今回は、『愚連隊伝説』(洋泉社MOOK、1999)より、爆弾マッチ手首斬り落とし事件をまとめます。
1、抗争
昭和9年8月2日 万年東一一派vs山崎松男一派
2、万年東一とは
(1)、グループの結成
・万年東一は、明治41年に山形県で生まれた。大正8年、万年が11歳の時に万年家は東京に出てくる。万年は10台半ばから愚連隊の道に進み喧嘩三昧の日々を送っていた。やがて万年の周りに人が集まり、万年の筆頭舎弟格である小池農夫男の新婚所帯であった、中目黒のアサクラアパートをグループの根城とするようになった。
(2)、新宿へ
①、当時の新宿
・昭和初期の新宿は、一大盛り場として香具師、愚連隊、不良、院外団などが群雄割拠でしのぎを削っていた。また、新宿には小金井一家新宿貸元で関東八人衆と言われた大親分、平松兼三郎がいた。
②、万年一派新宿へ
・万年東一は平松兼三郎にかわいがられ、客分のような形で平松のもとに出入りしていた。そして、平松の跡目養子に決まった鈴木武雄の用心棒として、昭和8年秋頃に万年一派は中目黒から新宿に移り、新宿二丁目の文化ハウスというアパートを根城とした。
③、山崎松男一派
・万年一派は新宿で喧嘩をやり、めぼしい愚連隊を次々を屈服させて新宿を制圧していった。そして、最後に立ちはだかったのが、山崎松男一派であった。
3、山崎松男とは
(1)、「爆弾マッチ」
・山崎松男は、22歳の時に土方連中ともめて喧嘩となった時に、単身飯場に乗り込み、ダイナマイトを投げ込んで爆発させ、飛び出してきた連中に日本刀で斬りかかる事件を起こした。これにより、山崎松男は「爆弾マッチ」と呼ばれるようになった。
(2)、小金井一家の縄張りを荒らす
・山崎松男一派は万年一派が新宿に来るまで、新宿愚連隊社会に君臨していた。怖いものなしで相手が愚連隊であろうが、テキヤであろうがお構いなく喧嘩をしていった。やがて、小金井一家新宿貸元の平松兼三郎の縄張りまで荒らすようになった。
4、爆弾マッチ手首斬り落とし事件
(1)、平松兼三郎の小言
・山崎松男一派に縄張りを荒らされるようになった平松兼三郎は、新宿二丁目の事務所で万年とお茶を飲みながら、「近頃の愚連隊は、少しばかし、悪ふざけがすぎるようだな」と小言を言った。これを聞いた万年は、平松が万年に山崎松男を襲撃しろと命じたと判断した。
(2)、爆弾マッチ手首斬り落とし事件
①、発見
・昭和9年8月2日、万年一派の大光と小光が、新宿二丁目のカフェー「黒猫」前で、平松の跡目養子である鈴木武雄を取り囲んで因縁をつけている山崎松男一派を発見した。大光と小光はすぐに、万年一派の根城である文化ハウスに戻り、日本刀と短刀を持ち出して、カフェー「黒猫」へ向かい、山崎松男一派と対峙した。
②、喧嘩
・山崎松男は懐に隠し持っていた拳銃を抜こうとしたが、小光の短刀が山崎の腹を突き、大光の日本刀が山崎の左腕を切り落とす方が早かった。山崎は左手首を切り落とされてしまった。
(3)、自首
・喧嘩のあと、関係者は淀橋警察署へ自首をし、大光は懲役1年6ヶ月、小光は懲役6ヶ月、万年は執行猶予がついた。
5、山崎松男の返し
・3ヶ月あまりの拘禁生活から解放された万年の放免祝いが料亭で行われたが、この場に山崎松男が殴り込みをかけた。山崎松男と万年は対峙したが、山崎は万年を拳銃で撃つことができなかった。
6、手打ち
・新宿大木戸の料亭で、万年と山崎の手打ち式が行われた。
7、友情
・手打ち以後、山崎と万年一派は親しく付き合うようになった。特に小光と山崎は仲が良く、新宿の雀荘で麻雀をやっているとき、小光はいつも左手首がない山崎のために牌を積んでやっていた。山崎は昭和23年に42歳で亡くなったが、この葬儀の葬儀委員長を務めたのは小光であった。