稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

日本部落史(1) 「新平民」「特種部落」「特殊部落」「細民部落」「被圧迫部落」「同和地区」「未解放部落」「被差別部落」等さまざまな呼称について

1、意義

 ・明治4年(1871)の解放令により賎民身分は廃止され、部落民は平民に編入された。これ以降、旧賎民身分の人々あるいは地域を他から区別する呼称は不要のはずであったが、法的廃止にもかかわらずその差別的実態は継続されたために、「穢多」などの旧身分を表す言葉が依然として侮辱的に使用されるだけでなく、「新平民」「特種部落」「特殊部落」「細民部落」「被圧迫部落」「同和地区」「未解放部落」「被差別部落」等さまざまな呼称が生まれてきた。

2、新平民・新平

 (1)、意義

  ・解放令後、最初に生まれた呼称。

 (2)、由来

  ・当初、この言葉は新たに平民身分になった人々だけを指すだけの、差別色のないニュートラルな用語として登場した。しかし、社会には旧賎民身分の人々を忌避排除する動きがあったので、この「新平民」という言葉は、平民であっても平民には組み入れない平民であることを示す差別的用語となった。

3、特種部落・特殊部落

 (1)、意義
  
  ・「新平民」は使用がはばかられるほど侮辱を含むようになっていたので1900年代頃から行政文書で使われた用語。

 (2)、由来

  ・明治32年(1899)の奈良県の公文書が始まりであり、その後、明治40年(1907)初頭には内務省が用いるようになって全国に流布していった。この言葉も、当初は政策実行の対象を示す行政用語にすぎなかったが、やがて差別的意識を背景として差別的用語に転じていった。

 (3)、禁止

  ・「特種部落」はさすがに異人種を連想させると思われてほどなく使用されることがなくなるが、「特殊部落」の言葉も明治42年(1909)には奈良県知事がその使用を禁じるほどの差別用語となっていた。明治43年(1910)には公文書に同語が記載されたことが契機となって、京都山科村長が殺害される事件もおこっている。
 
 (4)、戦前の全国水平社・戦後の部落解放同盟

  ①、戦前の全国水平社

   ・全国水平社は、「特殊部落」「特殊部落民」を自称した。例えば、全国水平社はその宣言にも「全国に散在する我が特殊部落民よ団結せよ」の言葉で始め、綱領にも「我々特殊部落民は」と自称した。創立大会後の協議会では「特殊部落」で議論されたが、西光万吉ら創立メンバーは「名称によって吾々が解放されるものではない。今の世の中に賎称されている「特殊部落」の名称を、反対に尊称たらしむるまでは、不断の努力をすること」を主張し「喝采の中」で原案通りとなった。

  ②、戦後の部落解放同盟

   ・戦後でも昭和23年(1948)の部落解放全国委員会第3回全国大会の「部落解放運動方針大綱」に「特殊部民」とあるように、運動内部でも自称として用いられる例もあった。しかし、昭和42年(1967)から翌年にかけての「特殊部落」の言葉を使用した差別事件の頻発とその糾弾を通じて、部落解放同盟はこの言葉を「部落民に対する差別観念をよびおこす」と指摘し、昭和50年(1975)には、差別語追放を目的とすることは批判しつつも、侮辱の意を含まないのは「歴史論文、研究論文などごく限られた場合のみ」とした。

4、細民部落

 (1)、意義

  ・「特殊部落」も差別用語となったので、内務省は明治45年(1912)に開催された全国からの部落指導者たちを集めた会議を「細民部落改善協議会」とした。

 (2)、「細民」という言葉について

  ・「細民」とは元来、下層民の中でも「貧民」よりはやや経済的に上位にある階層を意味する言葉であった。「細民」という言葉を使うことによって、単に下層の人々が集住する地域を指すのか、被差別部落を指すのかをあえて曖昧にさせた。しかし、その曖昧さ故に「細民部落」という言葉はあまり定着をしなかった。

5、部落

 (1)、差別的含意を持たない言葉を求めて

  ・政府が「細民部落」の使用をやめた米騒動後の時期から、地方官庁、改善事業関係者らは、差別的含意を持たない呼称を求めて、「後進部落」「可憐部落」「被同情民」「一部同胞」「少数同胞」、全国水平社添創立後は「水平部落」「水平」といった呼称まであらわれた。

 (2)、「部落」「所謂部落」という呼称

  ①、意義

   ・政府や内務省は新たな用語を作っても差別用語になってしまうことから、区別をするのでなく「部落」という用語を使用しはじめた。その後、「部落」という言葉が行政用語として定着していった。

  ②、はじまり

   ・大正9年(1920)年度の国家予算に計上された「部落改善費」や、大正10年(1921)年内務省社会局の「部落改善の概況」のように、「部落」という言葉がこの頃から使われはじめる。

6、被圧迫部落

 (1)、きっかけ

  ・昭和8年(1933)の高松地裁差別裁判糾弾闘争のなかで、同闘争全国委員会が「被圧迫部落」と称することを提唱した。

 (2)、ひろがり

  ・昭和9年(1934)の全国水平社第12回全国大会後の中央委員会は、大会で付託された規約改正を審議し、井元麟之と朝田善之助の提案により規約中の「特殊部落」を「被圧迫部落」に変更することが可決、また綱領中の字句は次大会で変更することが決定され、大正10年(1935)の第13回大会で、綱領・規約の「特殊部落」は「被圧迫部落」とすることが可決された。

 (3)、戦後

  ・第二次世界大戦後の解放運動の始まりである昭和21年(1946)の「部落解放人民大会」で、井元は「被圧迫部落大衆」と自称したが、採択された宣言には部落大衆となり、組織名は「部落解放全国委員会」とされ、「被圧迫部落」は使用されることはなかった。

7、未解放部落

 ・昭和25年(1950)年に北原泰作と井上清によって解放運動の主体を表現する用語として案出され流布することとなった。

8、被差別部落

 ・昭和29年(1954)に井上清により解放運動の主体を表現する用語として案出され流布することとなった。

9、同和

 ・「同和」という言葉は、昭和元年(1926)の昭和天皇践祚にともなう朝見の儀での勅語の一節「人心惟レ同シク民風惟レ和シ汎ク一視同仁ノ化ヲ宣ヘ永ク四海同胞ノ誼ヲ敦クセン」から採られたもので、昭和16年(1941)の同和奉公会発足から現在に至るまで用いられている。

10、「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」

 ・昭和44年(1969)の同和対策事業特別措置法、昭和57年(1982)の地域改善対策特別措置法では、「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」と、事業の対象とする地域という形で記されている。

<参考文献>

「被差別部落の呼称」(『日本史大事典』、執筆は白石正明)
『近代部落史』(黒川みどり、平凡社、2011)

ヤクザ人物史 小林楠扶

1、出生

 ・昭和5年(1930)に生まれる。帝京商業学校卒業後、後に大日本興行を設立する高橋輝男率いる「銀座警察」に加わり、戦後暴れまわっていた中国人や朝鮮人と戦った。

2、小林会結成

 (1)、結成

  ・小林は高橋と契りを結び、住吉連合会小林会を結成する。小林会は、昭和28年(1953)に力道山を刺殺した村田勝志が同会の理事をしていたということで一躍その名が知れ渡る。

 (2)、久保正雄の後見

  ・小林は、インドネシアにおける事業の契約をとりたい東日貿易の久保正雄の依頼をうけて、昭和33年(1958)に来日をしたインドネシアのスカルノ大統領のボディーガードを引き受けた。これにより小林は久保の信頼を得て、久保の後見をうけるようになる。ちなみに、このとき久保がスカルノに献上したのが根本七保子、後のデヴィ夫人である。

 (3)、住吉連合会の本部長へ

  ①、意義

   ・昭和62年(1987)、小林は住吉連合会の本部長に就任している。また、小林会は銀座や六本木に地盤を築く都会派ヤクザの代名詞的存在となり、住吉会二代目会長・福田晴瞭など、有為な人材を輩出している。

  ②、寄居真会との抗争

   ア)、原因

    ・平成元年(1989)9月、福島県郡山市に本拠を置く、寄居真(まこと)会と抗争をした。寄居真会がテキヤから博徒へ路線変更をし、住吉連合会への加盟を希望した。よって、寄居真会は小林から舎弟の盃をもらい傘下に入った。しかし、その直後に稲川会へ加盟するという話になり、これにメンツをつぶされた小林が激怒した。

   イ)、抗争

    ・平成元年(1989)9月30日、千代田区九段下にあるホテルのロビーで、小林会組員が寄居真会東北寄居連合会の組長を狙撃した。さらにこの襲撃の15分後には、郡山市の寄居真会本部事務所が襲撃され、組員が重傷を負い、事務所が約1時間にわたって占領されてしまった。

    ・同年10月6日、六本木の小林会事務所前で小林会組員が寄居真会組員に襲撃された。さらにほぼ同じころ、新宿区大久保にある小林会系事務所にも拳銃が撃ち込まれた。

    ・同日夜、寄居真会系事務所や組幹部宅に拳銃が撃ち込まれた。

   ウ)、和解

    ・住吉連合会と寄居一家が交渉をし、寄居一家は非を認めて寄居真会を解散させ、組長を絶縁することで和解が成立した。

3、右翼活動

 (1)、殉国青年隊への参加

  ・小林は、「銀座警察」時代の先輩であった豊田一夫が昭和27年(1952)に頭山満の長男頭山秀三を顧問に結成した「殉国青年隊」に参加し、右翼活動を開始した。

 (2)、楠皇道隊結成

  ・昭和36年(1961)、小林は楠皇道隊を結成した。

 (3)、日本青年社へ

  ①、結成

   ・昭和44年(1969)、小林は楠皇道隊を発展的に解消し、日本青年社とする。日本青年社は、日本原水爆禁止日本国民会議大会や日本教職員組合大会での抗議行動、左翼過激派との実力闘争など活発な活動を行う。

  ②、主な活動

   ア)、左翼過激派への攻撃

    ・昭和61年(1986)、共産同荒派が皇居に向けてロケット弾を発射したことに抗議をして、アジトに4トントラックで突入した。また、翌62年(1987)にも中核派の拠点へ車両で突入をしている。

   イ)、尖閣諸島・魚釣島への灯台の設営

    ・昭和53年(1978)、中国の武装漁船が魚釣島に大挙して領有権を主張する行為をしたことに抗議して、衛藤豊久総隊長が決死隊を編成して、魚釣島に上陸し二日間で全長約6メートルの灯台を設営した。この灯台は、昭和63年(1988)に国際規格の堅牢な設備に改築され、平成17年(2005)に政府に寄贈された。現在は海上保安庁によって管理されている。

4、経済界に強いヤクザ

 ・住吉会でも小林は経済界に強いヤクザとして有名であった。自らゴルフコンペ楠会を開き、毎回300人前後の企業経営者や芸能人を集めていた。会費は3万円と安く副賞も小林の持ち出しで外車などが送られたが、ゴルフコンペによって築かれる幅広い人脈で小林は大金を稼いだ。

5、最期

 ・小林は平成2年(1990)に病のために逝去した。享年60歳。

<参考文献>

 『日本「愛国者」列伝』(宝島社、2014)
 『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)
 『ネオ山口組の野望』(飯干晃一、角川書店、1994)


ヤクザ人物史 城島健慈

1、出生

 ・昭和17年、満州に生まれる。終戦後に熊本に引き上げたが両親を亡くし、兄とともに施設で育った。城島は熊本県下名門の済々黌高等学校に進学するが、ヤクザの抗争事件にかかわったことから退学した。

2、渡世入り

 (1)、東亜友愛事業組合との縁

  ・城島は退学後に自衛隊に入ることになっていたが、入隊せずに上京して新宿を放浪していた。この時に東声会系の人と出会い、これが東亜友愛事業組合との縁となる。

 (2)、渡世入り

  ・大阪へ渡った城島は愚連隊を組織して暴れていたが、東亜友愛事業組合の二村昭平親分と盃を交わして渡世入りをした。

 (3)、城島連合会の旗揚げ

  ・大阪府高槻市に、最初は東亜友愛事業組合城島興行、昭和31年に城島連合会と改称して、激戦区の京阪地区に関東二十日会系組織である東亜友愛事業組合の事務所を構えた。これは大きな波紋となり、城島は常戦体制で臨んでいた。

 (4)、銃撃されて死線を彷徨う

  ・昭和58年、城島が40歳の時、大阪高槻市の事務所でシノギをめぐってもめていた山口組系藤原会組員が、話し合いの最中に突然拳銃を発砲し、2発の弾丸をうけるが奇跡的に一命をとりとめた。発砲した組員は城島連合会の組員に刺殺された。

3、最期

 ・城島連合会は東京にも事務所を構えて宝石商を営んでいたが、平成7年にその東京事務所近く東京六本木のパチンコ店ミナミの入り口付近で、ヒットマンに射殺された。享年52歳。生涯50余回の抗争に参加した武闘派であった。

4、城島会長のヤクザ観

 ・いろいろな人がヤクザとは何かについて語っていますが、城島会長のヤクザ観が一番妥当な気がします。



 「全体の中のわずか何パーセントしかいないヤクザの世界で、それでここだけでは無理をするんじゃないよと。ここでも生活できなかったらお前行くところないだろうと。最低のルールは守りなさいと。この最後の世界がこのヤクザの世界なんだと。スネに傷を持つ、心に傷を持つ人間がお互いに力を合わせて家族を形成していく一つの社会なんだと。あーヤクザをやってよかったと。他の社会では生きられない。最後のこの世界だけででも幸せになれてよかったというような組織形態を永続してやるために私は今いるわけだ。」

 ・ただし、合田一家二代目総長・浜部一郎は以下のように発言しています。



 「私はねぇ、これだけは言わせてください。たった一言でヤクザに成って、一言の言葉でヤクザをやめた男ですからね。私はね、みんなに言うんですよ。俺はお前らみたいに食い詰めて行き場が無くなってヤクザになったんじゃないないぞ。俺はヤクザに成ろうと思って努力したんだぞ。自分の命をかけて努力したんだぞ。それで成ったヤクザだぞ。お前等みたいなヤクザと違うんだぞ。」

<参考文献>

 『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』(山平重樹、幻冬舎、2006)



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