1、意義
・中世で賎視されていた人々がのちの部落民になった、という説である。ただし、すべての部落が中世に成立したわけではないので、中世からの連続のみで説明できるわけではない。
2、中世の賎民
(1)、中世身分制の特徴
①、中世身分制は、古代律令制的身分制度のように全国的規模で法制的に規定されたものではない。よって、天皇・皇族、公家、有力武家・寺家・社家などを除けば、流動的であった。
②、中世身分制は、全国的・単一的なものではなく、その系列も多様であった。
ア)、村落(住人ー間人(もうと)ー乞食)
イ)、荘園・公領(本家・領家ー荘官ー本百姓ー小百姓ー下人)
ウ)、権門の家産的支配秩序(武家の幕府の場合は別当ー執事ー奉行ー御家人ー雑色)
エ)、国家体制(貴種ー司・侍・官人ー凡下ー穢多)
(2)、中世の賎民
①、穢多(その他、餌取、細工、河原人(者)、横行、清目、かわた)
②、非人(その他、犬神人)
③、散所(その他、庭払い、庭掃、横行)
④、主要3つの賎民以外にも、「獄囚」・「放免(釈放された囚人で検非違使庁の最下級の職についていた)」・「濫僧」などがいた。
3、穢多とは
(1)、意義
・13世紀後半に成立した『塵袋』によると、エタとは、①清めにかかわり、②「餌取」に由来し、③屠者(屠畜業者)であって、④人との交際を断たれている状態であって、⑤「「天竺ニ旃陀羅ト云フハ屠者也、イキ物を殺テウルエタ躰ノ悪人也」と悪人視されていることがわかる。さらに、13世紀末の作とされる『天狗草紙』には、エタが皮を干している場面があるので、エタは皮革業にも従事していたことがわかる。
(2)、地域性
・中世においては、屠畜・皮革業者に対する主としてケガレ観に基づく差別は、天皇・皇族・王朝貴族が住んでいた奈良・京都およぼその周辺に限られており、地方においては屠畜・皮革業者が存在していた事は史料から確認できるが、彼らが差別されていたということは史料上から確認できない。
4、差別の始まり
(1)、縄文・弥生時代
・縄文人は、鹿やイノシシを好み、兎・狐・狼・狸・カワウソ・ムササビ・猿を食べていた。弥生時代になると大陸から稲作文化とともに家畜の文化が伝えられた。
(2)、古墳・飛鳥時代
①、屠畜
・天武天皇4年(675)、4月から9月までは牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはいけないという肉食禁止令が出された。また、猪の肉や脂を進貢する「猪名部・猪飼部」や、牛馬の解体に従事した「牧子」が存在していた。
②、皮革
・西暦700年頃の奈良県藤ノ木古墳から鹿革の細工が出土しているので、この頃には牛・馬・猪・鹿などの皮革は存在していた。また、5世紀末くらいに高句麗から製革技師を招いたり、大化の改新の時には、百済の「手部(てひと)」や高句麗の「狛部(こまべ)」を大蔵省内蔵寮において製革に従事させていた。官牧の牛馬が死ねば「牧子」が皮剥ぎを行った。
・馬飼雑戸・狛戸・百済戸など専門的な皮革業者は全国各地に存在しており、彼らが弊牛馬の処理にあたり、馬皮・馬革・牛皮・牛革・鹿皮・鹿革が税として納められていた。
(3)、奈良・平安時代
・奈良時代頃から、屠畜・皮革業が「人の恥ずべき所」とみなされるようになり、平安時代に入って、弘仁11年(820)成立の弘仁式や延長5年(927)成立の延喜式など触穢規定が法定され、屠畜・皮革業が差別の対象となっていった。
5、中世前期の穢多
(1)、京都
・『左経記』という史料の長和5年(1016)の条に、鴨川の河原あたりに住んでいたと思われる「河原人」が死牛の皮を剝いでいたこと、牛黄(ごおう、牛の腸などに生じる結石で高貴薬とされた)を見つけて取り出していたことの記録がある。
・承暦4年(1080)に、検非違使の下文によって醍醐寺に2名の餌取が寄付されたという記録がある。ここから、餌取は屠畜・皮革業だけではなく、清めとして清掃を担い、また草履を上納していたことがわかる。
(2)、奈良
・文永2年(1265)、関白一条実経が春日社に参詣するので興福寺寺中およびその周辺を清掃することになったとき、「横行」と「細工」がそこにある墓地の清掃をさせられた。
・延慶3年(1310)、法隆寺北東の極楽寺で、「カセヒ野ノ細工」が捕らえられた盗賊を断頭したという記録があるので、細工は行刑役を担っていた事がわかる。
(3)、その他の地域
・穢多集団は京都・奈良およびその周辺に限定された。
6、中世後期の穢多
(1)、京都
①、意義
・中世後期の穢多は、中世前期以来の屠畜・皮革業の他に、①箒や草履の製造、②造園業・井戸掘り、③犬追物に使う犬の捕獲、④農業、⑤飛脚、⑥馬医、⑦警備員、⑧刑の執行をしていた。
②、造園業
・八代将軍足利義政に寵愛され、室町御所の造園造りにかかわった善阿弥、慈照寺銀閣の庭造りにかかわったその子と孫の又四郎などが有名である。その又四郎は「某、一心に屠家に生まるるを悲しむ」と語っていたという。
③、警備員
・嘉吉の乱で敗れ切腹した赤松満祐の首を室町幕府侍所随兵とともに河原者1000人が警固したり、斬首されることになった罪人の守護に河原者数百人があたったなどの記事がある。
④、刑の執行
・律令制下で刑の執行、は「市」において物部によってなされていたが、11世紀頃から「河原」で検非違使によってなされるようになり、しだいに河原者(清目)によってなされるようになっていった。
(2)、奈良
・中世後期の穢多は、中世前期以来の屠畜・皮革業の他に、①草履の製造、②造園業、③農業、④犬狩り、⑤馬医をしていた。
(3)、その他の地域
・穢多集団は京都・奈良およびその周辺に限定されたが、鎌倉鶴岡八幡宮の日誌の応永2年(1395)に「犬神人」の記載があり、これが関東で最も早い中世賎民の記事である。なお、京都の「犬神人」は宿非人であるが、鎌倉の「犬神人」は牛馬の皮を担っていたことから穢多であった。
7、戦国時代
(1)、意義
・戦国大名にとっては、武具・馬具の材料として大量の皮革が不可欠であった。そのため、東日本(東海・関東・甲信越地方)の戦国大名は皮革業者を「職人」として認識し、組織化して上納させていた。他方、近畿地方では皮造りが広く進展しており、織田信長や豊臣秀吉は直接皮革業者を組織化して掌握するのではなく、商人とその町を掌握し、商業ルートによって皮革が調達されていた。
(2)、東日本
・大永6年(1526)、駿河国の今川氏親が、駿河国府中のかわた彦八に新屋敷を安堵するかわりに毎年皮革を上納するように命じた。
・天文7年(1538)、小田原の後北条氏は、伊豆国長岡のかわた九郎右衛門に対して、皮革をきっちり仕上げよと命じた。また、永禄8年(1565)には、皮作中に対して、皮剥ぎでない者が皮を剥いだ場合は法に背くので見つけ次第取り上げて、とやかく言うのであれば報告せよと命じた。
・天正19年(1591)、甲斐国の武田氏も、かわた組織を形成した。
(3)、四国中国地方
・16世紀末頃までに、毛利氏はかわた組織を編成して、給分を与える代わりに皮革を上納させていた。
・天正から慶長にかけて、土佐の長宗我部氏は「坂之者」と称するかわた組織を編成した。
<参考文献>
『入門被差別部落の歴史』(解放出版社、寺木伸明・黒川みどり、2016)
・中世で賎視されていた人々がのちの部落民になった、という説である。ただし、すべての部落が中世に成立したわけではないので、中世からの連続のみで説明できるわけではない。
2、中世の賎民
(1)、中世身分制の特徴
①、中世身分制は、古代律令制的身分制度のように全国的規模で法制的に規定されたものではない。よって、天皇・皇族、公家、有力武家・寺家・社家などを除けば、流動的であった。
②、中世身分制は、全国的・単一的なものではなく、その系列も多様であった。
ア)、村落(住人ー間人(もうと)ー乞食)
イ)、荘園・公領(本家・領家ー荘官ー本百姓ー小百姓ー下人)
ウ)、権門の家産的支配秩序(武家の幕府の場合は別当ー執事ー奉行ー御家人ー雑色)
エ)、国家体制(貴種ー司・侍・官人ー凡下ー穢多)
(2)、中世の賎民
①、穢多(その他、餌取、細工、河原人(者)、横行、清目、かわた)
②、非人(その他、犬神人)
③、散所(その他、庭払い、庭掃、横行)
④、主要3つの賎民以外にも、「獄囚」・「放免(釈放された囚人で検非違使庁の最下級の職についていた)」・「濫僧」などがいた。
3、穢多とは
(1)、意義
・13世紀後半に成立した『塵袋』によると、エタとは、①清めにかかわり、②「餌取」に由来し、③屠者(屠畜業者)であって、④人との交際を断たれている状態であって、⑤「「天竺ニ旃陀羅ト云フハ屠者也、イキ物を殺テウルエタ躰ノ悪人也」と悪人視されていることがわかる。さらに、13世紀末の作とされる『天狗草紙』には、エタが皮を干している場面があるので、エタは皮革業にも従事していたことがわかる。
(2)、地域性
・中世においては、屠畜・皮革業者に対する主としてケガレ観に基づく差別は、天皇・皇族・王朝貴族が住んでいた奈良・京都およぼその周辺に限られており、地方においては屠畜・皮革業者が存在していた事は史料から確認できるが、彼らが差別されていたということは史料上から確認できない。
4、差別の始まり
(1)、縄文・弥生時代
・縄文人は、鹿やイノシシを好み、兎・狐・狼・狸・カワウソ・ムササビ・猿を食べていた。弥生時代になると大陸から稲作文化とともに家畜の文化が伝えられた。
(2)、古墳・飛鳥時代
①、屠畜
・天武天皇4年(675)、4月から9月までは牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはいけないという肉食禁止令が出された。また、猪の肉や脂を進貢する「猪名部・猪飼部」や、牛馬の解体に従事した「牧子」が存在していた。
②、皮革
・西暦700年頃の奈良県藤ノ木古墳から鹿革の細工が出土しているので、この頃には牛・馬・猪・鹿などの皮革は存在していた。また、5世紀末くらいに高句麗から製革技師を招いたり、大化の改新の時には、百済の「手部(てひと)」や高句麗の「狛部(こまべ)」を大蔵省内蔵寮において製革に従事させていた。官牧の牛馬が死ねば「牧子」が皮剥ぎを行った。
・馬飼雑戸・狛戸・百済戸など専門的な皮革業者は全国各地に存在しており、彼らが弊牛馬の処理にあたり、馬皮・馬革・牛皮・牛革・鹿皮・鹿革が税として納められていた。
(3)、奈良・平安時代
・奈良時代頃から、屠畜・皮革業が「人の恥ずべき所」とみなされるようになり、平安時代に入って、弘仁11年(820)成立の弘仁式や延長5年(927)成立の延喜式など触穢規定が法定され、屠畜・皮革業が差別の対象となっていった。
5、中世前期の穢多
(1)、京都
・『左経記』という史料の長和5年(1016)の条に、鴨川の河原あたりに住んでいたと思われる「河原人」が死牛の皮を剝いでいたこと、牛黄(ごおう、牛の腸などに生じる結石で高貴薬とされた)を見つけて取り出していたことの記録がある。
・承暦4年(1080)に、検非違使の下文によって醍醐寺に2名の餌取が寄付されたという記録がある。ここから、餌取は屠畜・皮革業だけではなく、清めとして清掃を担い、また草履を上納していたことがわかる。
(2)、奈良
・文永2年(1265)、関白一条実経が春日社に参詣するので興福寺寺中およびその周辺を清掃することになったとき、「横行」と「細工」がそこにある墓地の清掃をさせられた。
・延慶3年(1310)、法隆寺北東の極楽寺で、「カセヒ野ノ細工」が捕らえられた盗賊を断頭したという記録があるので、細工は行刑役を担っていた事がわかる。
(3)、その他の地域
・穢多集団は京都・奈良およびその周辺に限定された。
6、中世後期の穢多
(1)、京都
①、意義
・中世後期の穢多は、中世前期以来の屠畜・皮革業の他に、①箒や草履の製造、②造園業・井戸掘り、③犬追物に使う犬の捕獲、④農業、⑤飛脚、⑥馬医、⑦警備員、⑧刑の執行をしていた。
②、造園業
・八代将軍足利義政に寵愛され、室町御所の造園造りにかかわった善阿弥、慈照寺銀閣の庭造りにかかわったその子と孫の又四郎などが有名である。その又四郎は「某、一心に屠家に生まるるを悲しむ」と語っていたという。
③、警備員
・嘉吉の乱で敗れ切腹した赤松満祐の首を室町幕府侍所随兵とともに河原者1000人が警固したり、斬首されることになった罪人の守護に河原者数百人があたったなどの記事がある。
④、刑の執行
・律令制下で刑の執行、は「市」において物部によってなされていたが、11世紀頃から「河原」で検非違使によってなされるようになり、しだいに河原者(清目)によってなされるようになっていった。
(2)、奈良
・中世後期の穢多は、中世前期以来の屠畜・皮革業の他に、①草履の製造、②造園業、③農業、④犬狩り、⑤馬医をしていた。
(3)、その他の地域
・穢多集団は京都・奈良およびその周辺に限定されたが、鎌倉鶴岡八幡宮の日誌の応永2年(1395)に「犬神人」の記載があり、これが関東で最も早い中世賎民の記事である。なお、京都の「犬神人」は宿非人であるが、鎌倉の「犬神人」は牛馬の皮を担っていたことから穢多であった。
7、戦国時代
(1)、意義
・戦国大名にとっては、武具・馬具の材料として大量の皮革が不可欠であった。そのため、東日本(東海・関東・甲信越地方)の戦国大名は皮革業者を「職人」として認識し、組織化して上納させていた。他方、近畿地方では皮造りが広く進展しており、織田信長や豊臣秀吉は直接皮革業者を組織化して掌握するのではなく、商人とその町を掌握し、商業ルートによって皮革が調達されていた。
(2)、東日本
・大永6年(1526)、駿河国の今川氏親が、駿河国府中のかわた彦八に新屋敷を安堵するかわりに毎年皮革を上納するように命じた。
・天文7年(1538)、小田原の後北条氏は、伊豆国長岡のかわた九郎右衛門に対して、皮革をきっちり仕上げよと命じた。また、永禄8年(1565)には、皮作中に対して、皮剥ぎでない者が皮を剥いだ場合は法に背くので見つけ次第取り上げて、とやかく言うのであれば報告せよと命じた。
・天正19年(1591)、甲斐国の武田氏も、かわた組織を形成した。
(3)、四国中国地方
・16世紀末頃までに、毛利氏はかわた組織を編成して、給分を与える代わりに皮革を上納させていた。
・天正から慶長にかけて、土佐の長宗我部氏は「坂之者」と称するかわた組織を編成した。
<参考文献>
『入門被差別部落の歴史』(解放出版社、寺木伸明・黒川みどり、2016)