田章の舎弟であった橋本功が会長となった。上部団体の加茂田組が解散したことから、山口組系二代目山健組内二代目健竜会北竜会傘下となった。さらに、平成27年(2015)には六代目山口組系茶谷政一家に移籍をした。
(2)、星川組
・星川組は、北見市唯一のヤクザであったが、平成29年(2017)11月、警察に解散届を提出した。全盛期は100人ほどいた組員も、解散時は4人であった。
4、映像
(1)、実録 手打ち破り
・橋爪会(モデルは花田会)の視点からみた北見抗争です。基本的に史実に忠実ですが、最後は劇的に終わっています。
長峰康平 本宮泰風
江畑祐市 小沢仁志
橋爪勝治(モデルは花田章) 岡崎二朗
都築猛雄(モデルは星川濠希) 小沢和義
(2)、実録・北海道やくざ戦争 北海の挽歌
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)
『ヤクザの死に様』(山平重樹、幻冬舎、2006)