ヤクザ組織小史 工藤會

 今回は、『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)と『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011、イースト・プレス)、「短期集中連載 工藤會 野村悟総裁「獄中記」後編」『週刊実話』20191112より、工藤會の歴史をまとめます。

1、意義

 ・工藤会と草野一家が一体化して「工藤會」となった。数々の抗争で武闘派ぶりを見せ付けた一方で、不良外国人を排斥するなど地元の治安を守ってきたという自負を持つ。また、反権力志向が強く、さらにカタギにも攻撃を加えることから、平成24年(2012)の第五次改正暴対法時には、新設された「特定危険指定暴力団」に全国で唯一指定された。他組織とは、道仁会、太州会、二代目熊本會と「四社会」を結成し交流をしている。

2、来歴

 (1)、初代工藤玄治

  ①、結成

   ・明治42年(1909)福岡県行橋に生まれ、20歳半ばで渡世の道にはいり、大阪や山陰筋で一匹狼の博徒として名前を売った。その後、昭和24年(1949)に「工藤組」を結成して次第に勢力を拡大していった。結成当初から草野高明は若頭であった。

  ②、工藤会と草野一家の抗争

   ア)、紫川事件

    ・昭和37年(1962)の博多事件で九州ヤクザに大動員作戦の威力をみせつけた三代目山口組は、北九州市進出をもくろんで工藤組と対立した。昭和38年(1963)、工藤組の幹部が射殺されるとその報復として、三代目山口組地道組安藤組組員2名を拉致・殺害して紫川へ投げ捨てるという事件を起こした。
 
   イ)、工藤系と草野系の対立の源流

    ・紫川事件で草野は殺人教唆に問われて10年の刑に服した。時は第一次頂上作戦の最中であり、さらに公共事業などにも関わっていた工藤に累が及ばないようにとの配慮から、草野は未決拘留中の昭和41年(1966)に「工藤組脱退、草野組解散」を工藤に相談なしに発表した。これに対して、工藤は一方的な親子絶縁であるとして草野を破門にした。この工藤系と草野系の対立が、後々まで工藤會の歴史に影響を及ぼしてゆく。

   ウ)、草野が親山口組となる

   ・昭和52(1977)年に草野は刑期をおえて出所するが、工藤組改め工藤会の出迎えはなく、放免祝いをしてくれたのは抗争相手であった三代目山口組組長・田岡一雄であった。これに草野は感動し親山口組となった。工藤系と草野系の対立構造は、反山口組と親山口組という構図にもなった。

   エ)、草野一家結成

   ・草野は昭和53年(1978)に、元草野組組員を束ねて渡世に復帰し、草野一家を結成した。さらに、昭和54年(1979)には、三代目山口組伊豆組組長・伊豆健児と兄弟盃をかわした。

   オ)、工藤会と草野一家の抗争

    ①、溝下会長襲撃事件(工藤会→草野一家)

     ・草野一家極政会会長・溝下秀男が、田中新太郎率いる工藤会田中組の組員に襲撃されて怪我を負った。田中は、紫川事件で若頭の草野が服役中に工藤組を守った若手のホープであった。

    ②、田中組長射殺事件(草野一家→工藤会)

     ・昭和54年(1979)12月13日、溝下会長襲撃事件の報復と田中が草野と伊豆の結縁式の出席しなかったことを理由として、田中は愛人宅で草野一家極政会の組員2人に射殺された。その後も、双方の事務所の銃撃や喧嘩が断続的に起こった。
    
    ③、堺町事件

     ・昭和56年(1981)2月4日、北九州小倉で草野一家大東亜会会長・佐古野繁樹と工藤会矢坂組組長・矢坂顕が口論となり、やがて佐古野が矢坂組組員に撃たれた。佐古野は倒れながらも矢坂を撃った。結局、佐古野も矢坂も両人死亡した。

    ④、抗争の激化

     ・この後、草野一家と工藤会は双方の関連組事務所へ銃撃し、さらには草野一家には山口組系の石井組や伊豆組が、工藤会には反山口組である関西二十日会の縁につながる組長や福岡市の仲間が助っ人に駆けつけた。山口組対反山口組の「九州代理戦争」となる緊迫した情勢となった。

   カ)、手打ち

    ・工藤と草野の両者を古くから知る稲川会総裁・稲川聖城が仲裁にのりだし、昭和56年(1981)2月25日に手打ちが行われて抗争は終結した。ただし、手打ちの条件として、工藤は草野の破門を解く代わりに、ゆくゆくは工藤会の跡目を草野に譲るということになった。

 (2)、二代目草野高明

  ・昭和62年(1987)、工藤会と草野一家は一体化して、「工藤連合草野一家」となった。人事は、総裁に工藤玄治、総長に草野高明、若頭の溝下秀男、本部長に野村悟という顔ぶれである。

 (3)、三代目溝下秀男

  ①、就任

   ・平成2年(1990)、溝下秀男が二代目工藤連合草野一家の総長となった。人事は、名誉総裁に工藤玄治、二代目総裁に草野高明、二代目総長に溝下秀男、総長代行に天野義孝、若頭に野村悟となった。

  ②、指定暴力団

   ・平成4年(1992)、暴力団対策法に基づく指定暴力団となった。これに対して、山口組や会津小鉄会とともに「暴対法は違憲である」という指定取消を求める行政訴訟を起こした。

  ③、工藤連合と草野一家の一本化へ

   ア)、意義

    ・平成3年(1991)に草野総裁が、平成8年(1996)に工藤名誉総裁が他界し、その三回忌法要をすませた直後の平成11年(1999)、溝下は、工藤連合と草野一家の一本化を進めるために、「工藤連合草野一家」から「工藤會」への名称変更を企図した。

   イ)、やり方

    ・まずは、平成11年(1999)にすでに故人となった工藤連合草野一家初代・草野高明に工藤会の二代目を継承させるための「故草野高明儀工藤会二代目継承法要式典」を挙行した。続いて、組織名を「工藤連合草野一家」から「工藤會」と改め、溝下自らは工藤會の三代目会長に就任した。その他、会長代行は天野義孝が、理事長は野村悟が務めた。

 (4)、四代目野村悟

  ①、出生

   ・野村は、昭和21年(1946)に、小倉市(現北九州市)の裕福な農家の末っ子として生まれた。後に売却される工藤會本部あたりの土地はほとんど、野村の父が所有していたという。中学時代から不良少年達(北九州では「ワルソウ」という)のリーダーとして暴れ、十代の頃から賭場に出入りしていた。

  ②、渡世入り

   ・野村は、26,27歳頃に工藤会二代目田中組組長・木村清純の盃を受けて渡世入りした。その後出世してゆき、昭和62年(1987)には三代目田中組組長となり、同年初代工藤連合草野一家が結成された時には本部長の座に、平成11年(1999)の工藤會への改称時には理事長の座に就いた。

  ③、就任

   ・平成12年(2000)、野村は溝下から会長職を譲られ、四代目工藤會会長に就任した。溝下は総裁職に就いた。



 その後溝下は、平成18年(2006)に総裁職を辞し名誉顧問となり、平成20年(2008)に死去した。

  ④、暴力団排除条例

   ・工藤會は警察から厳しい規制を受けており、平成18年(2006)、福岡県警が「北九州地区暴力団総合対策現地本部」を設置した。さらには、平成22年(2010)、全国で始めて総合的な暴力団排除条例が福岡で制定されると、さらに厳しい規制を受けるようになった。

 (5)、五代目田上文雄

  ①、就任

   ・平成23年(2011)、野村は会長職を理事長であった田中組組長・田上文雄へ譲り、自らは総裁職に就いた。その他は、会長代行に本田三秀、理事長の菊池啓吾、理事長代行に木村博である。



  ②、「特定危険指定暴力団」

   ア)、暴対法第五次改正

    ・平成24年(2012)の暴対法第五次改正において、抗争を繰り広げてきた道仁会と九州誠道会を対象とした「特定抗争指定暴力団」と、工藤會を対象とした「特定危険指定暴力団」の規定が盛り込まれた。

   イ)、行政訴訟の提起

    ・工藤會は、「指定の根拠づける事実がない」「結社の自由を侵害している」などとして処分の取消を求める行政訴訟を提起した。

  ③、極政組元組長射殺事件

   ・平成24年(2012)、工藤會二代目極政組元組長・江藤允政が、福岡県筑紫野市のマンションで射殺された。犯人は不明であるが、江藤は、溝下の後任として極政組二代目組長を務めていたので、背景には旧草野系と旧工藤系の対立があったと思われる。

  ④、野村総裁・田上会長の逮捕

   ・野村は、平成10年(1998)2月に起こった元漁協組合長射殺事件で殺人と銃刀法違反の罪、平成25年(2013)に起こった看護師襲撃事件で組織犯罪処罰法違反罪、平成26年(2014)に起こった漁業組合長の孫である歯科医師襲撃事件でも組織犯罪処罰法違反罪で起訴された。さらに、平成27年(2015)6月16日には、上納金を脱税した疑いで所得税法違反で野村以下工藤會の四人の幹部が逮捕された。これにより、実質的な組織のトップは、旧草野系の会長代行・本田三秀となった。しかし、その本田も、平成26年(2014)に起こった漁業組合関係者が関与する会社の元従業員である女性を北九州市内のマンションで襲撃した事件の指導者だったとして、令和元年(2019)12月に逮捕された。

  ⑤、本部事務所の売却

   ・平成30年(2018)、北九州市は、固定資産税が滞納されているとして、工藤會本部事務所を差し押さえた。さらに、翌平成31年(2019)8月には、北九州市と工藤會が本部事務所の売却代金から建物の解体費用と固定資産税の滞納分を控除した額を、被害者の損害賠償に充てることが合意され、同年9月に、福岡県暴力追放運動推進センターを介して、ホームレス支援に取り組むNPO法人「抱樸(ほうぼく)」へ約1億円で売却することが決定された。




ヤクザ組織小史 会津小鉄会

 今回は、『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)と『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)より、会津小鉄会の歴史をまとめます。

1、意義

 ・幕末から明治にかけての大侠客「会津の小鉄」こと上坂仙吉に連なる京都の名門博徒組織。

2、来歴

 (1)、初代上坂仙吉

  ・「会津の小鉄」こと上坂(こうさか)仙吉が幕末から明治にかけておこした組織が始まりである。関西一円に子分1万人と言われる大組織であった。上坂仙吉は京都守護職を務めた会津藩の会津屋敷鳶部屋で部屋頭として働く一方で博打も行ったことから「会津の小鉄」と言われた。しかし、明治新政府の博徒狩りによって逮捕され、入獄中に体を壊して亡くなってしまう。

 (2)、二代目上坂卯之松

  ・明治18年(1885)、初代が53歳で亡くなり、二代目は実子の上坂卯之松が継いだ。昭和14年(1939)に二代目は亡くなったが、その名跡の重さから三代目を継承する者はいなかった。

 (3)、三代目図越利一

  ①、生い立ち

   ・図越利一は大正2年(1913)に京都市下京区で生まれる。図越家は高瀬川沿いの世話役を勤める父利三郎のもとで比較的裕福であったが、その周辺は内浜とよばれる水運地帯であり環境は最悪であった。図越利一は子どもの頃からケンカと博打にあけくれる。やがて愚連隊を率いて盛り場を荒らし、傷害致死で22歳の時には京都刑務所に服役もしている。出所後も盛り場を荒らして回る日々を過ごしていた。

  ②、中島会

   ・中島会は、中島源之介によって結成され、戦後の京都で盤石の基盤を築いた組織である。初代会津小鉄で若頭を務めた「いろは幸太郎」こと長谷川伊三郎の孫分にあたる水車政の若い衆「ヘン徳」こと木村徳太郎が中島の親分であった。図越利一は、この中島源之介から昭和16年(1941)に盃をうけて渡世入りした。昭和35年(1960)に中島源之介が亡くなると、図越利一は中島会の二代目を継承した。

  ③、京都ヤクザを統一する
  
   ・図越利一はやがて京都のヤクザをまとめて中島連合会を発足させ、自らその会長となった。

  ④、木屋町事件

   →木屋町事件

  ⑤、会津小鉄会を名乗る

   ・由緒ある会津小鉄の名跡が埋もれていることを惜しんだ大阪の長老である小久一家総長・石本久吉らの再三の要請によって、昭和50年(1975)、会津小鉄の九十年忌法要の席で図越利一は正式に会津小鉄の三代目を継承し、自らが「総裁」となり、名跡を「会津小鉄会」とし、代紋を「大瓢箪」に統一した。

 (4)、四代目高山登久太郎

  ①、就任

   ・昭和61年(1986)、高山登久太郎が四代目会長を襲名した。これにより、図越総裁ー高山会長体制が確立した。

  ②、反暴対法キャンペーン

   ア)、反暴対法キャンペーン

    ・高山は、新左翼系の遠藤誠弁護士を呼んで勉強会を主催したり、平成3年(1991)秋には五代目山口組組長・渡辺芳則、三代目稲川会会長・稲川裕紘、住吉会会長・西口茂男らとともに「極道サミット」を開催したり、メディアに積極的に露出して暴対法粉砕を主張した。

   イ)、暴対法施行後

    ・暴対法が施行されると高山は、行政訴訟を提起したり、テレビに出演して暴対法反対の論陣を張った。さらに、平成4年(1992)には『警鐘』という本を発刊して話題を集めた。

  ③、会津会館の建設

   ・高山の時代はバブル経済の時期であり、会津小鉄会は用心棒代や、土建建設事業だけでなく、京都における地上げでかなりの利益を得る。平成元年(1989)、会津小鉄会は四階建て、延べ床面積約1900平方メートルの「会津会館」を総工費20億で建設した。

  参考)、四代目会津小鉄会の経済的基盤

  ④、山口組との相次ぐ抗争事件

   ア)、山下組組員警官誤射殺事件

   ・木屋町事件以来山口組は京都へ進出しない約束が定まったが、平成になると再び山口組の京都進出が進み、抗争が相次ぐようになる。平成7年(1995)には、京都市左京区の会津小鉄会系山浩組事務所前で警戒中だった私服警官が、五代目山口組系山下組組員に、会津小鉄会系組員と誤認されて射殺された事件が起こっている。この事件では五代目山口組組長・渡辺芳則が使用者責任を問われた。

   イ)、八幡事件

   ・平成8年(1996)、京都府八幡市の理髪店で、五代目山口組若頭補佐・中野太郎が、四代目会津小鉄会系組員に銃撃され、応戦した中野会幹部によって会津小鉄会系組員2人が射殺された事件が起こった。この事件は翌年、発生した宅見勝若頭射殺事件の原因にもなっている。

  ⑤、山口組との関係強化

   ・会津小鉄会の首脳部は、平成5年(1993)に高山と五代目山口組組長・渡辺芳則が食事会をしたり、平成8年(1996)には五代目山口組若頭補佐・桑田兼吉、四代目共政会会長・沖本勲、四代目会津小鉄会若頭・図越利次の3人で五分の兄弟盃を交わしたりして関係強化を図った。

  ⑥、高山の引退

   ・高山の息子が経営する不動産会社が、石垣島で計画したリゾート開発に失敗し、数百億円の借金を作った。この結果、高山の権威が失墜し、「追い込みはかけない」「身体の安全は保証する」、もしいったん͡コトがあれば山口組が守ることを条件として、高山は引退をした。

 (5)、五代目図越利次

  ①、就任

   ・平成8年(1996)暮れ、総裁の図越利一が引退、翌年の平成9年(1996)には会長の高山も引退し、その跡目を図越利一の実子である図越利次が継承した。この継承式では五代目山口組組長・渡辺芳則が後見人、親戚総代は三代目稲川会会長・稲川裕紘が務めた。

  ②、六代目山口組組長・司忍と代紋違いの舎弟になる

   ・平成17年(2005)、図越利次は六代目山口組組長・司忍と代紋違いの舎弟となった。これにより両者の関係はより親密なものとなった。

 (6)、六代目馬場美次

  ・平成20年(2008)、図越利次が引退して、長年理事長を務めてきた馬場美次が六代目会長に就任した。この継承式では、六代目山口組若頭・高山清司が後見人を務めた。その後も、馬場や若頭の金子利典ら最高幹部は、頻繁に神戸を表敬訪問して六代目山口組との関係を親密にした。

 (7)、二つの会津小鉄会
 
  ①、山口組の分裂

   ・平成27年(2015)、六代目山口組から神戸山口組が分裂をした。この影響が会津小鉄会にも及ぶ。馬場は六代目山口組に、六代目山口組若頭・高山清司の後見返上を申し出た。これに対して、六代目山口組は激怒した。六代目山口組三代目弘道会の幹部が会津小鉄会に乗り込み、馬場の引退と若頭・原田昇の七代目会長就任を決定し、その旨がFAXで友誼団体に送信された。

  ②、神戸山口組の反撃

   ・馬場の引退と原田七代目の強引な決定に対して、馬場は神戸山口組の幹部を引き連れて、会津小鉄会本部にいる原田派と弘道会幹部を追い出いそうとした。

  ③、金子派会津小鉄会

   ・平成29年(2017)1月21日、馬場が総裁となり、六代目会津小鉄会で顧問を務めた四代目いろは会会長・金子利典が、神戸山口組の支援のもとで、七代目会津小鉄会会長を襲名した。

  ④、原田派会津小鉄会

   ・同年2月7日、原田が七代目会津小鉄会を襲名した。後見人は六代目山口組若頭補佐で三代目弘道会会長の竹内照明であり、襲名式には六代目山口組の直系組長が大勢参列した。



  ⑤、金子会長襲撃事件

   ・同年5月19日、京都市左京区の路上で、六代目山口組四代目吉川組組員が、銭湯から出て車に乗り込む途中の金子らを襲撃し、鉄パイプで殴って重傷を負わせる事件が起こった。

  ⑥、金子派会津小鉄会が七代目会津小鉄会へ

   ・平成30年(2019)4月19日、京都府公安委員会は、「六代目会津小鉄会」から「七代目会津小鉄会」に名称変更をした旨を公示した。この際、代表者は「金元(金子利典)」とされたことから、暴対法において「七代目会津小鉄会」として指定暴力団とされたのは、金子派会津小鉄会ということになる。

  ⑦、指定暴力団ではない原田派会津小鉄会に暴対法が適用される

   ・暴対法制定過程において、暴対法が指定暴力団以外の組織に適用されないか危惧されていたこともあって、暴対法の運用は慎重に行われていた。原田派会津小鉄会の心誠会事務所は、同組織が指定暴力団であった平成29年(2018)に、暴対法に基づいて使用を禁止する仮処分が命じられた。しかし、平成30年(2019)4月19日に金子派会津小鉄会が「七代目会津小鉄会」として指定暴力団と認定されたことによって、原田派会津小鉄会は指定暴力団ではなくなった。したがって、京都府暴力追放運動推進センターが改めて心誠会事務所に、暴対法に基づく使用禁止の仮処分を求めた。これに対して、平成30年(2019)9月、京都地裁はこの仮処分を認める決定をした。これにより、史上初めて指定暴力団ではない組織に暴対法が適用されたことになる。




ヤクザの抗争史 四ツ木斎場事件

 今回は、『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)、「拘置所で自殺したとされる死刑囚 雑誌への「告白」の背景に黒幕の存在か」(『週刊新潮』2020年2月6日号)より四ツ木斎場事件をまとめます。

1、抗争

 平成13年(2001) 東京都 稲川会大前田一家vs住吉会向後睦会・幸平一家

2、四ツ木斎場襲撃事件(稲川会→住吉会)

 (1)、事件

  ・平成13年(2001)8月18日、東京都葛飾区にある四ツ木斎場での住吉会向後睦会幹部の通夜において、列席していた向後睦会会長・熊川邦男が稲川会大前田一家小田組幹部・吉川一三と小田総業幹部・村上善男に射殺された。さらに、熊川の近くにいた住吉会滝野川一家総長・遠藤浩司と住吉会向後睦会桜井組幹部・西村俊英にも命中し、遠藤は死亡、西村も重傷を負った。ヒットマンの吉川一三と村上善男は取り押さえられ、警視庁の説得に応じて住吉会側から警視庁に引き渡された。原因は、さまざま言われているが不明である。

 (2)、手打ち

  ・稲川会はすぐに大前田一家七代目総長・小田建夫を絶縁とし、さらに、稲川会総本部長・岸本卓也が責任をとる形で引退をした。この稲川会のすばやい対応と住吉会の自制によって報復行動は抑えられたように思われた。しかし、住吉会の上層部が抑え込もうとしても抑え込むことはできず、おもに住吉会幸平一家が報復を担った。

3、住吉会幸平一家の報復(住吉会→元稲川会)

 (1)、日医大射殺事件

  ①、前史

   ・平成14年(2002)2月21日、大前田一家元総長宅近くに、住吉会幸平一家矢野睦会幹部・石塚隆が銃弾を撃ち込んだ。同年2月24日、石塚は路上で脇腹を撃たれて、日本医科大学付属病院へ搬送された。

  ②、日医大射殺事件

   ・平成14年(2002)2月25日、日本医科大学付属病院の高度救命救急センター集中治療室のベッドで寝ていた石塚を、住吉会矢野睦会幹部・辰力正雄と同会関係者・新居久三雄が射殺した。石塚が抗争から逃げ出そうとしたことに対する口封じとして、住吉会幸平一家矢野睦会会長・矢野治が指示したものであった。

 (2)、大前田一家元総長宅襲撃事件

  ・平成14年(2002)3月、矢野に指示された男数人が、大前田一家元総長宅に火炎瓶を投げ込み、さらにガソリン噴射機で放火しようとした。関係者に発見され未然に防がれた。

 (3)、前橋スナック乱射事件

  ①、事件

   ・平成15年(2003)1月25日、四ツ木斎場事件の時に見届人であったという噂の大前田一家元本部長・後藤邦雄が、前橋市にあるスナック加津で襲撃された。襲撃した住吉会幸平一家矢野睦会幹部・小日向将人と同幹部・山田健一郎は無差別乱射を行い、以前から命を狙われていた後藤は机の下に潜んで助かったが、なんの関係もない市民3人と後藤のボディーガードをしていた男性1人の計4人が射殺され、1人が重傷を負った。

  ②、逮捕

   ・襲撃後すぐに小日向と山田は偽造パスポートでフィリピンへ高飛びしたが、当局に不法滞在で身柄を拘束されて日本に送り返された。結局、小日向と山田、そして射殺を命じた首謀者として矢野が逮捕された。その後、この三名には死刑判決が下された。

 (4)、刑務所内での襲撃事件

  ・平成18年(2006)、四ツ木斎場襲撃事件の実行犯であった吉川一三が熊本刑務所内で、住吉会幸平一家加藤連合の組員によってキリで十数カ所を刺されて重傷を負った。また、村上善男も徳島刑務所内の風呂場でリンチをうけ、その後自殺をした。

4、東京拘置所内での自殺

 (1)、矢野の告白

  ・平成26年(2014)、矢野の死刑が確定した。その後矢野は、平成9年(1997)に、小田急線伊勢原駅前の再開発を巡り、土地の地上げのトラブルから地主の男性の殺害を住吉会系組織の幹部から依頼され、さらに矢野が他の組長に殺人をあっせんをした事件と、平成10年(1998)に、住吉会の企業舎弟であった斎藤衛(稼業名は龍一成)を金銭トラブルから矢野が絞殺した事件の警察が把握してない2件の殺人事件への関与を告白した。

 (2)、無罪判決

  ・警察の捜査により、矢野の証言通りに2人の遺体が発見され、矢野は平成29年(2017)に殺人容疑で逮捕された。しかし、公判で矢野は無罪を主張し、平成30年(2018)、東京地裁は「死刑執行を引き延ばすためにうその告白をする動機が十分にあり、信用できない」として無罪を言い渡した。

 (3)、矢野の自殺

  ・令和2年(2020)1月26日、矢野は東京拘置所で死亡しているのが発見された。自殺したとみられている。理由は、無罪判決により死刑引き延ばしの道が断たれたからとも、逆に告白を死刑執行の引き延ばしに利用しているという批判への抗議の意志からとも、また令和元年(2019)12月に中国人強盗殺人犯の死刑が執行されたことに動揺していたからとも言う。


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