稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

ヤクザ抗争史 小松島事件

1、抗争

 昭和32年 徳島県 山口組小天竜組vs本多会勝浦組平井組・福田組

2、山口組と本多会の代理戦争

 (1)、小天竜組とは
 
  ・小天竜組は、昭和13年に新居利治によって徳島県小松島市で結成された博徒系の組織である。主に港湾荷役の仕事をシノギとしていたので、港湾荷役の仕事をきっかけに二代目山口組組長・山口登とは舎弟の関係にあった。新居利治の引退後は、昭和22年に養子の新居良男が三代目山口組組長・田岡一雄の舎弟となり、二代目小天竜組を継承した。

 (2)、平井組・福田組とは

  ①、本多会とは?

   ・後に本多会を結成する本多仁介は、もともとは山口組と同じく大島組の傘下組織であった。その後、本多は昭和13年に大島組から独立し、本多組を作った。本多組は本家の大島組をしのぎ山口組と並び称される存在となった。昭和25年に本多会に改称し、昭和38年に本多仁介が二代目を平田勝市に譲った。山口組と抗争をしていた頃の本多会は、山口組に次ぐ全国第二位の勢力で、16府県にまたがり166団体4090人の構成員を抱えていた。

  ②、平井組と福田組

   ・平井龍夫率いる平井組は、徳島市元町マーケットに縄張りを持つテキヤ系の組織であったが、小松島市でパチンコ店も経営していた。また、福田栄率いる福田組は、小松島市に拠点を置く土建業であった。平井組と福田組は兄弟分の関係にあり、その上部団体は、徳島に確固たる地盤を持つ勝浦隆司率いる勝浦組であり、そしてその勝浦組は本多会系の組織であった。

2、経過

 (1)、平井組事務所襲撃事件(山口組小天竜組→本多会勝浦組平井組)

  ①、原因

   ・小松島市では、小天竜組と平井組が小競り合いを繰り広げていた。そのような中で、小天竜組は、テキヤ系組織であるにもかかわらずパチンコ店を経営している平井組に対して、「テキヤが賭博に手を出すのは稼業違い」として因縁をつけた。

  ②、平井組事務所襲撃事件

   ・昭和31年7月13日、徳島県小松島市の夏祭りの夜に、小天竜組組員が平井組が経営するパチンコ店に殴りこみをかけた。結果、小天竜組は1人が斬殺、2人は瀕死の重傷を、平井組は2人の重傷者をだした。

  ③、手打ちの成立

   ・昭和31年7月16日、地元の有力県会議員と本多会の最高幹部が和解にむけて奔走し、急転直下で手打ちとなった。

 (2)、山口組小天竜組vs本多会勝浦組福田組

  ①、小天竜組事務所前の事件

   ・昭和32年10月13日、福田組の組員が小天竜組の事務所前で男と喧嘩をし、この男を川に突き落として水死させた。これに対して、小天竜組は自分の組事務所の前での喧嘩に激怒して、この福田組組員を逆に川に放り込んでしまった。これにより、小天竜組と福田組の抗争の危険性が高まった。両組が抗争を始めれば、小天竜組には山口組が、福田組には兄弟分の平井組、上部組織の勝浦組と本多会が動く可能性が高かった。

  ②、小天竜組組長・新居良男の逮捕

   ・新居は取材現場にきた新聞記者を小突いてしまい、これによって威力業務妨害で1ヶ月ほど徳島刑務所へ服役しなければならなくなった。指揮官を欠いては組員の士気にかかわるとして、新居は刑務所へ入る前に、神戸へ出向き山口組へ相談をしに来た。

  ③、和解の成立

   ・相談を受けた山口組では、地道行雄、佐々木道雄、山本広の三人が本多会最高幹部と話し合い、双方の和解が成立した。

  ④、小天竜組組長襲撃事件(本多会勝浦組福田組→山口組小天竜組)

   ・和解が成立した新居は、神戸から小松島への帰路につくために、神戸港か船にのった。小松島に到着し、新居が船から降りたときに、福田組の刺客が新居を銃撃し、新居は重傷を負った。

 (3)、山口組と本多会の代理戦争へ

  ①、山口組組員が小松島へ押しかける

   ・新居襲撃の事件を知らされた山口組若頭・地道行雄は激怒して動員令を発した。この動員命令により、安原政雄、吉川勇次、山本健一、尾崎完次らが組員110人を従えて、新居の見舞いに行くという名目で小松島へ乗り込んだ。徳島県警は小松島港に警官を待機させ、神戸港では小松島行きを断念するように兵庫県警が説得した。しかし山口組側は応じなかった。

  ②、事態収拾

   ・本多会が事態の収拾に積極的に動き、昭和32年10月21日に本多会副会長・酒井吾意智と山口組の安原政雄がそれぞれ別個に小松島署を訪れて、事態収拾の意向を伝えた。山口組は30人だけを現地に残し、あとの者は神戸へ帰った。

  ③、手打ち

   ・昭和32年10月24日、自民党の小西寅松代議士の仲介で和解が成立した。

3、小松島抗争の歴史的意義

 (1)、全国進出の始まり

  ・これまでの山口組は、不良戦勝国民との争い、西海事件、谷崎組事件と比較的小規模な事件しか起こしてこなかったが、小松島抗争は、他府県での抗争の第一弾であり、この事件を皮切りにして、山口組の全国進出の始まった。

 (2)、大量動員作戦と凶器準備集合罪の新設

  ①、山口組の大量動員作戦

   ・山口組は抗争が起こると大量動員をかけて相手の組織を威嚇するが、この戦術も小松島抗争から生まれたものである。

  ②、凶器準備集合罪の新設

   ・山口組のみせた動員力、行動力を重大視して、大挙結集を未然に防止すべく、法務省ではこの事件をきっかけとして、凶器準備集合罪の新設に乗り出した。

 (3)、対本多会

  ・ある地域で一方の組織が山口組に入れば、対立する他方の組織は本多会へ入り、逆に一方の組織が本多会へ入れば、対立する他方の組織は山口組に入るという形で、山口組と本多会はその抗争を利用して全国的な広域組織へと成長していった。

<参考文献>

 『山口組三代目 田岡一雄自伝』(田岡一雄、徳間書店、2006)
 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)


ヤクザ抗争史 宮崎戦争

1、抗争

 昭和58年 宮崎県 井根一家系vs石井組系(井根組、遠藤組)

2、経過

 (1)、山口組系石井組の人事問題

  ・山口組系石井組初代組長・石井一郎が二代目を秋山潔に譲った。しかし、秋山と同格であった高橋組組長・高橋辰馬はこの人事に不満をくすぶらせていた。

 (2)、昭和55年の総長賭博
 
  ①、総長賭博の開催

   ・昭和55年8月、大分市の川近組組長・川近幸男の三代目山口組直系昇格祝いと結婚一周年記念を祝って、二代目石井組内高橋組組長・高橋辰馬のシマである大分県天瀬温泉で総長賭博が開かれた。この総長賭博は壮大なもので、山口組若頭補佐・益田佳於までもが横浜からかけつけ、一晩で3億円の賭け金が動いた。

  ②、警察の手入れ

   ・この総長賭博に関して、昭和57年7月に大分県警が一斉手入れして、賭博にかかわったものを逮捕した。この中には、山口組若頭補佐・益田佳於も含まれていた。この不始末について、シマを持っていた高橋辰馬が責任をとらなければならなかったが、高橋はとらなかった。さらに、高橋が二代目石井組人事での不満から、警察に総長賭博の内情をしゃべったという噂もささやかれはじめた。

  ③、高橋辰馬の絶縁処分

   ・石井組は昭和57年7月の幹部会で、高橋辰馬を絶縁処分とした。しかし、高橋はカタギにならずに独立組織として石井組を飛び出した。

 (3)、井根兄弟と高橋辰馬の関係

  ①、井根兄弟の来歴

   ・井根義秀は27歳で宮崎に来て、40歳で井根組を結成した。その弟である井根敏雄も宮崎に来て神輿商事という会社を作り、これが井根一家となった。高橋辰馬とは、まず兄の義秀が義兄弟となり、その後に弟の敏雄が兄弟盃をかわした仲であった。

  ②、井根敏雄が高橋辰馬を支援する

   ・高橋辰馬が石井組を絶縁処分となっていた頃、井根敏雄は宮崎刑務所に服役中であった。出所時、井根敏雄は石井組本部や実兄である井根義秀の説得にもかかわらずに高橋辰馬を支援した。

  ③、井根敏雄破門処分

   ・石井組は高橋辰馬を支援した井根敏雄、荒木会会長・荒木美喜雄、角野組組長・角野大を破門処分とした。しかし、井根敏雄はこれに対して前代未聞の異議状を石井組に提出した。

 (4)、井根一家と遠藤組との関係

  ①、遠藤組とは?

   ・遠藤組は石井組若頭・江口亨の直系の組織で、組長は神埼一弘がつとめていた。同組内には、行動部隊の右翼グループである「青年武翼団」があり、遠藤組初代組長の実子である遠藤浩介が代表をつとめていた。

  ②、井根一家と遠藤組の対立

   ・数億円に上るシラスウナギの利権をめぐって遠藤組と井根一家との間でトラブルが発生した。遠藤組の青年武翼団が井根一家に弾丸を撃ち込んだり、日本刀で斬りあうなど、石井組内部で内輪もめを起こした。

 (5)、井根敏雄総長射殺事件

  ①、前史

   ・昭和58年2月16日、井根組事務所に銃弾が撃ち込まれる。同日、井根一家組員が井根組組員を事務所に監禁する。この報復として、井根組幹部が井根一家に集団暴行を加える。

  ②、井根総長射殺事件

   ・昭和58年5月10日、井根一家総長・井根敏雄が射殺された。逮捕されたのは、遠藤組組員である19歳の少年であった。しかし、犯行動機のつじつまが合わないこと、19歳の少年が買えないような高価な米国製の拳銃を保持していたこと、拳銃の腕はプロレベルの命中率であったが19歳の少年にそのような高度な射撃テクニックがないことなどから、19歳なら少年法で刑が軽いのでヒットマンに仕立てられたとして警察も慎重に扱った。その後、実際は遠藤組員の犯行であることがわかり逮捕された。

  ③、警察の終息宣言

   ・その後も、石井組系と井根一家系は断続的に銃撃戦を繰り返すが、井根一家の幹部や組員が多数逮捕されたことから、そろそろ抗争は終結とみて昭和58年6月10日に宮崎県警本部の幹部が個人的見解と断った上で終息宣言を出した。

 (6)、石井組組長宅銃撃事件

  ①、意義

   ・昭和58年6月19日、石井組組長・秋山潔宅へ、井根一家組員が銃撃をした。秋山は不在であったので無事であった。

  ②、影響

   ・警察は終息宣言を出した直後の襲撃であったのでメンツを潰された。また、井根一家組員の今後を心配して、井根一家の組員の面倒を石井組が面倒をみるという井根組組長・井根義秀の和平工作の動きも無駄となった。さらに、全国に名前の通った石井組のメンツにもかかわる問題となった。結局、井根敏雄亡き後に井根一家を束ねてきた副総長・徳永勝義が警察に井根一家の解散状を届けた。

<参考文献>
 
 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)

ヤクザ抗争史 筑豊事件

1、抗争

 昭和56年 福岡県 双葉会vs百崎組(七ツ矢組)・小野組・向山一家・九州一会

2、経過

 (1)、双葉会とは

  ・大島匡和率いる大島一家は昭和37年に双葉会に改称した。大島はが事業一本に打ち込むために引退したことにより、二代目会長には和田万亀男が就任した。二代目双葉会は本拠地は福岡市だが、和田の自宅が筑豊の福岡県嘉穂郡嘉穂町になることから、この地方へも勢力を伸ばしてゆき、地元の百崎組と緊張が生まれるようになった。

 (2)、七ツ矢組長射殺事件

  ・昭和51年8月16日、飯塚市の麻雀クラブで、九州侠友連合会加盟の三代目百崎組組長・七ツ矢芳雄が、双葉会の準構成員に射殺された。その後、百崎組は七ツ矢組に改称して七ツ矢芳雄の弟勝海が承継するが、七ツ矢勝海も服役したことにより、七ツ崎組は小野組が面倒みることとなった。

 (3)、稲葉副会長射殺事件

  ①、意義

   ・昭和56年5月30日、福岡県飯塚市で、双葉会副会長・稲葉倫己が向山一家組員と小野組組員に射殺された。

  ②、原因

   ・稲葉副会長射殺事件の3日前の昭和56年5月27日、飯塚市の路上で双葉会の組員と小野組の組員が喧嘩をした。小野組はこの喧嘩の仲裁を久留米市の向山一家に依頼したが、双葉会副会長・稲葉倫己は手打ちの即答を避けた。これが手打ちを拒否されたと判断されて、小野組とメンツを潰された向山一家の組員が稲葉を襲撃した。ただし、一説には、七ツ矢組長射殺事件を裏で操っていたのが稲葉であり、その報復として射殺されたとも言われる。

 (4)、小野拓会長射殺事件

  ①、九州一会結成

   ・七ツ矢組組長・七ツ矢勝海は昭和56年9月に出所して、七ツ矢組を預けていた小野組と合流し、九州一会を結成した。小野会長、七ツ矢組長の体制となり、加盟していた九州侠友連合会も脱退して、独立組織となった。ただし、別府の二代目石井組幹部・岸本隆秀北斗会会長と、草野一家若頭・溝下秀男極政会会長の2人とは義兄弟となった。

  ②、経過

   ・昭和58年4月2日、九州一会会長・小野拓が、双葉会幹部・市丸清貴と双葉会組員に射殺された。市丸は上着ポケットに射殺された稲葉の写真を忍ばせて、「副会長の敵を討ちました」と涙を流したという。

  ③、その後

   ・この後、双葉会と九州一会との間で前面戦争に発展すると思われたが、抗争は拡大しなかった。

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)

 


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