稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

2016年03月

日本部落史(6) 部落起源論 中世起源説 穢多

1、意義

 ・中世で賎視されていた人々がのちの部落民になった、という説である。ただし、すべての部落が中世に成立したわけではないので、中世からの連続のみで説明できるわけではない。

2、中世の賎民

 (1)、中世身分制の特徴

  ①、中世身分制は、古代律令制的身分制度のように全国的規模で法制的に規定されたものではない。よって、天皇・皇族、公家、有力武家・寺家・社家などを除けば、流動的であった。

  ②、中世身分制は、全国的・単一的なものではなく、その系列も多様であった。

   ア)、村落(住人ー間人(もうと)ー乞食)

   イ)、荘園・公領(本家・領家ー荘官ー本百姓ー小百姓ー下人)

   ウ)、権門の家産的支配秩序(武家の幕府の場合は別当ー執事ー奉行ー御家人ー雑色)

   エ)、国家体制(貴種ー司・侍・官人ー凡下ー穢多)

 (2)、中世の賎民

  ①、穢多(その他、餌取、細工、河原人(者)、横行、清目、かわた)

  ②、非人(その他、犬神人)

  ③、散所(その他、庭払い、庭掃、横行)

  ④、主要3つの賎民以外にも、「獄囚」・「放免(釈放された囚人で検非違使庁の最下級の職についていた)」・「濫僧」などがいた。

3、穢多とは

 (1)、意義

  ・13世紀後半に成立した『塵袋』によると、エタとは、①清めにかかわり、②「餌取」に由来し、③屠者(屠畜業者)であって、④人との交際を断たれている状態であって、⑤「「天竺ニ旃陀羅ト云フハ屠者也、イキ物を殺テウルエタ躰ノ悪人也」と悪人視されていることがわかる。さらに、13世紀末の作とされる『天狗草紙』には、エタが皮を干している場面があるので、エタは皮革業にも従事していたことがわかる。

 (2)、地域性

  ・中世においては、屠畜・皮革業者に対する主としてケガレ観に基づく差別は、天皇・皇族・王朝貴族が住んでいた奈良・京都およぼその周辺に限られており、地方においては屠畜・皮革業者が存在していた事は史料から確認できるが、彼らが差別されていたということは史料上から確認できない。

4、差別の始まり

 (1)、縄文・弥生時代

  ・縄文人は、鹿やイノシシを好み、兎・狐・狼・狸・カワウソ・ムササビ・猿を食べていた。弥生時代になると大陸から稲作文化とともに家畜の文化が伝えられた。

 (2)、古墳・飛鳥時代

  ①、屠畜

   ・天武天皇4年(675)、4月から9月までは牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはいけないという肉食禁止令が出された。また、猪の肉や脂を進貢する「猪名部・猪飼部」や、牛馬の解体に従事した「牧子」が存在していた。

  ②、皮革

   ・西暦700年頃の奈良県藤ノ木古墳から鹿革の細工が出土しているので、この頃には牛・馬・猪・鹿などの皮革は存在していた。また、5世紀末くらいに高句麗から製革技師を招いたり、大化の改新の時には、百済の「手部(てひと)」や高句麗の「狛部(こまべ)」を大蔵省内蔵寮において製革に従事させていた。官牧の牛馬が死ねば「牧子」が皮剥ぎを行った。

   ・馬飼雑戸・狛戸・百済戸など専門的な皮革業者は全国各地に存在しており、彼らが弊牛馬の処理にあたり、馬皮・馬革・牛皮・牛革・鹿皮・鹿革が税として納められていた。

 (3)、奈良・平安時代

  ・奈良時代頃から、屠畜・皮革業が「人の恥ずべき所」とみなされるようになり、平安時代に入って、弘仁11年(820)成立の弘仁式や延長5年(927)成立の延喜式など触穢規定が法定され、屠畜・皮革業が差別の対象となっていった。

5、中世前期の穢多

 (1)、京都

  ・『左経記』という史料の長和5年(1016)の条に、鴨川の河原あたりに住んでいたと思われる「河原人」が死牛の皮を剝いでいたこと、牛黄(ごおう、牛の腸などに生じる結石で高貴薬とされた)を見つけて取り出していたことの記録がある。

  ・承暦4年(1080)に、検非違使の下文によって醍醐寺に2名の餌取が寄付されたという記録がある。ここから、餌取は屠畜・皮革業だけではなく、清めとして清掃を担い、また草履を上納していたことがわかる。

 (2)、奈良

  ・文永2年(1265)、関白一条実経が春日社に参詣するので興福寺寺中およびその周辺を清掃することになったとき、「横行」と「細工」がそこにある墓地の清掃をさせられた。

  ・延慶3年(1310)、法隆寺北東の極楽寺で、「カセヒ野ノ細工」が捕らえられた盗賊を断頭したという記録があるので、細工は行刑役を担っていた事がわかる。

 (3)、その他の地域

  ・穢多集団は京都・奈良およびその周辺に限定された。

6、中世後期の穢多

 (1)、京都

  ①、意義

   ・中世後期の穢多は、中世前期以来の屠畜・皮革業の他に、①箒や草履の製造、②造園業・井戸掘り、③犬追物に使う犬の捕獲、④農業、⑤飛脚、⑥馬医、⑦警備員、⑧刑の執行をしていた。

  ②、造園業

   ・八代将軍足利義政に寵愛され、室町御所の造園造りにかかわった善阿弥、慈照寺銀閣の庭造りにかかわったその子と孫の又四郎などが有名である。その又四郎は「某、一心に屠家に生まるるを悲しむ」と語っていたという。

  ③、警備員

   ・嘉吉の乱で敗れ切腹した赤松満祐の首を室町幕府侍所随兵とともに河原者1000人が警固したり、斬首されることになった罪人の守護に河原者数百人があたったなどの記事がある。

  ④、刑の執行

   ・律令制下で刑の執行、は「市」において物部によってなされていたが、11世紀頃から「河原」で検非違使によってなされるようになり、しだいに河原者(清目)によってなされるようになっていった。

 (2)、奈良

  ・中世後期の穢多は、中世前期以来の屠畜・皮革業の他に、①草履の製造、②造園業、③農業、④犬狩り、⑤馬医をしていた。

 (3)、その他の地域

  ・穢多集団は京都・奈良およびその周辺に限定されたが、鎌倉鶴岡八幡宮の日誌の応永2年(1395)に「犬神人」の記載があり、これが関東で最も早い中世賎民の記事である。なお、京都の「犬神人」は宿非人であるが、鎌倉の「犬神人」は牛馬の皮を担っていたことから穢多であった。

7、戦国時代

 (1)、意義

  ・戦国大名にとっては、武具・馬具の材料として大量の皮革が不可欠であった。そのため、東日本(東海・関東・甲信越地方)の戦国大名は皮革業者を「職人」として認識し、組織化して上納させていた。他方、近畿地方では皮造りが広く進展しており、織田信長や豊臣秀吉は直接皮革業者を組織化して掌握するのではなく、商人とその町を掌握し、商業ルートによって皮革が調達されていた。

 (2)、東日本

  ・大永6年(1526)、駿河国の今川氏親が、駿河国府中のかわた彦八に新屋敷を安堵するかわりに毎年皮革を上納するように命じた。

  ・天文7年(1538)、小田原の後北条氏は、伊豆国長岡のかわた九郎右衛門に対して、皮革をきっちり仕上げよと命じた。また、永禄8年(1565)には、皮作中に対して、皮剥ぎでない者が皮を剥いだ場合は法に背くので見つけ次第取り上げて、とやかく言うのであれば報告せよと命じた。

  ・天正19年(1591)、甲斐国の武田氏も、かわた組織を形成した。

 (3)、四国中国地方

  ・16世紀末頃までに、毛利氏はかわた組織を編成して、給分を与える代わりに皮革を上納させていた。

  ・天正から慶長にかけて、土佐の長宗我部氏は「坂之者」と称するかわた組織を編成した。

<参考文献>

『入門被差別部落の歴史』(解放出版社、寺木伸明・黒川みどり、2016)


日本部落史(5) 部落起源論 古代 宗教・職業起源説

1、意義

 ・宗教的に忌避されていた職業(葬送業や屠畜・皮革業)に就いた人々が部落民となった、という説である。しかし、武士は人を殺傷し、漁師や猟師も殺傷をしているが差別されていないし、死や血の穢を忌む神前に、獣や魚鳥などを供えることは見られるから、この考えと矛盾する面もある。よって、宗教は差別を生み出した一要因と考えるのが妥当である。

2、ケガレ観念とは?

 (1)、ケガレ観念とは

  ・ケガレ観念とは、本来的には、斎ごもりを行い清浄な環境の中で神を迎え、食国(おすくに)の政を報告し食(け)を奉る祭のときに、「不浄な物」に触れることで神の怒りを買い、食国の政が損なわれること、すなわち「食(け)」あるいは作物の「毛」が枯れることが穢れである。

 (2)、「不浄な物」とは

  ・神が憎む「不浄な物」とは、人や動物の死体、埋葬、改葬、流産、出血、月経、懐妊、出産、病気、肉食、失火などがあった。

3、差別の発生

 (1)、触穢規定の成立

  ・弘仁11年(820)成立の弘仁式や延長5年(927)成立の延喜式に穢の規定がある。人の死は30日、出産は7日、六畜(牛・馬・羊・鶏・犬・豚)の死は5日、出産は3日、肉食は3日と穢に触れて忌むべき日数が決められた。

 (2)、差別の発生

  ・この規定から、人の死については葬送業者に対する職業差別が、出産については女性差別が、動物の死については屠畜・皮革業者への職業差別が生まれた。

 (3)、思想的背景

  ①、『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』

   ・奈良時代に日本にもたらされた『陀羅尼集経』の中には、死体や婦人の出産、六畜の出産(血)を見る事が穢れであると規定されており、この経典はたびたび書写されて広く知られていた。

  ②、『妙法蓮華経(法華経)』

   ・『妙法蓮華経』の中には、僧侶は旃陀羅(せんだら、インド古代におけるカースト制度の下の最下層身分)、家畜業者、狩人、漁師などの人々と親しく接してはいけないと書かれていた。

     cf.なお、日蓮宗の開祖日蓮は、自らを旋陀羅だとしていた。よって、日蓮宗では部落民に対する差別がほとんどみられないという。

 (4)、差別の地域性

  ・葬送業や屠畜・皮革業への差別は、①「弘仁式」や「延喜式」などのケガレ規定、②『陀羅尼集経』などの経典、③神社の物忌み規定の影響が強い。よって、これらの影響が弱い地域、例えば北海道や琉球においては、これらの職業の人達に対する差別意識も弱い。

<参考文献>

『入門被差別部落の歴史』(解放出版社、寺木伸明・黒川みどり、2016)


日本部落史(4) 部落起源論 古代 戦争捕虜説

1、意義

 (1)、意義

  ・部落民は、大和朝廷と戦った蝦夷、神功皇后や豊臣秀吉の朝鮮出兵などの捕虜の子孫である、という説である。

 (2)、内容

  ①、蝦夷の俘囚説

   ・日本武尊の征伐で征伐された捕虜の子孫であるや、出羽の俘囚の子孫であるという説である。

  ②、三韓征伐の時の捕虜説

   ・神皇皇后の三韓征伐のときの朝鮮人の捕虜であるという説である。しかし、神宮皇后の事績は根拠がない。

  ③、豊臣秀吉の朝鮮出兵の捕虜説

   ・豊臣秀吉による朝鮮出兵のときの朝鮮人の捕虜であるという説である。しかし、秀吉軍によって連行された人は、陶芸家として優遇されたり、士分として扱われたりしていた。

2、蝦夷の俘囚

 (1)、意義

  ・古代律令制国家は、内部においては「聖なる存在」としての天皇・後続を置き、下に「卑しい存在」としての賎民を置いたが、天皇の支配下の「内国(うちつくに)」を世界の中心とみて「華夏」の地とし、服属しない北方の人々を「蝦夷」と呼び、南方の人々を「南島人」と呼び夷狄視していた。

 (2)、律令制国家の蝦夷討伐

  ・大化3年(647)、東北侵略のために渟足柵を設け、658年以来数度にわたって阿倍比羅夫を遠征させた。その後も断続的に蝦夷討伐を行っていった。

 (3)、蝦夷の俘囚

  ・蝦夷討伐により制圧された人々で日本各地に集団的に配置された人びとを俘囚と呼ぶ。この俘囚が部落の起源をなすという説がある。しかし、中世以降に俘囚への差別的状況は確認できないので、学問的には成り立たない。

<参考文献>

『入門被差別部落の歴史』(解放出版社、寺木伸明・黒川みどり、2016)

日本部落史(3) 部落起源論 古代 古代賎民制説

1、意義

 ・部落民の起源は、古代の律令制の五色の賎における賎民の子孫である、または、品部・雑戸の子孫である、という説である。しかし、古代賎民制は廃れており、現在の部落民との連続性は考えられない。

2、古代律令制の身分制

 (1)、意義

  ・律令制身分制は、全ての人民を良・賎の二つの身分に大別することを特徴とする。

 (2)、身分の区別の標式=「姓(セイ)」

  ・律令制下において「姓(セイ)」を持たないのは、身分秩序の形成者であり「姓(セイ)」の賜与者としての天皇(および皇族)と賎民だけであり、良民はすべて「姓(セイ)」を持った。ただし、この良民のなかでも、支配階級である貴族・官人層と被支配階級である一般公民層に分かれる。

3、良民

 (1)、意義

  ・律令において良民は、①官人、②公民、③雑色人(ぞうしきじん)がいる。

 (2)、種類

  ①、官人

   ・五位以上の貴族と六位以下で別れる。五位以上の貴族層は位田・位封・位禄・資人などの給付を受ける。また、課役負担はない。六位以下は季禄のみの給付であるが、課役負担はない。

  ②、公民

   ・一般の農民であり、戸籍・計帳に登録され、口分田班給をうけ、租庸調などを負担する。

  ③、雑色人

   ・品部、雑戸(官庁に所属する手工業者)などである。この品部や雑戸には渡来人も多く、彼らが部落民の起源という説もある。

4、賎民

 (1)、意義

   ・律令における賎民は、養老令の規定では、陵戸、官戸、家人、公奴婢(官奴婢)、私奴婢の五種類(五色の賎)がある。この賎民は、それぞれ同一身分内部で婚姻しなければならない(当色婚)。ただし、官戸や家人は当時の史料からは存在しなく、公奴婢や私奴婢は8世紀前半の各地の籍帳による統計によれば、10%にもみたなかった。

 (2)、どういう者が賎民となったのか

  ・何代にもわたって隷属してきた者や犯罪などで没官された奴隷などで構成された。

 (3)、種類

  ①、陵戸

   ・陵墓の守衛と清掃を職務とした。戸の形成が可能で良民なみの口分田が班給されていた。養老令では賎民であるが、大宝令では雑戸の一種としてまだ賎とされていなかった可能性が高い。養老令において陵戸が賎とされたのは、死穢とかかわるからではなく、唐令にならったからである。平安時代以後、墓守をしていることを理由に差別された人たちもいたが、彼らが古代律令制の陵戸の子孫であるのかは分かっていない。

  ②、官戸

   ・官司で雑役に従事した。戸の形成が可能で良民なみの口分田が班給されていた。同じ朝廷直属の官賎である官奴婢よりも身分が上級であり、家族を構成して自家のための再生産を行なうことが認められており、したがって売買されることもなく、また家族全員が同時に使役されることもなかった。

   ・ただし、官戸は唐の官戸・部曲についての規定を参考に机上で案出された賎民身分である可能性が高く、当時の実態的な史料においては全く姿を表さない。

  ③、公奴婢(くぬひ)

   ・官有奴隷。売買の対象となった。ただし、良民なみの口分田は班給されていた。同じ朝廷直属の官賎である官戸よりも身分が下級であり、牛馬と同じく主人の財物としての取り扱いを受けたことになっていたが、実態的な史料においては、家族的結合が認められる。

   ・公奴婢は66歳に達するか廃疾を得た場合には免ぜられて官戸となり、さらに76歳に至れば解放されて良民とされる規定であった。

  ④、家人(けにん)
 
   ・貴族・有力者の世襲的な隷属民。戸の形成が可能ではあるが口分田の班給は良民の3分の1とされていた。同じ私賎である私奴婢よりも身分が上級であり、家族を構成して自家のための再生産を行なうことが認められており、したがって売買されることもなく、また家族全員が同時に使役されることもなかった。

   ・ただし、家人は唐の官戸・部曲についての規定を参考に机上で案出された賎民身分である可能性が高く、当時の実態的な史料においては全く姿を表さない。

  ⑤、私奴婢

   ・私有奴隷。売買の対象となった。また、口分田の班給は良民の3分の1とされていた。同じ私賎である家人よりも身分が下級であり、牛馬と同じく主人の財物としての取り扱いを受けたことになっていたが、実態的な史料においては、家族的結合が認められる。

5、律令制的身分制度の崩壊

 ・奈良時代末から平安時代に入ると荘園制が発展し、公地公民制が崩れていくにしたがい、律令制的身分制度も解体していき、延喜7年(907)に奴婢が停止され、賎民制度も衰退し崩壊していった。

<参考文献>

『律令制とはなにか』(山川出版社、大津透、2013)
『入門被差別部落の歴史』(解放出版社、寺木伸明・黒川みどり、2016)
「律令制」(『日本史大辞典』、執筆は鎌田元一)
「部落の起源」(『日本史大事典』、執筆は脇田修)

日本部落史(2) 部落起源論 古代 人種起源説

1、意義

 ・部落民は、大陸とくに朝鮮半島からの渡来人の子孫である、という説である。確かに、渡来人の子孫という家系も存在するが、しかし、古代において渡来人は、社会的文化的にすぐれた活動をしており、一般的にいって彼らは蔑視されていない。

2、渡来人

 (1)、意義

  ・朝鮮半島は、紀元前1世紀に高句麗が、4世紀には百済と新羅が国家形成を果たした。5世紀後半頃になると、高句麗の勢力が強くなり百済や新羅を圧迫してゆき、これに伴って5世紀後半から6世紀初頭に渡来人が大量に来日した。なお、「帰化人」という言葉もあるが、「帰化」とは大王や天皇の徳を慕って日本にやってきたという意味となり史実と異なる。

 (2)、内容

  ①、意義

   ・5世紀後半から6世紀初頭はヤマト王権が成立しつつあるときで、行政組織が整備される次期にあたり、文化的にも技術的にも高い水準の能力を身に着けていた渡来人は重用された。

  ②、具体例

   ・東漢氏や西文氏は政府の記録・出納・外交文書の作成などを行った。

   ・渡来人の一部は、錦織部・韓鍛冶部・陶部などに属して、各種手工業の発展に尽くした。

   ・国中公麻呂は、東大寺の前身である金光明寺造営の造仏長官となった。

   ・光仁天皇の夫人であり桓武天皇の母親である高野新笠は百済系の渡来人であった。

3、その後の人種起源説

 (1)、江戸時代

  ・江戸時代では荻生徂徠や喜多川守貞が、人種起源説を唱えた。

 (2)、鳥居龍蔵の部落民研究

  ①、意義

   ・明治17年(1884)に、東京人類学会が改称して人類学会が設立された。この文化人類学が、部落民が異人種であるという学説を「科学的」な装いで流布してゆくこととなる。

  ②、鳥居龍蔵の部落民研究

   ・鳥居は徳島県と兵庫県において初の部落民の人類学的調査を行い、「決して普通人に見ざるが如き特別なる形式を具えたるものには之無候」とした上で、骨の形や髭の生え方、目の形などから、マレー諸島・ポリネシヤン島の原住民である「マレヨポリネシヤン」種族に似ており、「蒙古人種」ではないと結論づけた。鳥居の意図は「穢多」も「普通日本人」であることを主張しようとするものであったが、新聞においてはむしろ「蒙古人種」ではなく「マレヨポリネシヤン」種族であり普通の日本人ではないと報道されてしまい、部落民異人種説を流布する結果となった。

 (3)、パリ講和会議における人種差別撤廃要求と部落

  ①、意義

   ・第一次世界大戦後の大正8年(1919)、フランスでパリ講和会議が開かれた。当時の日本は、アメリカ、オーストラリア、カナダで「黄色人種」として移民差別などの差別をうけていたことから、この会議の場において日本政府は人種差別撤廃要求を提出した。

  ②、日本国内における部落差別も問われる

   ・正親町季董(すえただ)は、雑誌『解放』に掲載された「特殊部落より見たる社会」で、部落の人々への差別を内に孕んだまま、人種差別撤兵を声高に叫ぶことの矛盾を指摘した。同じような考え方は、長野県の上高井平等会や埼玉県の北埼公道会においても示された。

4、喜田貞吉による人種起源説批判

 (1)、意義

 ・南北朝正閏問題で文部編修官を処分になったことで有名な歴史家の喜田貞吉は、熱心に部落について研究したことでも知られている。喜田の研究によって部落人種起源説は誤りが指摘され、少なくとも行政においてはこの説をとる言説はなくなった。

 (2)、内容

  ①、人種起源説批判

   ・喜田は、朝鮮を植民地とし、朝鮮人やアイヌ人そして部落民をすべて大日本帝国へ「同化」させようという考え方であった。このような部落民の「同化融合」を阻んでいる原因は、社会が彼らを「賤しいもの」「穢れたるもの」と認識しているからであり、その根底には部落民の人種起源説があると喜田は考えた。そして、「もと「エタ」と呼ばれたものは、現に日本民族と呼ばれているものと、民族上なんら区別あるものではない」として、部落民異人種論の誤りを指摘した。

  ②、融和運動への協力

   ・部落民は異人種ではないということは、部落と部落外の違いは絶対的なものではなく文明化の進展度合いに過ぎないので、改善によってその差を埋めることは可能であるという認識が生まれるようになった。喜田は、大正11年(1920)の水平社創立後は、官制の融和運動団体である中央融和事業協会への協力を惜しまず、全国で差別撤廃のための講演活動を行った。

<参考文献>

『入門被差別部落の歴史』(解放出版社、寺木伸明・黒川みどり、2016)
『近代部落史』(黒川みどり、平凡社、2011)
「部落の起源」(『日本史大事典』、執筆は脇田修)

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