稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

ヤクザ抗争史 高松戦争

1、抗争

 昭和37年(1962) 香川県 三代目山口組若林組vs親和会

2、親和会と三代目山口組若林組

 (1)、親和会とは

  ・親和会の前身は北原伝次郎が結成した北原組である。北原は、昭和20年代に本多会会長・本多仁介の舎弟となった。北原が市議会議員となったことから、昭和34年(1959)4月、北原組は娘婿の柴田敏治が継承した。しかし、その柴田も市議選立候補を表明したので、昭和40年(1965)に北原組は解散をした。そして、この北原会の幹部であった細谷勝彦が、北原組の地盤を継承して昭和40年(1965)に結成したのが親和会である。

 (2)、三代目山口組若林組とは

  ・太政官香西支部長であった若林暲が、昭和33年(1958)に、団体等規制令で解散となった旧太政官の組員を集めて結成したのが若林組である。昭和37年(1962)8月には若林が三代目山口組若頭・地道行雄から舎弟盃をうけて地道組に加入した。これが香川への山口組進出となった。昭和39年(1964)には三代目山口組組長・田岡一雄から親子盃をうけて直参に昇格した。

3、抗争

 (1)、昭和46年の抗争

  ・昭和46年(1971)7月、若林組副組長と親和会組員がクラブで些細なことで喧嘩となり、双方に助っ人が駆け付けて大乱闘となった。親和会幹事長・篠浦茂夫が若林組副組長を刺殺し大抗争となった。

 (2)、高松抗争

  ①、原因

   ・昭和57年(1982)、親和会幹部・竹内寛と若林組若頭が車の接触を原因として乱闘となった。話し合いの最中に若林組事務所に向かって発砲をし逃走した。若林組副会長の断りによっていったんは収まるも、抗争は激化していった。

  ②、抗争の拡大

   ・喫茶店における親和会組員と若林組組員の喧嘩口論に端を発し、竹内らが若林組事務所前で組員に発砲をした。さらに竹内らはパトカーがいなくなった後再び相手事務所の玄関の扉を破り、中にいた数名に発砲をし、若林組若頭を射殺、同組員に重傷を負わせた。

   ・この事件の4ヶ月後、竹内らの裁判を傍聴していた親和会組員を、待ち伏せをしていた若林組組員2人が襲撃し、親和会組員2名が重傷を負った。

  ③、和解

   ・阪神懇親会の仲裁によって和解が成立した。

 (3)、新高松抗争

  ①、親和会幹事長射殺事件

   ・昭和59年(1984)5月15日、三代目山口組小田秀組四代目中津川組幹部らに親和会幹事長・篠浦茂夫が射殺された。

  ②、四代目中津川組幹部射殺事件

   ・昭和59年(1984)5月26日、親和会幹部・西村辰也と同会組員・吉良博文が、四代目中津川組幹部2人を射殺した。

  ③、手打ち

   ・この時は、四代目砂子川組組長・山本英貴、二代目大日本平和会副会長・山中武夫の仲裁によって、手打ちが成立した。

4、その後

 (1)、その後

  ・親和会は、新高松抗争で2人を射殺し、懲役18年を満期で務め上げた吉良博文が、平成17年(2005)に二代目を継承した。他方、若林組も若林暲が平成14年(2002)に引退して、高松戦争で活躍した篠原重則が二代目を継承した。

 (2)、山口組と親和会の平和共存

  ・平成19年(2007)、吉良は、六代目山口組幹部・光安克明と、五分の兄弟盃を交わした。この盃儀式は、山口組総本部で行われ、双方の最高幹部だけでなく、五社会加盟のトップ・最高幹部も列席した。

<参考文献>

 『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)
 「実録・ドキュメント893 伝説の親分 細谷勝彦 初代高松親和会会長」

ヤクザ抗争史 大和郡山事件

1、抗争

 昭和36年 奈良県 山口組柳川組vs土井熊組服部組

2、昭和30年代初頭の奈良

 ・昭和30年代初頭の奈良は、倭奈良会、互久楽会、土井熊組など大阪組織の植民地であった。

3、経過

 (1)、山口組柳川組の奈良進出

  ①、奈良県内でプロレス興行をやる

   ・昭和36年5月、柳川組組長・柳川次郎は兄弟分として付き合っている力道山をよんで、近鉄あやめが池遊園地でプロレス興行を行った。当時の力道山人気はものすごいもので、約1万人が会場に集まり、柳川組の名は奈良県一帯に知れ渡った。

  ②、右翼団体「大義同志会」結成

   ・昭和36年に、柳川次郎は右翼団体「大義同志会」を結成して、その本部を奈良県奈良市においた。会長は別の人を置き、柳川自身は顧問に座ったがこれはあくまでも表向きであり、実質的には谷川康太郎率いる「大義同志会全国行動隊」が実働部隊であった。奈良県に事実上柳川組の看板をあげたことになる。

  ③、奈良県下のヤクザ組織を強引に傘下におさめる

   ・大義同志会は奈良県下のヤクザ組織の組長宛に「貴下を大義同志会○○支部長に命ず」という辞令を送りつけた。ほとんどの奈良県下のヤクザ組織は大義同志会に加わり、会費を柳川組に納入するようになる。しかし、これに反発したのが大和郡山に本拠地をもつ服部組組長・喜多久一であった。

 (2)、柳川組の服部組潰し

  ①、服部組組員と柳川組組員の喧嘩

   ・昭和36年6月7日、大和郡山市内の寿司屋で服部組組員と柳川組組員とが喧嘩し、柳川組組員はヤカンの熱湯をかけられてヤケドをおう。柳川組はこの絶好の機会に治療費と見舞金含めて50万円(現在でいう1000万円)を要求した。服部組側は40万は現金ではらい、残りの10万円は競輪の八百長で成功した分で払うという条件で手打ちとなる。

  ②、服部組組員が柳川組組員を誤射する

   ・服部組は八百長で失敗して資金のめどが立たなくなってしまう。昭和36年6月27日、柳川組組員がこの問題で服部組事務所を訪れようとしたところ、殴りこみと勘違いした服部組組員がこの柳川組組員を誤射してしまい、2人に重傷をおわせてしまう。

  ③、喜多久一組長刺殺事件

   ・このトラブルは倭奈良会会長・石田郁三の仲裁でいちおう話がついたが、柳川組は収まらなかった。昭和36年7月4日、銭湯から出てきた喜多久一が柳川組行動隊の福島末博ら3人に刺殺されて死亡する。これにより、服部組は崩壊した。

4、影響

 ・柳川組のほか、地道組、益田組、小西一家、白神組、坂井組、一心会など山口組系組織が奈良へどんどん進出していった。

3、映像
 
 ・実録 柳川組

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)

ヤクザ抗争史 別府事件

1、抗争

 昭和24年 大分 山口組系小西組vs井田組

 昭和32年 大分 山口組系石井組vs井田組

2、戦後直後の大分県

 ・戦後直後の大分県最大のヤクザは、昭和初年に北海道から別府に移ってきた井田栄作率いる井田組であった。

3、山口組系小西組vs井田組

 (1)、小西組の結成

  ・小西豊勝は子分を引き連れて、大阪ー別府間の汽船で、船客相手に賭博を開帳していた。やがて小西豊勝は別府に居を構え、小西組を結成した。

 (2)、井田組との抗争

  ・小西組の存在を苦々しく思った井田栄作は、井田組直営の遊技場から小西組を締め出した。小西組も街頭で賭博を開帳するなどして井田組を挑発した。

 (3)、事件

  ・昭和24年11月、石井一郎他4名の小西組組員が、井田栄作を日本刀で切りつけて重傷を負わせた。この事件直後、小西組には山口組本家をはじめその系列組織が、井田組には本多会系の組織が駆けつけ、一触即発の状態となった。

 (4)、小西組の解散

  ・この抗争について、大分県警は小西組を徹底的に弾圧した。小西豊勝以下20人の組員が逮捕され、昭和25年10月には団体等規制令によって、小西組は解散させられた。

   cf.なお昭和40年に小西豊勝は賭博のもつれから本多会員に刺殺される。小西組は実弟の小西音松によって継承され、山口組の全国進出の先鋒を担っていった。後に小西一家に改められている。

4、山口組系石井組vs井田組

 (1)、石井組の結成

  ・小西組において井田栄作を襲撃したメンバーに石井一郎がいた。石井は出所後、田岡一雄の舎弟であり北九州のテキヤの実力者である村上義一の盃を受け、別府市を中心とする縄張りを譲り受け、石井組を結成した。

 (2)、井田組の衰退と石井組の躍進
  
  ①、井田組の衰退

   ・復帰した井田栄作は、再び興行で財を蓄えて、別府商工会議所議員や別府市会議員になってゆき、ヤクザ稼業からは離れていった。

  ②、石井組の躍進

   ・石井は村上組の若頭となり、別府移動商業組合長にもなった。さらに、従来は井田組が握っていた天津羽衣、玉の海一行の角力興行などの勧進元も手に入れた。

 (3)、事件

  ①、石井組が井田組から博覧会の利権を奪う

   ・昭和32年3月に別府温泉観光産業大博覧会が開催された。この博覧会場内外の施設権は市議会議員でもあった井田栄作が持っていたが、石井組は「国産館」の経営権を強引に譲り受けた。

  ②、石井一郎銃撃事件

   ・昭和32年3月、井田組組員が博覧会場前広場で石井一郎を銃撃し、石井は重傷を負った。

  ③、石井組の返し

   ・石井組は猛反撃に出る。石井銃撃事件の共犯であった別府市会議員・堀泰二郎を刺殺し、さらには井田栄作の自宅を銃撃して殴り込みをかけた。井田栄作は別府警察署に逃げ込んだ。

  ④、応援部隊の集結

   ・西日本各地から、石井組と井田組の応援隊がやってきて、その数は400人ほどになった。白昼、ピストルや短刀をちらつかせながら街中を歩いたことから、大分県警は両組に多衆不解散罪の適用を警告して解散を命じた。

  ⑤、手打ち

   ・福岡県の小松正雄、大野留吉、原田大五郎が仲裁に入り、手打ちが成立した。

 (4)、影響

  ①、石井組の隆盛

   ・石井はこの抗争で懲役7年の判決をうけた。しかし、石井組はますます隆盛し、神戸芸能社系の石井興行社、石井建設、砂利収取販売などのシノギを持ち、組員は120人を数えるに至った。出所した石井は昭和33年に、田岡から盃を受けて山口組直系若衆となった。

  ②、凶器準備集合罪の新設

   ・この抗争で両組の助っ人が凶器を持って集結したことから、昭和33年に凶器準備集合罪が追加された。この条文以前は、ヤクザを取り締まる条文は存在していなかった。

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)


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