1、抗争

 昭和60年(1985) 東組vs四代目山口組倉本組

2、経過

 (1)、きっかけ(四代目山口組倉本組→東組)

  ・昭和60年(1985)9月10日、奈良県吉野郡大淀町の繁華街にあるスナックで、四代目山口組倉本組組員6人と飲みに来ていた一般客との間でトラブルが起こった。たまたま居合わせた東組本家幹部・柳原幸司が仲裁に入ろうとしたが、逆上した倉本組組員によって刺殺された。

 (2)、倉本組組長・倉本広文の謝罪

  ・柳原の死亡が確認された直後、倉本組組長・倉本広文が、自ら頭を丸めて、一人で東組本部事務所へ謝罪に来た。東組初代清勇会会長・東勇、東組二代目清勇会会長・川口和秀、東組若頭・森下和美らは、この倉本の誠意もあって、早期に手打ちを成立させる方向で話を進めようとした。

 (3)、東組強硬派の返し(東組→四代目山口組倉本組)

  ①、東組強硬派

   ・早期に手打ちを進めようとする一派に対して、東組内には東組滝本組組長・滝本博司を中心とする強硬派があった。刺殺された柳原は、滝本が隊長を務める東組本家親衛隊の副長職であったことから、滝本は強硬に報復を唱えた。

  ②、倉本組山田組相談役銃撃事件

   ・昭和60年(1985)9月18日、大阪府泉佐野市で、東組滝本組組員が、四代目山口組倉本組山田組相談役を銃撃した。

 (4)、キャッツアイ事件(東組→四代目山口組倉本組)

  ①、ターゲットの物色

   ・東組二代目清勇会副会長・古川や同組員・小野は、柳原刺殺事件の3日後には倉本組への報復を決意していたので、倉本組山田組相談役銃撃事件の報を聞いて口惜しさを感じていた。小野は報復のターゲットとなる倉本組関係者を探して回った。そこでターゲットとされたのが、尼崎のラウンジ・キャッツアイでマネージャーをつとめる倉本組系列組員であった。

  ②、キャッツアイ事件

   ・昭和60年(1985)9月23日、小野はラウンジ・キャッツアイで銃撃し、19歳のアルバイトホステスを射殺、倉本組系列組員であったマネージャーの男性に重傷を負わせた。

  ③、逮捕

   ・この当時は山一抗争の最中であったことから、警察の捜査が遅れ、実行犯の小野は事件発生から1年半後の昭和62年(1987)2月15日に逮捕された。なお、小野は逮捕の一か月前に二代目清勇会から絶縁処分をうけていた。さらに、昭和62年(1987)3月11日には、古川も逮捕された。古川は事件後に二代目清勇会副会長職を追われ、長崎で生活をしていた。

  ④、二代目清勇会会長・川口和秀の逮捕

   ・平成元年(1989)1月22日、二代目清勇会会長・川口和秀が道路交通法違反、私文書偽造の容疑で逮捕された。この後すぐに、キャッツアイ事件の殺人及び殺人未遂の共謀共同正犯でも逮捕された。川口は小野と古川の供述によって、キャッツアイ事件の首謀者とされ、懲役15年の判決を受けて服役した。しかし、川口は冤罪であるとして獄中から再審請求を行い、神戸地裁尼崎支部は再審請求を棄却したが、大阪高裁に即時抗告を申し立て、これも棄却されると、府中刑務所から出所した後に最高裁に特別抗告を申し立てた。

3、動画

 ・川口氏が自らキャッツアイ事件について語られている貴重な動画です。





 <参考文献>

 『闘いいまだ終わらず 現代浪華遊侠伝・川口和秀』(山平重樹、幻冬舎、2016)