ヤクザ組織小史 親和会

 今回は、『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)と「実録・ドキュメント893 伝説の親分 細谷勝彦 初代高松親和会会長」より、香川県高松市の親和会の歴史をまとめます。

1、意義

 ・四国で唯一一本独鈷を貫く、精鋭武闘派組織。

2、北原組

 (1)、意義

  ・北原組は、本多会会長・本多仁介の舎弟である高松の博徒・北原伝次郎が結成した博徒組織である。

 (2)、渡世入り

  ・昭和6年(1931)に神戸に生まれた初代親和会会長・細谷勝彦は、16歳の時に両親の故郷である高松に戻り、まもなくして、この北原の盃を受けて渡世入りをした。

 (3)、太政官との抗争

  ・細谷が渡世入りした頃、高松には太政官というヤクザ組織が大きな勢力を持っていた。昭和23年(1948)、太政官と北原組の抗争で、細谷は相手組員を日本刀で切りつけ、瀕死の重傷を負わせて殺人未遂で服役した。昭和29年(1954)に出所した。

 (4)、北原組の解散

  ・北原が政界入りし市議になり、昭和34年(1959)4月、北原組は娘婿の柴田敏治が継承した。しかし、その柴田も市議選立候補を表明して、昭和40年(1965)に北原組は解散をした。

3、初代・細谷勝彦

 (1)、親和会の結成

  ・細谷は解散した北原組の地盤を継いで、昭和40年(1965)に親和会を結成した。親和会とは「親のもとに和をもって集まる」という意味である。

 (2)、若林組との抗争

  ①、若林組とは

   ・太政官香西支部長であった若林暲が、昭和33年(1958)に、団体等規制令で解散となった旧太政官の組員を集めて結成したのが若林組である。昭和37年(1962)8月には若林が三代目山口組若頭・地道行雄から舎弟盃をうけて地道組に加入した。これが香川への山口組進出となった。昭和39年(1964)には三代目山口組組長・田岡一雄から親子盃をうけて直参に昇格した。

  ②、昭和46年の抗争

   ・昭和46年(1971)7月、若林組副組長と親和会組員がクラブで些細なことで喧嘩となり、双方に助っ人が駆け付けて大乱闘となった。親和会幹事長・篠浦茂夫が若林組副組長を刺殺し大抗争となった。

  ③、高松抗争

   ア)、原因

    ・昭和57年(1982)、親和会幹部・竹内寛と若林組若頭が車の接触を原因として乱闘となった。話し合いの最中に若林組事務所に向かって発砲をし逃走した。若林組副会長の断りによっていったんは収まるも、抗争は激化していった。

   イ)、抗争の拡大

    ・喫茶店における親和会組員と若林組組員の喧嘩口論に端を発し、竹内らが若林組事務所前で組員に発砲をした。さらに竹内らはパトカーがいなくなった後再び相手事務所の玄関の扉を破り、中にいた数名に発砲をし、若林組若頭を射殺、同組員に重傷を負わせた。

    ・この事件の4ヶ月後、竹内らの裁判を傍聴していた親和会組員を、待ち伏せをしていた若林組組員2人が襲撃し、親和会組員2名が重傷を負った。

   ウ)、和解

    ・阪神懇親会の仲裁によって和解が成立した。

 (3)、新高松抗争

  ①、親和会幹事長射殺事件

   ・昭和59年(1984)5月15日、三代目山口組系小田秀組内四代目中津川組幹部らに親和会幹事長・篠浦茂夫が射殺された。

  ②、四代目中津川組幹部射殺事件

   ・昭和59年(1984)5月26日、親和会幹部・西村辰也と同会組員・吉良博文が、四代目中津川組幹部2人を射殺した。

  ③、手打ち

   ・この時は、四代目砂子川組組長・山本英貴、二代目大日本平和会副会長・山中武夫の仲裁によって、手打ちが成立した。

 (4)、「船上の四兄弟盃」

  ①、「船上の四兄弟盃」

   ・昭和61年(1986)、三代目共政会会長・山田久、侠道会会長・森田幸吉、波谷組組長・波谷守之、親和会会長・細谷勝彦の4人が、三代目浅野組組長・串田芳明の取り持ちで、兄弟盃を交わした。当時は山一抗争の真っ只中でありヤクザに対する締め付けが厳しかったので、フェリーを貸し切って瀬戸内海の洋上で盃儀式が挙行された。

  ②、五社会

   ・反山口組色が強かった「関西二十日会」が発展的に解消され、新たに平成元年(1989)に「西日本二十日会」が結成された。平成2年(1990)に、山波抗争による波谷組の脱退により西日本二十日会は解散したが、その後は、「船上の四兄弟盃」の縁もあって、共政会、侠道会、合田一家、親和会、浅野組の五団体が「五社会」を結成した。

 (5)、指定暴力団となる

  ・平成4年(1992)、四国で唯一、指定暴力団に指定された。

4、二代目・吉良博文

 (1)、長期服役からの社会復帰

  ・吉良は、新高松抗争で2人を射殺し、懲役18年を満期で務め上げて、平成14年(2002)に社会復帰をした。

 (2)、襲名

  ・平成17年(2005)、細谷初代が新設された「総裁」とに就任し、吉良が二代目会長を襲名した。なお、細谷総裁は、平成20年(2008)に総裁職を退き引退した。

 (3)、六代目山口組幹部・光安克明との五分の兄弟盃

  ・平成19年(2007)、吉良は、六代目山口組幹部・光安克明と、五分の兄弟盃を交わした。この盃儀式は、山口組総本部で行われ、双方の最高幹部だけでなく、五社会加盟のトップ・最高幹部も列席した。これによって、五社会加盟団体のすべてが、六代目山口組の親戚・友好団体となった。

 (4)、六代目山口組への年末挨拶中に倒れる

  ・平成27年(2015)に山口組が分裂した。平成29年(2017)12月6日、六代目山口組総本部へ年末の挨拶に訪れた吉良が倒れ、緊急搬送された。

 (5)、吉良会長

  ・平成27年(2015)1月25日に開かれた、山口組創立百年の記念式典での吉良会長です。小林旭のあれからを歌っています。吉良会長はキャラが濃いので目立ちますね。



ヤクザ組織小史 浅野組

 今回は、『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)より、浅野組の歴史をまとめます。

1、意義

 ・岡山県笠岡を本拠とする組員が強い絆で結ばれた組織。徹底したモンロー主義を貫き他団体が侵食してくれば組織を潰しても徹底的に闘うという方針をもつ。

2、来歴

 (1)、初代浅野眞一

  ①、大山組

   ・昭和20年頃、大山国男親分が笠岡を中心として大山組を結成する。この大山組の幹部であったのが浅野眞一である。

  ②、結成

   ・大山親分は昭和27年(1952)に引退した。その後、昭和29年(1954)から昭和30年(1955)にかけて、地元組織が激しくぶつかり合った「備後事件」の過程で、浅野によって立ち上げられ、この地域の組織をまとめて浅野組が結成されていった。

  ②、広島抗争とのかかわり

   ・仁義なき戦いで有名な広島抗争に浅野は深く関わっている。第三次抗争においては、三代目共政会会長・山田久の後見人として一緒にあいさつ回りをしているときに襲撃されている。

  ③、山口組との関係

   ・広島抗争終結後は、三代目共政会会長・山田久、侠道会会長・森田幸吉ら「関西二十日会」の首脳とともに、三代目山口組組長・田岡一雄の見舞いをし、山口組との友好関係を構築した。

 (2)、二代目日田義男

  ・浅野初代が昭和54年(1979)に病没したので、若頭を務めていた日田義男が二代目を継承した。

 (3)、三代目串田芳明

  ①、就任

   ・日田二代目は昭和58年(1983)に病気療養のために引退をした。よって、浅野初代のもとで部屋住み修行をしていた側近中の側近であり、若頭を務めていた串田芳明が三代目を継承した。34歳での継承であり、全国最年少の組長であった。

  ②、「船上の四兄弟盃」

   ・昭和61年(1986)、三代目共政会会長・山田久、侠道会会長・森田幸吉、波谷組組長・波谷守之、親和会会長・細谷勝彦の4人が、串田の取り持ちで、兄弟盃を交わした。当時は山一抗争の真っ只中でありヤクザに対する締め付けが厳しかったので、フェリーを貸し切って瀬戸内海の洋上で盃儀式が挙行された。

  ③、五社会

   ・串田は、反山口組色が強かった「関西二十日会」が発展的に解消し、新たに平成元年(1989)に「西日本二十日会」が結成される上で、中心的な役割を果たした。平成2年(1990)に、山波抗争による波谷組の脱退により西日本二十日会は解散したが、その後は、「船上の四兄弟盃」の縁もあって、共政会、侠道会、合田一家、親和会、浅野組の五団体が「五社会」を結成した。

  ④、友好関係の構築

   ・平成2年(1990)に、稲川会理事長・稲川裕紘と兄弟盃を交わした。

   ・平成18年(2006)、六代目山口組組長・司忍と代紋違いの舎弟となった。

  ⑤、葬儀

   ・平成22年(2010)に串田は急逝した。



 (4)、四代目森田文靖

  ・平成22年(2010)、串田三代目体制で若頭を務めてきた森田文靖が四代目を継承した。その継承式では、六代目山口組若頭・高山清司が後見人となり、五社会加盟の頭首が列席した。

 (5)、五代目中岡豊

  ①、就任

   ・平成27年(2015)11月、舎弟頭の中岡豊が五代目を継承し、再び六代目山口組若頭・高山清司が後見人となった。

  ②、山口組分裂の影響

   ・平成27年(2015)、六代目山口組は、弘道会を中心として六代目山口組と、山健組を中心とした神戸山口組に分裂した。浅野組は、串田三代目時代から山健組と親密な関係を築いてきた。これに対して六代目山口組は、平成29年(2017)に最高幹部らが五代目浅野組本部を尋ね、これまでの後見および親戚付き合いを解消することを通達した。

  ③、総裁制へ

   ・平成30年(2018)、浅野組は総裁制を採用し、中岡は総裁へ、五代目体制で若頭をつとめていた重政組組長・重政宜弘が組長に就任した。


ヤクザ組織小史 侠道会

 今回は、『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)より、侠道会の歴史をまとめます。

1、高橋組

 ・山陽道で名うての博徒として知られる高橋徳次郎の高橋組が侠道会の前身である。高橋は昭和26年(1951)に引退して尾道市議となり、さらに、昭和30年(1955)には広島県議会議員となった。しかし、昭和42年(1967)に野球賭博容疑で高橋他高橋組の主要幹部が逮捕されたことにより、高橋組は壊滅状態となった。

2、侠道会

 (1)、初代森田幸吉

  ①、出生

   ・森田は、高知県いの町出身で、学徒動員により尾道の造船所で勤労奉仕をした。終戦後も尾道に残り、高橋組組長・高橋徳次郎の若衆となった。

  ②、横江組と森田組

   ・高橋組壊滅後、旧高橋組の勢力は、賭場は横江組組長・横江利雄が、興行は森田組組長・森田幸吉が受け継いだ。両親分は仲のいい兄弟分であったが配下の組員達は反目を強めていった。

  ③、侠道会結成

   ・昭和44年(1969)に、横江が引退をして旧高橋組勢力は森田を中心に糾合して侠道会が結成された。森田は博打は打たなかったが興行の才能があり、こまどり姉妹、石川進、畠山みどりなどを手がけた。昭和45年(1970)に高知支部を設置したのを初めとして、四国や九州へ勢力を広げていった。

  ④、広島抗争

   ・森田は、広島の打越会若頭・山口英弘と義兄弟であったことから、仁義なき戦いで有名な広島抗争にも深くかかわりをもった。兄弟分である山口(英)の地盤を引き継いだ十一会の梶山派が、三代目共政会会長・山口久、同副会長・原田昭三、浅野組組長・浅野眞一の乗った車を襲撃したことから起こった第三次広島抗争に参戦した。これは、昭和47年(1972)、波谷守之の奔走によって手打ちが成立し、山田、波谷、森田の三人で兄弟盃を交わした。後に親和会会長・の細谷勝彦も加えて四人盃となった。

  ⑤、山口組との抗争

   ・広島抗争と同時期に、高知にある山口組系豪友会との間でも抗争が起こった。この時は森田が三代目山口組組長・田岡一雄を訪問し、その後に豪友会会長・中山勝正ら山口組首脳と会食して平和共存の話し合いをした。しかし、昭和54年(1979)に元山口組系組員が侠道会会長代行・元中敏之を射殺する事件が起こった。この時も、元中の葬儀に田岡の名代として中山が参列して平和共存を模索し、同年4月に、侠道会、共政会、浅野組の首脳が田岡を見舞うことで関係の修復を確認した。

  ⑥、山口組との関係修繕

   ・森田は反山口組連盟とみられていた「関西二十日会」において山口組との窓口となった。昭53年(1978)におきた関西二十日会所属の木下会と山口組との抗争(姫路事件)で、一時関西二十日会と山口組の関係が途絶えるが、昭和63年(1988)に森田と当時山口組若頭であった渡辺芳則が話し合いをして関係を修復し、平成元年(1989)の五代目山口組継承式では、森田が推薦人に名を連ねるまでになった。

 (2)、二代目森田和雄

  ・平成元年(1989)、森田は自らは「総裁」となり、跡目は実弟の森田和雄に譲った。しかし、その後すぐに森田が亡くなったので、襲名式は平成3年(1991)に執り行わた。森田和雄は、盃直しなどの体制固めを行い、外には「五社会」に加盟するなど平和共存路線を進めた。

 (3)、三代目池澤望

  ①、就任

   ・平成13年(2001)、森田和雄は「総裁」に就任して、二代目体制で長く理事長を務めてきた高知池澤組組長・池澤望が三代目に就任した。池澤は、初代、二代目と同じく高知県いの町出身である。



  ②、総本部の新築

   ・平成14年(2002)、侠道会は大広間を供えた総本部を新築した。

  ③、山口組との平和共存路線

   ・池澤は平成19年(2007)に六代目山口組若頭補佐で中国・四国ブロック長を務めていた侠友会会長・寺岡修と五分の兄弟分となった。この盃儀式には六代目山口組組長・司忍が後見人、同若頭・高山清司が取持人となった。



  ④、総裁へ

   ・平成30年(2018)、侠道会は総裁制となり、池澤総裁ー佐藤光司会長体制となった。

3、映像

 ・実録・日本やくざ烈伝 義戦シリーズ


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