ヤクザ組織小史 山口組 六代目山口組における山健組と弘道会の対立

 今回は、『六代目山口組ドキュメント 2005~2007』(溝口敦、講談社、2013)、『憚りながら』(後藤忠政、宝島社、2010)、『鎮魂 ~さらば、愛しの山口組』(盛力健児、宝島社、2013)、『血別 山口組百年の孤独』(太田守正、サイゾー、2015)、『山口組三国志 織田絆誠という男』(溝口敦、講談社、2017)より、六代目山口組における山健組と弘道会の対立についてまとめます。

1、意義

 ・山健組出身の渡辺芳則が組長となった五代目山口組の時代、山健組は「山健にあらずんば、山口組にあらず」といわれほど隆盛を極めた。しかし、弘道会出身の司忍が組長となった六代目山口組の時代になると、弘道会と山健組との間で対立が起こるようになった。

2、四代目山健組の成立と山健組改革

 (1)、三代目山健組若頭へ

  ・渡辺は、五代目山口組の執行部に、大阪戦争で17年の懲役をつとめた井上邦雄を入れようとし、井上は急速に出世をしていった。平成11年(1999)に四代目健竜会会長を襲名、平成15年(2003)5月に橋本弘文に代わって三代目山健組若頭となった。橋本は組長代行となり、三代目山健組組長・桑田兼吉の跡目は、井上か橋本ということになった。

 (2)、桑田兼吉保釈問題

  ①、事件

   ・三代目山健組組長・桑田兼吉は、平成9年(1997)12月、ボディーガード役の組員に拳銃と実弾を持たせていたとして、銃刀法違反の共謀共同正犯の容疑で逮捕された。裁判は一審も二審も「所持について暗黙の意思の連絡があったといえ、実質的には被告が所持させていたといえる」として、共謀共同正犯の成立を認めた。平成15年(2003)5月に最高裁もこの判断を妥当として、桑田に懲役7年の実刑判決が確定した。桑田は、平成17年(2005)に引退をした。

  ②、鶴城丈二射殺事件

   ア)、検察裏金問題

    ・平成14年(2002)頃、検察は裏金問題で主流派と反主流派に分かれて内紛が起こっていた。反主流派の検事・三井環は報道番組で検察の裏金を暴露しようとした。これに対して、主流派の検事が三井を追い落とそうとして、三井がヤクザに接待を受けていた事実を明らかにしようとしていた。この三井を接待していたヤクザが佐藤組内六甲連合会会長・亀谷直人であり、亀谷は検察から、三井逮捕に協力してくれたら桑田の保釈を考えると言われていた。

   イ)、鶴城丈二射殺事件

    ・亀谷はこの話を、山健組系太田興業傘下侠友会二代目会長・鶴城丈二に持って行った。工作費として2億円が必要であるとされので、山健組は2億円をすぐに用意して亀谷に渡した。しかし、桑田の保釈申請は一度目も二度目も却下された。平成14年(2002)11月、このことについて鶴城は亀谷を問い詰めたが、この時亀谷は東京駅八重洲冨士屋ホテル前で鶴城を射殺した。山健組が用立てた2億円がどこに行ったのかは不明であるが、佐藤組が肩代わりして山健組に返納された。

  ③、繁田問題

   ・桑田保釈問題に関しては、もう一つ繁田問題も起こった。鶴城の他に桑田保釈工作に動いていた山健組関係者に、山健組系繁田会会長・繁田誠治がいた。前記の山健組が用意した桑田の保釈金2億円が消える事件が起こったことにより、責任者であった繁田は絶縁処分となった。しかし、繁田は絶縁後も堂々と神戸の街を飲み歩いていたことから、平成15年(2003)12月、神戸元町の飲食店前で刺殺された。この時動いたのが、当時井上の腹心であった織田絆誠と言われているが、警察も証拠がないので織田を逮捕することができなかった。そして、この繁田問題を解決したことによって、桑田の後継者レースは、若頭の職責を果たした井上が優位となった。

 (3)、四代目山健組の成立

  ・平成17年(2005)7月に六代目山口組が成立すると、同年8月に井上は四代目山健組組長を襲名し、六代目山口組幹部となり、さらに同年12月には六代目山口組の若頭補佐となった。

 (4)、山健組改革

  ①、意義

   ・当時の山健組の直参は平均年齢は70歳で「花隈老人ホーム」と揶揄されるほど高齢化していた。また、東日本にどんどん進出していた弘道会に対して、山健組は出遅れていた。よって、四代目山健組組長を襲名した井上は、①直参の世代交代と②東日本エリアの強化を目的として、山健組改革に取り組んだ。そして、井上の特命によりこの改革に取り組んだのが織田絆誠であった。

  ②、世代交代

   ・織田はそれまで率いていた織田興業を「邦尽会」と改称して、腹心の金澤成樹を二代目会長として譲り、自らは一人親方となった。そして、山健組の古参の直参達に代替わりするように説得してまわり、山健組は3年くらいで直参50団体以上の代替わりに成功した。山健組直参の平均年齢が50歳くらいに下がり、組織も活性化した。

3、三島組組長・三島敬一の絶縁問題

 ・平成17年(2005)、山健組系健竜会内三島組組長・三島敬一が絶縁処分となった。三島は、四次団体の組長ではあるが、五代目山口組組長・渡辺芳則や、中野会会長・中野太郎とも兄弟分であった大物組長であり、大阪の西成を拠点として、覚せい剤の売買をシノギとしていた。これを六代目山口組若頭・高山清司が問題として、高山の指導で絶縁処分としたものであった。

4、多三郎一家総長・後藤一男刺殺事件

 (1)、事件

  ・多三郎一家は弘道会がある名古屋を地盤としている山健組系の団体であった。平成18年(2007)5月、多三郎一家総長・後藤一男が、兵庫県神戸市の山健組本部近くで刺殺された。平成21年(2009)から犯人が逮捕されてゆき、最終的には首謀者として、平成22年(2010)に四代目山健組若頭・山本国春が組織犯罪処罰法違反容疑で逮捕された。合計13名が逮捕されている。

 (2)、原因

  ・警察は、後藤が普段から六代目山口組若頭・高山清司を批判する放言をしており、これを録音したテープを入手した山口組執行部が山健組に事情聴取をした。これに対して、山健組が体面を保つために後藤を刺殺したとする。

 (3)、不穏な事件が続く多三郎一家

  ①、幹部の自殺

   ・多三郎一家は後藤刺殺事件後、後継団体として多三郎一家内福富組組長・福富弘が山健組の直系組長へと昇格した。平成18年(2007)7月、この山健組系福富組幹部・大滝良友が、名古屋市昭和区の駐車場に停車中の車内で自殺する事件が起こった。大滝は後藤を刺殺した犯人であるとも言われている。

  ②、側近の射殺

   ・平成18年(2007)10月、東京都御徒町のアメ横近くで、多三郎一家内福富組元幹部・中西真一が射殺された。中西は後藤の側近で、後藤が襲撃された時もボディーガードとしてついていた。事件時はとっさに逃げて難を逃れたが、その後も「俺も殺られる」と言って行方をくらまし、組から破門されていた。

5、後藤組の除籍と2008年の大量処分騒動

 (1)、後藤組長除籍問題

  ①、意義

   ・平成20年(2008)10月、後藤組組長・後藤忠政が、六代目山口組から除籍処分を受けた。後藤は15日間考えた上で、同年10月17日に六代目山口組執行部に受け入れる旨を伝え、翌日に若頭・良知政志と総本部長・塚本修正を連れて名古屋の弘道会本部に出向いた。これにより、後藤組は解散し、旧後藤組勢力は良知組と藤友会が新たに直参となった。

  ②、原因

   ・後藤は、山口組総本部で月1回開かれる定例幹部会を、病気療養でたびたび欠席していた。さらに、『週刊新潮』が「大物『暴力団組長』誕生日コンペ&パーティーに『細川たかし』『小林旭』『角川博』『松原のぶえ』」という記事を掲載したことから、山口組執行部は後藤に釈明を求めていた。

 (2)、2008年の怪文書事件

  ①、意義

   ・後藤組除籍問題と同じころ、山口組の事務所やマスコミ宛てに、六代目山口組の直参13人の氏名が記された、連判状に模した怪文書がばらまかれた。この怪文書に名前があった盛力会会長・盛力健児も、太田興業会長・太田守正も、自著の中で署名した覚えはないと証言する。

  ②、内容

   ・後藤組組長・後藤忠政の除籍処分はおかしい

   ・長引く不況の中五代目時代の会費に比べて35万円も増えているのはおかしい

   ・強制ではないが飲料水や雑貨の購入はおかしい

  ③、13人の直参

   ・山健組から直系組長に取り立てられた者や山健組から直系組長に取り立てられた組織を継承した者として、盛力会会長・盛力健児、太田興業会長・太田守正、三代目大門会会長・奈須幸則、二代目浅川一家総長・浅川睦男、四代目北岡会会長・宮本浩二がいた。また、浅川会会長・浅川桂次は、浅川一家で長年にわたり総長代行を務め、後に直系に取り立てられた者である。さらに、二代目難波安組組長・小林治や、中野会から直系に取り立てられた井奥会会長・井奥文夫は、五代目山口組で組長秘書を務めていた者である。その他、浅井組組長・浅井昌弘、六代目奥州会津角定一家総長・小野守利、二代目一心会会長・川崎昌彦、二代目倉本組組長・津田功一、二代目岸本組組長・清水武の名前があった。 

 (3)、反弘道会の会合

  ①、三代目大門会会長・奈須幸則の動き

   ア)、幻の本家寄り合いでの抗議

    ・太田は奈須から「会長は山健組と弘道会が喧嘩したら、どっちにつきますか」と問われ、「わしは山健組ひとすじの男やど」と答えた。この後、太田は奈須から六代目山口組若頭・高山清司についていけないものが本家の寄り合いで発言をするから、その時は一緒に立ち上がって欲しいと頼まれた。しかし、実際の本家の寄り合いでこのようなことは行われなかった。

   イ)、後藤組組長・後藤忠政との会合

    ・反弘道会勢力を作るために後藤組と山健組の武闘派を結び付けようと考えた奈須は、後藤と太田の会合を設けた。さらに、後藤、太田、盛力の会合も設けようともした。

  ②、反弘道会の会合

   ・奈須はこの後も反弘道会勢力を結集しようと根回しをし、井奥が座長役となって、直系組長10数人の会合が神戸で開かれた。この会合は「今日は後藤さんも来てないから、後日また集まろう」ということで散会となったが、六代目山口組執行部に筒抜けであった。

 (4)、処分

  ・会合参加者は後日本家に呼び出され問い詰められた。そして、奈須と井奥が絶縁、太田、浅川兄弟、川崎、小野が除籍処分となった。さらに、3ヶ月後に、盛力も除籍処分となった。

6、山神抗争

 ・平成27年(2015)8月、弘道会方式に反発する六代目山口組の直系組長13名が離脱し、神戸山口組を結成した。組長には四代目山健組組長・井上邦雄が就任した。


ヤクザ抗争史 道仁会と九州誠道会の抗争

 今回は、『抗争』(溝口敦、小学館、2012)より、道仁会と九州誠道会の抗争についてまとめます。

1、抗争

 平成18年(2006)から平成25年(2013) 道仁会vs九州誠道会

2、原因

 (1)、三代目会長の人事

  ・道仁会は、昭和46年(1971)に古賀磯次によって、福岡県久留米市で立ち上げられた組織である。平成4年(1992)に二代目会長の座に松尾誠次郎がついた。平成18年(2006)5月、松尾が引退を表明し、三代目会長に二代目松尾組組長・大中義久を指名した。この人事に対して、道仁会最大勢力である三代目村上一家、永石組、鶴丸組、高柳組が反発し、道仁会からの離脱を表明した。

 (2)、九州誠道会の旗揚げ

  ・平成18年(2006)7月、三代目村上一家総長・村神長二郎を会長、永石組組長・永石秀三を副会長、鶴丸組組長・鶴丸善治を相談役、四代目村上一家総長・浪川政浩として、九州誠道会が立ち上げられた。これに対して、道仁会執行部は、村上、永石、浪川らを絶縁処分とした。

3、第一次抗争

 (1)、鶴丸相談役刺殺事件(道仁会→九州誠道会)

  ・平成19年(2007)6月13日、九州誠道会相談役・鶴丸善治が佐賀県久保田町の自宅近くで、道仁会系組員に刺殺された。

 (2)、入江会長代行刺殺事件(道仁会→九州誠道会)

  ・平成19年(2007)6月19日、九州誠道会副会長・入江秀則が熊本市内の自宅で、道仁会系組員に銃撃され、刺殺された。

 (3)、大中会長射殺事件(九州誠道会→道仁会)

  ・平成19年(2007)8月18日、三代目道仁会会長・大中義久が、福岡市内の路上で、九州誠道会系村上一家内神闘総業幹部によって射殺された。道仁会は、小林哲治をすぐに四代目会長に立てて組織を整え、抗争を継続した。

 (4)、中村会長銃撃事件(道仁会→九州誠道会)

  ・平成19年(2007)8月19日、九州誠道会村上一家忠真会会長・中村文治が、熊本市内で道仁会系組員に銃撃され重傷を負った。

 (5)、佐賀入院患者射殺事件(道仁会→九州誠道会(?))

  ・平成19年(2007)11月8日、佐賀県武雄市の病院で、九州誠道会系永石組関係者と間違われて、入院中の無関係の一般男性が、道仁会系組員に射殺された。この事件は、後に九州誠道会会長・村神長二郎の引退へとつながっていった。

 (6)、古賀組長射殺事件(道仁会→九州誠道会)

  ・平成19年(2007)11月24日、九州誠道会系村上一家内古賀組組長・古賀茂喜が、大牟田市内の病院前で道仁会系組員に射殺された。

 (7)、大平組長射殺事件(九州誠道会→道仁会)

  ・平成19年(2007)11月27日、道仁会系大平組組長・大平義和が、久留米市内で九州誠道会系組員に射殺された。同時に、大平の運転手役の組員も刺殺された。

4、しばしの休戦

 (1)、指定暴力団へ

  ・平成19年(2007)12月12日、道仁会は六度目の「指定暴力団」に、平成20年(2008)2月、九州誠道会は初の「指定暴力団」に指定された。

 (2)、村神の引退と抗争終結宣言

  ・平成20年(2008)3月20日、九州誠道会会長・村神長二郎は佐賀入院患者射殺事件の責任をとって会長を引退し、抗争を終結する旨の文書を、九州誠道会の最高幹部である永石と高柳が遺族に手渡して、謝罪をした。誤射をしたのは道仁会側であったが、九州誠道会側が責任を負ったことになる。これ以後、道仁会と九州誠道会との抗争は、平成20年(2008)9月に九州誠道会会長補佐・井場徹が射殺された事件(犯人は不明)くらいで、休戦状態となった。

5、二代目九州誠道会の成立

 (1)、意義

  ・平成20年(2008)4月、九州誠道会理事長・浪川政浩が、二代目会長に就任した。

 (2)、実力者・浪川政浩

  ・浪川は、道仁会系村上一家の時代から、経済力に優れながらも喧嘩も強い実力者として知られていた。事務所は地元の大牟田にあるが大牟田ではシノギをしておらず、東京や福岡で不動産や金融を手掛けていた。東京上野に七階建てのビルを所有し、岡山、姫路、神戸、山形にも拠点を持ち、カネを通じて全国のヤクザと関係を持っていた。さらには、法律事務所は宗教法人もその傘下に収めているとも言われている。

 (3)、六代目山口組若頭補佐・井上邦雄との兄弟盃

  ・平成21年(2009)2月3日、浪川は六代目山口組若頭補佐で山健組組長の井上邦雄と、代紋違いのまま五厘下がりの兄弟盃を交わした。この時、盃事の後見人は、六代目山口組若頭・高山清司がつとめた。

6、第二次抗争

 (1)、浜之上幹部射殺事件(道仁会→九州誠道会)

  ・平成23年(2011)に入って、抗争は再び激化した。同年4月5日、九州誠道会幹部・浜之上勝則が、佐賀県伊万里市で道仁会系組員に射殺された。

 (2)、九州誠道会系組員刺殺事件(道仁会→九州誠道会)

  ・平成23年(2011)4月21日、九州誠道会系組員が、佐賀県小城市で道仁会系組員に刺殺された。

 (3)、野村幹部刺殺事件(道仁会→九州誠道会)

  ・平成23年(2011)4月24日、九州誠道会系幹部・野村裕次が、福岡市内で道仁会系組員に刺殺された。

 (4)、78歳のヒットマン事件(九州誠道会→道仁会)

  ・平成23年(2011)8月26日、九州誠道会関係者の78歳の老人が、機関銃一丁と拳銃二丁をもって、道仁会会長・小林哲治宅へ侵入し、手りゅう弾を爆発され、拳銃を発射し、警備の組員に重傷を負わせた。

 (5)、九州誠道会系組員刺殺事件(道仁会→九州誠道会)

  ・平成23年(2011)9月15日、九州誠道会系組員が、佐賀市で道仁会系組員に射殺された。

 (6)、道仁会組員襲撃事件(九州誠道会→道仁会)

  ・平成23年(2011)9月19日、道仁会系大沢組組員が、熊本市で九州誠道会系組員に銃撃され重傷を負った。

 (7)、馬田幹部襲撃事件(道仁会→九州誠道会)

  ・平成23年(2011)9月30日、九州誠道会幹部・馬田竜剛が、福岡市で道仁会系組員に銃撃され重傷を負った。

 (8)、上村幹部射殺事件(道仁会→九州誠道会)
  
  ・平成24年(2012)4月8日、九州誠道会幹部・上村隆幸が、福岡市で道仁会系組員に射殺された。

7、「特定抗争指定暴力団」へ

 ・平成24年(2012)10月に改正暴対法が施行され、同年12月に道仁会と九州誠道会が特定抗争指定暴力団に指定された。

8、抗争終結へ

 (1)、抗争終結へ

  ・九州誠道会は、平成25年(2013)6月、福岡県警久留米署に解散届を提出した。同じく、道仁会も抗争終結宣言書を福岡県久留米署に提出した。

 (2)、浪川睦会結成

  ・平成25年(2013)10月、浪川を会長として、浪川睦会が結成された。福岡県公安委員会は、浪川睦会は九州誠道会の事実上の後継組織であるとして、特定抗争指定暴力団の指定を浪川睦会へ継承させた。

 (3)、特定抗争指定暴力団解除

  ・平成26年(2014)6月、道仁会と浪川睦会への特定抗争指定暴力団の指定は解除された。

9、映像

 (1)、九州激動の1520日 ~新・誠への道~

  ・白竜さん演じる浪岡政浩を中心として、村富長次郎の高松刑務所出所から第一次抗争の終結までを、全三話でまとめています。よって、九州誠侠会側からみた抗争の歴史ということになるでしょう。九州ヤクザの抗争の映像化ですのでイケイケな雰囲気かと思いましたがそうではありません。雄仁会と九州誠侠会の板挟みになった上本幸秀が自殺に追い込まれたり、人柄がよい鶴田善治がかつて小遣いをあげて面倒みてた子に刺殺されたり、大江秀則が自分の所で部屋住み修行をしていた子によって手引きされたヒットマンにより刺殺されたり、このシリーズに漂うのはかなり厭戦的な雰囲気です。そして最後は、九州誠侠会が雄仁会の被害者をも含めて供養をするために、阿弥陀如来堂を建立した所で終わります。

  雄仁会  モデルは道仁会

  村富一家 モデルは村上一家

  松葉組 モデルは松尾組

  九州誠侠会 モデルは九州誠道会

  村富長次郎 モデルは村神長二郎 誠直也

  浪岡政浩 モデルは浪川政浩  白竜

  松葉誠次郎 モデルは松尾誠次郎 岡崎二朗

  大高義久 モデルは大中義久  山本譲二 

  古場茂喜 モデルは古賀茂喜  桑名正博

  永峰秀三 モデルは永石秀三  伊吹剛 

  冴木一馬 モデルは梅木一馬  小沢仁志

  上本幸秀 モデルは上田幸秀  松方弘樹

  鶴田善治 モデルは鶴丸善治  堀田眞三

  中森文治 モデルは中村文治  武蔵拳

  大江秀則 モデルは入江秀則  松田一三

  高原弘之 モデルは高柳弘之  石橋保

  木場徹  モデルは井場徹   小沢和義
 

ヤクザ人物史 宅見勝

 今回は、『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)と『五代目山口組宅見勝若頭の生涯』(木村勝美、メディアミックス、2012)より、五代目山口組若頭・宅見勝氏についてまとめます。

1、出生

 (1)、出生

  ・昭和11年(1936)、洋裁店を営む宅見春一、閑子の三男として神戸に生まれた。宅見の他に4人兄弟がいたが、ヤクザになったのは宅見のみである。宅見が小学1年生の頃に父春一が亡くなったので、閑子と4人の兄弟たちは閑子の実家である香川県大野村へ疎開した。宅見家は貧しかった。

 (2)、青少年期

  ・終戦後、宅見が中学2年生の時に、母の閑子も亡くなり、宅見は伯母方へ引き取られた。宅見は優秀であり、進学校で知られる大阪府立高津高校に進むが、昭和28年(1953)に誰にも相談せずに中退してしまった。

2、渡世入り

 (1)、和歌山へ

  ・宅見は、知人の紹介で、和歌山市中ノ島の遊郭で働きだした(バーのマネージャーとして働いていたという説もある)。ここで、宅見は晴子と出会った。晴子の家は堅気の家であったことから、宅見との交際を禁止され、昭和30年(1955)、宅見と晴子は駆け落ち同然で大阪へと移った。

 (2)、渡世入り

  ①、渡世入り

   ・大阪で宅見は定職のない日々を過ごしていた。宅見のアパートの近くに土井組系川北組の組事務所があった事から、宅見は同組幹部・岩名威郎と懇意となり、岩名の誘いで、土井組系川北組組長と盃をかわして若い衆となった。

  ②、南大阪氷業

   ・宅見は、川北組長の世話で、「南大阪氷業」を開業した。さらに、キャバレーのボーイから石田日出夫や望戸節夫などの人材をスカウトし、川北組内で宅見グループを作っていった。

  ③、川北組若頭へ

   ・昭和35年(1960)、宅見は川北組の若頭になった。

  ④、川北組の解散

   ・昭和37年(1962)に菅谷政雄の兄が率いる菅谷組と川北組は、シノギをめぐる抗争をし、組員の大量検挙で川北組は解散してしまった。

3、山口組入り

 (1)、山口組入り

   ・昭和38年(1963)、宅見は川北組解散後、当時は珍しい大卒のインテリヤクザであった福井英夫率いる福井組に入った。福井はもともと藤村唯夫率いる南道会の最古参幹部であった。南道会はのちに山口組入りし、山口組系南道会が解散した後は、福井や、中西一男、白神一朝(のちに白神英雄に改名)など南道会幹部が山口組の直系組長にあげられた。その中でも福井は、南道会八人衆の筆頭として勢力を持っていた。

 (2)、南地芸能社設立

  ・福井は、昭和38年(1963)に艶歌師を会員とする南地歌謡クラブを結成し、これを母体に昭和39年(1964)に西日本芸能社を設立、さらに昭和42年(1967)には大阪芸能協会を設立するなど、興行関係のシノギが多かった。この影響からか、宅見も昭和39年(1964)に大阪千日前の風呂屋の二階に南地芸能社を設立し、流しのギター弾きを組織して売上を上納させたり、芸能人を盆踊りなどに派遣したり、キックボクシングの興行を行ったりして莫大な利益を上げ、その利益を福井組組員をはじめ他の組関係者へ事業資金として融資をしていった。

 (3)、宅見組の結成

  ①、宅見組の結成

   ・宅見は昭和40年(1965)に福井組の若頭補佐となった。同年、三重県鳥羽市内に福井組鳥羽支部を開き、宅見が支部長に就任した。これが実質的な宅見組の結成であった。さらに、昭和45年(1970)には福井組の若頭となり、南地芸能社内に宅見組事務所を開いた。

  ②、山口組直参へ

   ・宅見は、当時山口組の若頭であった山本健一に取り入り、昭和53年(1978)1月、親分福井英夫が直系組長のまま、山本健一を推薦人として、田岡から親子盃をうけて、山口組直系組長に取り立てられた。これと同時に、正式に宅見組が立ち上げられた。組員63名でのスタートであった。

4、大阪戦争

 (1)、意義

  ・大阪戦争は、昭和50年(1975)から昭和53年(1978)に起こった、山口組と松田組との抗争である。昭和53年(1978)7月11日に田岡一雄が京都のクラブ「ベラミ」で襲撃を受けて以後、山口組の松田組に対する無差別的な攻撃が始まった。

 (2)、第一次大阪戦争

  ・宅見は第一次大阪戦争には参加していない。しかし、大日本正義団会長・吉田芳弘は西城秀樹の姉と付き合っていたが、この女性を本妻とは別に宅見の愛人とした。ミナミにクラブを経営させたり、ステーキ屋やアクセサリー店を開かせたりした。

 (3)、第二次大阪戦争

  ①、意義

   ・宅見は、経済ヤクザのイメージがあるが、第二次大阪戦争では武闘派の側面を見せつけた。

  ②、杉田組長射殺事件

   ・昭和53年(1978)9月24日、和歌山市内の松田組系福田組事務所を訪れた福田組内杉田組組長を、待ち伏せをしていた山口組系宅見組の組員が銃撃した。杉田組長は翌日に亡くなった。

  ③、宅見組による樫組長宅空爆計画

   ・松田組の樫組長は、自宅にこもっていたので、山口組は全く手が出せない状態であった。そこで山口組系宅見組は樫組長宅の近くに前線基地を設営し、ダイナマイトを積んだラジコンのヘリコプターを飛ばして樫組長宅を空爆する計画を立てた。この計画は実験段階で露見し、宅見組の組員が殺人予備と銃刀法違反容疑で逮捕された。

5、山一抗争

 (1)、福井を引退させる

  ・昭和59年(1984)から山一抗争が始まった。宅見の親分である福井は、山一抗争時に一和会へ移ろうとしていた。宅見は福井を説得して、一和会に行かせずに引退させた。この後宅見は、毎年盆暮れには決まって現金100万円とちょっとした手土産をもって福井の元を訪れ、誠心誠意福井に尽くした。
   
 (2)、若頭補佐になる

  ・岸本組組長・岸本才三や織田組組長・織田譲二らとともに、田岡フミ子の執事役として竹中四代目実現に動いた。しかし、その竹中は宅見を「小型の小田秀」と称し、あまり評価していなかった。よって、今度は若頭に内定した豪友会会長・中山勝正に近づき、中山の推薦で昭和59年(1984)6月、四代目山口組成立時に若頭補佐となった。

 (3)、若頭になる

  ・山一抗争末期には、岸本、野上らと組み、山本健一亡き後山健組を継いでいた渡辺芳則を擁立して五代目組長に据えることに成功した。五代目山口組において宅見は組長代行を望んだが、組長がいながら組長代行はおかしいということで、若頭となった。

6、その他の抗争

 ・平成元年(1989)7月には竹中組との山竹抗争、同年9月には長崎湊会との抗争、同年11月には山形市で極東関口一家佐藤会系とのみちのく抗争、平成2年(1990)2月には札幌市で広島共政会系右翼団体との札幌抗争、同年2月には山口組の東京進出を伴ったニ率会との八王子抗争などを指揮した。

7、暴力団対策法とバブル経済

 (1)、暴力団対策法

  ・平成3年(1991)年、暴力団対策法が施行された。これによって、従来のようなシノギは難しくなり、表企業の買収や合併を通じて合法的に利益を得る企業舎弟やフロント企業が暗躍するようになった。宅見も積極的に表企業へと食い込んでいった。

 (2)、盃外交

  ・平成8年(1996)1月18日、五代目山口組若頭補佐・桑田兼吉、四代目会津小鉄会若頭・図越利次、四代目共政会会長・沖本勲の間で、三兄弟盃が挙行された。さらに、同年9月28日には、五代目山口組組長・渡辺芳則と、三代目稲川会会長・稲川裕紘との間で五分の兄弟盃が交わされた。

8、フランスへ

 ・宅見は、昭和56年(1981)頃から糖尿と肝臓を患っていた。そこで平成4年(1992)にフランスで治療しようとパリに飛んだが、日本大使館の警察関係者から宅見がフランスへ行くとフランスの司法警察に連絡が入り、宅見は「ペルソナ・ノングラタ(好ましくない人物)」に指定されて、飛行機から降りることができなかった。結局、そのまま日本へと帰国した。

9、宅見若頭射殺事件

 ・平成9年(1997)8月28日、新神戸駅近くのオリエンタルホテルで、宅見、総本部長・岸本才三、副本部長・野上哲男が談笑していたところ、宅見が射殺された。さらに、流れ弾が近くにいた歯科医師にあたり、この歯科医師も死亡した。なお、宅見は30年来糖尿と肝臓を患っており、平成8年(1996)10月に肺炎も併発し、生死の境をさまよっていた。余命はあと半年か1年とみられており、中野会に襲撃されなくても、長くは生きられなかったという。享年61歳。

10、力の源泉

 (1)、宅見の才腕

  ・宅見は、時流を読むのがうまかった。福井英夫→山本健一→田岡フミ子→竹中正久(中山勝正)→渡辺芳則と、これはと思う相手には誠心誠意を尽くし、常に主流派に身を置き、勝ち馬に乗り続けた。また、暴力団臭がせず、堅気と社交することができ、約束したことは守る律義さを持ち、まめな気配りができる人であった。
 
 (2)、豊富な資金力

  ①、意義

   ・宅見はバブル期に地上げと株で蓄財をした。その総資産額は3000億円とも言われ、さらにその金を貯蓄するのではなく、どんどん直系組長達に融通し、それが山口組内での力の源泉となっていった。

  ②、シノギのやり方

   ・宅見は、覚せい剤、銃、売春ではなく、大企業から金を毟り取る方法を得意とした。まず、エースと呼ばれる人間を大企業へ送り込み、このエースを仲介人として、金融機関から巨額を借り出させる(暴力団の世界では「借りる」は「貰った」と同じ意味である)、企業に手形を乱発させる、絵画を時価の数十倍で買わせる、預金証書や株の預かり証を偽造してそれを担保に金融機関から金を引き出す等の手法をとった。この結果、イトマン事件では伊藤寿永光がエースとなり、5、6000億円が闇の世界に流れそのうちの3分の1の2000億円が山口組に流れ、大阪府民信組では南野洋がエースとなり、1300億円が闇に流れたという。
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